三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『蜘蛛の糸』と「一本のねぎ」

2006年10月01日 | 

あらためて言うまでもないが、芥川龍之介『蜘蛛の糸』は、蜘蛛の糸によって救われるはずだったカンダタが、自分だけが救われたいという欲を出したために、地獄に再び堕ちてしまうという話である。

地獄に堕ちたカンダタを見て御釈迦様は、「悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました」。「御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません」

まあ、のんきというか薄情というか。
これじゃいくらなんでも、というので、このあと阿弥陀さんがカンダタに説法し、カンダタは無事、極楽往生する、というアニメを見たことがある。

芥川龍之介もあれじゃまずいと思ったのか、『杜子春』を書いている。
仙人になろうと、老人の言葉に従って、何があっても黙っていた杜子春は、畜生道に堕ち、馬になった父母が地獄の鬼から打たれるのを見、そして母が「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰つても、言ひたくないことは黙つて御出で」と言うのを聞いて、思わず「両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました」。

『蜘蛛の糸』のタネ本は、ドストエフスキイ『カラマゾフの兄弟』の中に出てくる「一本のねぎ」という話だという説があった。(本当のタネ本は鈴木大拙訳『因果の小車』)

グルーシェンカという女が「一本のねぎ」の話をする。
グルーシェンカはカラマゾフ父子を手玉にとる悪女だと思われているのだが、実は心のきれいな女性で、『罪と罰』のソーニャのような聖なる娼婦である。
グルーシェンカは「あたしいけない女だけれど、それでもねぎをあげたことがあるの」と言って、「一本のねぎの話」をする。

昔むかしあるところに、それはそれは意地の悪いひとりのお婆さんがいて死んだの。そのお婆さんは生きているうちにひとつもいいことをしなかったので、悪魔たちに捕まって、火の海へ投げ込まれたの。お婆さんの守護天使は、何か神様に申し上げるような良い行いが思い出せないものかと、じっと立って考えているうちに、ふと思い出して、そのお婆さんが野菜畑からねぎを一本抜いて乞食にやったことがあるのを神様に申し上げたの。すると神様はこうお答えになった。それではその一本のねぎを取って来て、火の海にいるお婆さんに差し伸べてやり、それにつかまらせてたぐり寄せるがいい。もし火の海から引きあげることができたら、天国に行かせよう。でも途中で千切れたら、お婆さんは今いる場所にとどまるのだと。天使はお婆さんのところに走って行ってねぎを差し伸べ、さあお婆さん、これにつかまってあがって来なさい、こう言って、そろそろと引きあげにかかったの。すると、もうひと息で引きあげられるという時に、火の海にいた他の罪人たちが、お婆さんが引きあげられているのを見て、一緒に引きあげてもらおうと、我も我もとお婆さんにつかまりだしたの。お婆さんはそれはそれは意地悪だったので、みんなを足で蹴散らしながら、《引きあげてもらっているのはあたしで、お前さんたちじゃないよ、あたしのねぎで、お前さんたちのねぎじゃないよ》と言ったの。お婆さんはこう言うやいなや、ねぎはぷつりと千切れてしまい、お婆さんは火の海に落ちて、今だにずっと燃えているの。天使は泣く泣く帰って行った。

そしてグルーシェンカは、「あたしそらで覚えているのよ。だってこのあたしはその意地悪婆さんなんですもの」と言う。

『蜘蛛の糸』と違って、ぐっとくる話である。
守護天使のような、自分のために泣いてくれる人がいるということが救いなのでないか。
そして、杜子春のように、人のために泣けるということが。

コメント (10)
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