末木文美士『仏教vs.倫理』に、『法華経』の主題の一つは、「仏の滅後、死者としての仏とどう関わることができるか」という問題だとある。
釈尊在世中の仏弟子にとって、釈尊が死んだらどうしたらいいのかということは大きな問題だったはずだ。
となると、死者としての釈尊とどのように関わるべきか、という問いは、仏教徒にとって重要な課題である。
その答えが『法華経』にあると末木文美士氏は言う。
私たちは釈尊たちの死んだ後の世界を生きている。
死後の世界を生きるということは、死者としての釈尊と対話を続けることであり、そうすることが仏教徒のあり方だろうと思う。
どんな死者であろうと、死者との対話の中にその人の死後の世界を私が生きていくということがあるはずだ。
死んだらおしまいだと考えることが、死者を忘れることになり、そして死者の否定となってはいけない。
末木文美士氏は、死者との関わりということから葬式仏教の大切さを説く。
そして、死者との関わりという意味で、靖国神社をこのように認めている。
このように、戦死者という限定はあっても、まったく普通の死者を祀っているという点で、靖国神社は葬式仏教の果たしている役割を取り込んだものということができる。
靖国神社は葬式仏教的だというわけである。
神道では、死んだらすべての人がすぐに神になるわけではない。
普通の死に方をした人だと、死後33年が経って先祖霊と一体化し、さらにお祀りを続けることで氏神となる。
ところが、靖国神社では戦死したらただちに神として祀っている。
これは、死んだらホトケという感覚と近いことはたしかである。
死者がホトケになるとはどういうことがはっきりしないと、なんでもみんな一緒ということになってしまう。
「小森龍邦さんの対談を聞く会」というのに行ってきた。
対談の相手は高橋哲哉東京大学教授で、高橋哲哉氏の話は面白かった。
以下、高橋哲哉氏のお話をメモから。
戦後民主主義のメッキがはげてきて、日本人の地金が出てきた。
地金とは帝国の遺産で、ヤスクニ、日の丸・君が代、天皇制などである。
帝国の遺産がリサイクルされ、日本人のアイデンティティとされている。
「憲法を守れ」と言うと、なぜか反体制と見なされる。(ここで笑)
憲法の理念が地金となっていない。
考えてみると、憲法改正反対と声をあげると、この人は片寄っていると思われるのは不思議なことである。
まして国家公務員である高橋哲哉氏が憲法を守るべきだと言うことに何の問題もなく、賞賛されこそすれ、非難される筋合いはない。
しかしながら、高橋哲哉氏はネット上でボロクソに言われているそうで、どこかおかしいとしか言いようがない。
それと、哲学について言われたことのメモ。
哲学とは自分の頭で考えることである。
思考をストップさせない。
だから、考える自由を大切にしたい。
非難者は、自分は正しいという思考停止状態に陥りがちである。
あるいは、神も仏も結局は同じなんだという思考停止もある。
戦争で亡くなった人たちが私たちにどういう言葉を残しているのか、その言葉を聞かないといけない。。