名古屋別院で毎月行われている信道講座の話をまとめた「信道 2005年度」に、宮城顗先生の「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」というお話があった。
宮城顗先生は体調を崩されているから、ひょとしたら先生最後のお話かもしれない。
死と生について語られており、現在の宮城先生を思うと一つ一つの言葉が実に重たい。
お話の中で、筋萎縮即索硬化症になったある住職について語られている。
この病気は、筋肉を動かす神経がはたらかなくなって、だんだんと身体が動かせなくなり、自力呼吸することも難しくなる。
ご住職は人工呼吸器をつけ、お腹から人工栄養を流し込み、ただ寝ているだけである。
ご自宅で療養されているのだが、近所の小学生が見舞いに来てくれた時のこと。
耐えることで何かが得られるとわかっていれば耐える力が出てくる。
死ぬのを待つだけのご住職は何を得ているのだろうか。
「信道 2005年度」には児玉暁洋先生の「地獄(戦争)と餓鬼(欠乏)と畜生(恐怖)の無い国に」というお話もある。
この題名はなんと日本国憲法の前文にある「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」からとられている。
四十八願の最初の願は無三悪趣願、すなわち地獄・餓鬼・畜生のない国をつくりたいという願いである。
なるほど、第一願と憲法の前文がぴたりと重なり合っている。
第九条ばかりが問題にされているが、前文もすぐれものである。
大切にしたい。
児玉先生は御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」にも触れ、「ちょっとわかりにくい。しかし、これは、真宗大谷派に属する全ての人が、教えからの呼びかけとして、各自が応答すべき言葉です」と言われている。
児玉先生の応答の言葉。
真宗の教えを端的に述べられていて、素晴らしい応答だと思う。
だが、児玉先生の言っていることは「本願をいのちとして生きる」ということだから、御遠忌テーマとは違っている。
やっぱりこの御遠忌テーマはおかしい。
御遠忌テーマは「真宗大谷派に属する」人だけのものではない。
だとしたら、まず第一印象として「わかりにくい」とか、「日本語として変だ」と思われるようなテーマはダメだと言わざるを得ない。
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