2006年、福岡市で飲酒運転によって3人の子供が死んだという事件があった。
この事故をきっかけに道交法が2007年6月に改正され、ひき逃げの最高刑は懲役5年から10年に、飲酒運転(酒酔い)では3年から5年に引き上げられた。
飲酒運転をそそのかしたり、車両や酒類を提供する行為への罰則も新たに盛り込まれた。
ところが先月の新聞には、父親である大上哲央さんのこんな話が載っていた。
この記事だけでは厳罰化についての大上さんの気持ちはわからない。
しかし、厳罰化が事故防止のために効果あるかどうか、疑問を感じておられることはたしかだと思う。
第三者である我々が厳罰化を求めるのは、再発防止や加害者の更生などではなく、単なる応報感情、処罰感情にすぎないのではないか。
お父さんがお母さんの面前で射殺されたれたが、今は犯罪被害者家族の死刑廃止団体MVFR代表をされているレニー・クッシングさんが、「父が殺されたことについてとても怒っていました」が、友人から「犯人が早く死刑になればいいね」と言われてショックを受けたと講演で話された。
被害者感情がことさら強調され、被害者感情=厳罰化だとされているが、被害者の気持ちはそんな単純なものではないのだろう。
怒り、恨み、憎しみとともに、こういう事件が二度と起こらないでほしいという願いがあると思う。
再発を防ぐためにどうしたらいいのか、感情論だけでは答えは出ない。
この事件の裁判で、こんな記事があった。
検察側は、3人の両親の大上哲央さん(34)、かおりさん(30)の供述調書を証拠として申請、採用された。調書の中で、かおりさんは「絶対に(同罪とひき逃げを併合した最高刑の懲役)25年の刑が下されることを確信しています。1年でも短ければ犯人を私が殺します」と訴えた。(2007年9月4日14時8分 読売新聞)。
お子さんを亡くされたお母さんの「殺します」という気持ちは当然のことだと思う。
しかし、これは一種の殺人予告である。
検察が裁判で朗読し、マスコミが報道していいものだろうか。
たぶん検察としては、被害者の心の傷は深いことを訴えようとしたんだと思う。
しかし、「裁判の結果次第では覚悟しとけよ」という脅しと受け取られるかもしれない。
復讐を認めるべきだという意見の人もいる。
たとえば、竹田恒泰は死刑について聞かれ、敵討ちを認めるべきだと答えた。
受けを狙っただけかもしれないが、実行に移す人間が出てきたらどうするつもりか。
殺人予告を平気で流すメディアは何を考えているのだろうかと思う。
でも、こういう発言をする事で、何か、検察官や裁判官を結果的に脅迫している感じで違和感がありますね。
復讐権を認めろ・・・と言う人が他ブログでも多いですけど、被害者遺族には、病気で動けなかったりして、全員が復讐のスタートに同時点にいる訳でもないし、ましてや全員が目的を遂げられる訳でもないですね。下手したら、復讐を認めたら、それが肉体的精神的に負担になり生活が破綻してしまう場合も出てきそうです。
また、被害者側が復讐した際に、復讐方法によっては、無関係の人の命を奪ってしまう恐れがありますね。そんな時は、どうするのでしょうかね。
第三者は面白がるだけですからね。
大上さんのご主人のほうは
「厳罰化については「必ずしも事故の減少につながるとは思わない。厳罰化すればするほど事故現場から逃げる人が増えるのではないかと思う」との懸念も示した」
とあり、また、
「「(被告から)保釈後に謝罪の手紙は受け取った。公判の決着がつくころには会ってもいいのかなと思う」と述べた」
とあります。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/p20070820k0000m040074000c.html
奥さんの「私が殺します」という発言とズレがあるように感じます。
検察は奥さんの承諾を得ているのかなと思いました。
うーん、この事件の被告。10代の自分の気持ちによく似ています。辛いことを経験したから、自殺するか、このまま発狂してしまうか、それとも恨みのある他人を殺してから死ぬか。。。何てことを自分も考えていました。
まさに自暴自棄。私が死刑廃止をストレートに肯定できないのは、この10代のときの厭世観が残っているからですね。
自分で死ぬのは、とても怖い。だから悪いことをやって死刑になって死ぬ。こういう考え方を持っていました。自分はどうせ誰にも相手にしてもらえない。苦しさを共有してくれる相手もない。
だったらとっとと殺してくれ、と。
10年ちょっとまえに橘いずみという歌手が歌っていた歌詞。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/freakbeatfreak/izumi.htm
>あなたは失格! そうはっきり言われたい
というのって、実に的をついてた。
「松村被告は「何年も前から人生が楽しくなく破滅を望んだが、恨みのある奴を殺してから死のうとエスカレートした。伯母を標的にした後、自殺を図ったが、何で私だけが苦しいのかと怒りに燃え、一人暮らしで襲いやすい大叔父を殺した」と述べて起訴事実を大筋で認めた。」
とあります。
宅間守ら、自殺願望から殺人を犯した人を死刑にしたって、抑止効果がないどころか、同じような事件を引き起こしかねません。
この点も死刑を廃止する論拠の一つになると思います。
こないだ、仕切りたがりの性格のきつい人と飲んでいて、「人が自分のことをどう思っているか気になる」ということを言うのにはいささか驚きました。
この人はひょっとして自分に自信がないんじゃないかと思ったわけです。
私も似たようなとこがあるので、何だか共感してしまいました。
「あなたは失格!」と言われたら、かえってホッとする部分があるように思いました。
これは、死刑を廃止するか存置するか。そのことが、殺人を抑止できるか、できないかという社会システムの問題として建てられていると思います。
「殺人→死刑」というプロセスが宅間被告にとっての「救い」だったのでしょう。とても哀しいことですね。
それはほんとうに彼にとっての救いだったのか。他に選択肢がはたして無かったのか。そのことを教えてくれる人はいなかったのだろうか?
そういう実存に関わる問題として、上記の書き込みで提起しました。
やはり夫婦間でも、それぞれが育ってきた環境の違いも左右されるし、奥さんはお腹を痛めた子供の事ですから、大上さんに限らず、他の遺族の方でも夫婦間のズレ、意見の相違はある様ですね。
報道のお話も出ましたが、被害者遺族が辛い事のひとつに、警察からではなく、テレビの放送や取材の記者によって、身内が殺された事を知らされた時らしいですね。
それと、やはり長い事件になると、記者の転勤や担当替えがあるので、後任の記者は酷いケースだと事件の概要も知らずに取材に来て、被害者遺族は、再び最初から取材に答えなければならず、それが負担になるんですね。
私はこういう事があるのは知りませんでしたねぇ。
殺人にかぎらず、犯罪の抑止として厳罰は意味がないそうです。
死にたいから犯罪を犯すという人が増えている気がします。
実際のところどうなのかは検証していませんから、以前もそういう人はいたかもしれません。
自殺願望の裏返しとしての殺人にどう対処するのか、そこは自殺防止と合わせて真剣に考えていかないといけない問題だと思います。
AAで酒がとまった人は、AAで話をする、話を聞くことでとまっているわけですね。
自殺願望のある人もそういう場があれば違ってくると思うのですが。
ただ、どうやって来てもらうかですよね。
>京都8月2日さん
奥さんが「殺します」と言ったこと、あれでは脅迫でしょ。
そこだけを取り上げて裁判で陳述するのは間違いだと思います。
どういう文脈で「殺します」という言葉が出たのか、それはいつのことなのか、奥さんは裁判で検察がこの言葉を使うことを承知していたのか、などなど。
光市事件の裁判で、野田正彰氏が「ぼくは死刑になって、弥生さんと夕夏ちゃんと来世で会う。再会したときに弥生さんの夫となる可能性がある。そうなると洋さんに大変申し訳ない」という被告の言葉を紹介しています。
これだけを取り上げたら、何を言っているんだということになります。
しかし、野田氏は何時間も証言しているわけで、その流れでのこうした発言は不自然とは感じなかったとある人から聞きました。
被告が拘置所から出した手紙にしても、今枝弁護士がコメントを書いています。
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_6056.html
「A君は、検察に「こういう手紙をもらっている」として被告人の手紙を提出しながら、並行して、被告人に手紙を書き、その中で被告人を挑発し、誘惑してことさら不謹慎な手紙を書かせています」
というのですから、ひょっとしたら検察がA君に指示したという可能性もありますね。
報道による二次被害ということがあります。
マスコミは事実を報道するのは義務なのかどうか、伝えるべきではない事実もあるわけでしょう。
被害者感情と簡単に言われますが、第三者は安易に「被害者感情」という言葉は使うべきではないと思います。
殺人を行った人が「相手は誰でも良かった」、と発言しそれを報道することが多いように思うのですが。
これは不安を煽られますね。人に恨みを買うということがありますが、特定個人に恨まれなくても、いつ通り魔殺人に巻き込まれるかもわからない。。。ということで治安維持→厳罰化という意識が刷り込まれていくのでしょうね。
特に、一般の人が書かれた本村さんの事を扱ったブログでも、本村さんを気遣っている様で、文末に、
「本村さん、元気で頑張って下さい」
「本村さんは本当に強い人です」
と、時々ありますね。もちろん、書いている人は悪意はなく(私もふと言ってしまいがちですが・・・・)、善意だと思いますが、「頑張って下さい」も傷付ける言葉のひとつだと思います。
これを本村さんが、どのように受け止めておられるかは解りませんが、こういう事ひとつ見ても、そうですね・・・・「被害者感情」という言葉は安易に使えないですね。
>殺人を行った人が「相手は誰でも良かった」、と発言しそれを報道することが多いように思うのですが。
よく目につきますね。
自殺報道があると、続けて自殺する人が増えるようなものなのでしょうか。
「相手は誰でもよかった」とは言っても、詳しく話を聞くと、やはり人それぞれだろうと思います。
報道はうわべをすくい取るだけですからね。
「治安維持→厳罰化」というふうに誰かが誘導しているのかもしれませんぞ。
>京都8月2日さん
本村さんは頑張らなくていいと思います。
頑張ってと励ますことは、本村さんをしんどくさせ、追い込ませるのではないでしょうか。
というのも、本村さんにかぎらず大切な方と死別した人は、多かれ少なかれ罪の意識を持ちます。
そうして、自分を責め、時には他人を責め、苦しい思いをします。
ですから、自分を苦しめることはないんだ、楽になっていいんだよ、と誰か本村さんに言うべきです。
それと「被害者感情」ということですが、前にも書いた原田正治の、
「裁判では、「被害者感情」とか「国民感情」という言葉が使われて、死刑判決が下ります。そして、執行があった時にもその言葉が言われます。そして、それで事件が終わったんだということになるんです。だけど、そう思うのは事件に関係のない人だけです。
肉親を亡くされた人たちはどういう形であれ、心の傷はいつまでも残るんです。それを少しでもわかってもらいたい。ところが、わかろうとする気持ちを持っている人が少ない。
わかったようなことを言いながら人の命をもてあそんでいるのが、今の裁判の場であり、マスコミなんです。そういうことがわかんないまま、何が国民感情か、被害者感情かと思うんですね。
そして、国民感情、被害者感情と言う人にかぎって、自分はそういう事件には遭遇しないんだと思い込んでいます。僕自身もこんなことになるとは夢にも思ってなかったから、そのことはよくわかるんですよ。
そして、第三者的な目で物事を見てるから、本当に被害者の気持ちを受け入れてくれる受け皿がないと思うんです。被害者救済問題についても、その窓口さえもわからない状況です」
「裁判そのものが被害者感情とか国民感情に左右されちゃってる。死刑判決に関してはすごくそんなふうに感じます。
被害者感情と言いながら、はたして被害者の気持ちがわかっているのか、被害者の感情はどこでわかるのか、と言いたくなります。被害者である僕の感情、思いは無視されてしまっているわけですから」
といったお話が私の念頭にあります。
http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/harada.htm