三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

宮城顗先生と児玉暁洋先生のお話

2006年10月26日 | 仏教

名古屋別院で毎月行われている信道講座の話をまとめた「信道 2005年度」に、宮城顗先生の「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」というお話があった。
宮城顗先生は体調を崩されているから、ひょとしたら先生最後のお話かもしれない。
死と生について語られており、現在の宮城先生を思うと一つ一つの言葉が実に重たい。

お話の中で、筋萎縮即索硬化症になったある住職について語られている。
この病気は、筋肉を動かす神経がはたらかなくなって、だんだんと身体が動かせなくなり、自力呼吸することも難しくなる。

ご住職は人工呼吸器をつけ、お腹から人工栄養を流し込み、ただ寝ているだけである。
ご自宅で療養されているのだが、近所の小学生が見舞いに来てくれた時のこと。

一人の男の子が「おじちゃんはなんもできひんのやなあ」とこういったというのですね。そしたら何か書きたそうにするので奥さんが色紙を出したらそれに「耐えることは出来るよ」と書かれたそうです。

耐えることで何かが得られるとわかっていれば耐える力が出てくる。
死ぬのを待つだけのご住職は何を得ているのだろうか。

「信道 2005年度」には児玉暁洋先生の「地獄(戦争)と餓鬼(欠乏)と畜生(恐怖)の無い国に」というお話もある。
この題名はなんと日本国憲法の前文にある「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」からとられている。

四十八願の最初の願は無三悪趣願、すなわち地獄・餓鬼・畜生のない国をつくりたいという願いである。

畜生は恐怖だ、餓鬼は欠乏だ。畜生は恐怖だというのは、源信和尚の『往生要集』を読むと、畜生について「常に怖懼を懐けり」と書いてある。餓鬼が欠乏だということはわかる。そして一番最初の戦争。文字通り、人と人とが殺しあうという関係、それが地獄である。

なるほど、第一願と憲法の前文がぴたりと重なり合っている。
第九条ばかりが問題にされているが、前文もすぐれものである。
大切にしたい。

児玉先生は御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」にも触れ、「ちょっとわかりにくい。しかし、これは、真宗大谷派に属する全ての人が、教えからの呼びかけとして、各自が応答すべき言葉です」と言われている。

児玉先生の応答の言葉。

南無阿弥陀仏を真実の自己として発見し、如来の本願を我がいのちとして生きかつ死す。

真宗の教えを端的に述べられていて、素晴らしい応答だと思う。
だが、児玉先生の言っていることは「本願をいのちとして生きる」ということだから、御遠忌テーマとは違っている。
やっぱりこの御遠忌テーマはおかしい。

御遠忌テーマは「真宗大谷派に属する」人だけのものではない。
だとしたら、まず第一印象として「わかりにくい」とか、「日本語として変だ」と思われるようなテーマはダメだと言わざるを得ない。

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