あらためて言うまでもないが、芥川龍之介『蜘蛛の糸』は、蜘蛛の糸によって救われるはずだったカンダタが、自分だけが救われたいという欲を出したために、地獄に再び堕ちてしまうという話である。
地獄に堕ちたカンダタを見て御釈迦様は、「悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました」。「御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません」
まあ、のんきというか薄情というか。
これじゃいくらなんでも、というので、このあと阿弥陀さんがカンダタに説法し、カンダタは無事、極楽往生する、というアニメを見たことがある。
芥川龍之介もあれじゃまずいと思ったのか、『杜子春』を書いている。
仙人になろうと、老人の言葉に従って、何があっても黙っていた杜子春は、畜生道に堕ち、馬になった父母が地獄の鬼から打たれるのを見、そして母が「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰つても、言ひたくないことは黙つて御出で」と言うのを聞いて、思わず「両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました」。
『蜘蛛の糸』のタネ本は、ドストエフスキイ『カラマゾフの兄弟』の中に出てくる「一本のねぎ」という話だという説があった。(本当のタネ本は鈴木大拙訳『因果の小車』)
グルーシェンカという女が「一本のねぎ」の話をする。
グルーシェンカはカラマゾフ父子を手玉にとる悪女だと思われているのだが、実は心のきれいな女性で、『罪と罰』のソーニャのような聖なる娼婦である。
グルーシェンカは「あたしいけない女だけれど、それでもねぎをあげたことがあるの」と言って、「一本のねぎの話」をする。
そしてグルーシェンカは、「あたしそらで覚えているのよ。だってこのあたしはその意地悪婆さんなんですもの」と言う。
『蜘蛛の糸』と違って、ぐっとくる話である。
守護天使のような、自分のために泣いてくれる人がいるということが救いなのでないか。
そして、杜子春のように、人のために泣けるということが。