三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「国家と対峙しつづけるために」

2006年10月22日 | 戦争

末木文美士『仏教vs.倫理』に、『法華経』の主題の一つは、「仏の滅後、死者としての仏とどう関わることができるか」という問題だとある。
釈尊在世中の仏弟子にとって、釈尊が死んだらどうしたらいいのかということは大きな問題だったはずだ。
となると、死者としての釈尊とどのように関わるべきか、という問いは、仏教徒にとって重要な課題である。

仏が亡くなり、過去の存在となったからといって、仏から離れることができるわけではない。仏はその不在をもって迫る。


その答えが『法華経』にあると末木文美士氏は言う。

強力な他者=死者の姿を如来寿量品の久遠実成の釈尊と解すべきである。


私たちは釈尊たちの死んだ後の世界を生きている。
死後の世界を生きるということは、死者としての釈尊と対話を続けることであり、そうすることが仏教徒のあり方だろうと思う。
どんな死者であろうと、死者との対話の中にその人の死後の世界を私が生きていくということがあるはずだ。
死んだらおしまいだと考えることが、死者を忘れることになり、そして死者の否定となってはいけない。

末木文美士氏は、死者との関わりということから葬式仏教の大切さを説く。

日本には、相当に形骸化してしまったとはいえ、まだ葬式仏教を基盤として死者との対話の可能性が残されている。

そして、死者との関わりという意味で、靖国神社をこのように認めている。

靖国神社は、過去の神社と性格を異にしている。その祭神は戦死者で、確かに戦争によって人為的に生命を絶たれたのであるから、怨みを持っていることもあるであろうし、政治的な意図で祀られたという点では、権力者を祀った神社と近いところがある。しかし、そうした要素はあるものの、基本的にはまったくふつうの国民であり、特別な御霊でもなく、権力者でもない。(略)
このように、戦死者という限定はあっても、まったく普通の死者を祀っているという点で、靖国神社は葬式仏教の果たしている役割を取り込んだものということができる。

 

仏教が戒名に金銭で差別をつけて平気でいるのに対して、神道ではみな平等であり、靖国神社においても、一兵卒も将軍もまったく同じように祀られている。その論理からすれば、A級戦犯であっても差別はされないのは当然である。小泉首相が「死ねばみな仏」と言ったのは、神と仏の言葉の上での混乱はあるものの、その限りでは正しいと言わなければならない。

靖国神社は葬式仏教的だというわけである。

神道では、死んだらすべての人がすぐに神になるわけではない。
普通の死に方をした人だと、死後33年が経って先祖霊と一体化し、さらにお祀りを続けることで氏神となる。
ところが、靖国神社では戦死したらただちに神として祀っている。
これは、死んだらホトケという感覚と近いことはたしかである。
死者がホトケになるとはどういうことがはっきりしないと、なんでもみんな一緒ということになってしまう。

「小森龍邦さんの対談を聞く会」というのに行ってきた。
対談の相手は高橋哲哉東京大学教授で、高橋哲哉氏の話は面白かった。
以下、高橋哲哉氏のお話をメモから。

戦後民主主義のメッキがはげてきて、日本人の地金が出てきた。
地金とは帝国の遺産で、ヤスクニ、日の丸・君が代、天皇制などである。
帝国の遺産がリサイクルされ、日本人のアイデンティティとされている。
「憲法を守れ」と言うと、なぜか反体制と見なされる。(ここで笑)
憲法の理念が地金となっていない。

考えてみると、憲法改正反対と声をあげると、この人は片寄っていると思われるのは不思議なことである。
まして国家公務員である高橋哲哉氏が憲法を守るべきだと言うことに何の問題もなく、賞賛されこそすれ、非難される筋合いはない。
しかしながら、高橋哲哉氏はネット上でボロクソに言われているそうで、どこかおかしいとしか言いようがない。

それと、哲学について言われたことのメモ。
哲学とは自分の頭で考えることである。
思考をストップさせない。
だから、考える自由を大切にしたい。

非難者は、自分は正しいという思考停止状態に陥りがちである。
あるいは、神も仏も結局は同じなんだという思考停止もある。
戦争で亡くなった人たちが私たちにどういう言葉を残しているのか、その言葉を聞かないといけない。。

コメント (7)
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