三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

絶望の天才

2006年04月09日 | 仏教

人は自分のことをよく思いがちだという例を、ロルフ・デーケン『フロイト先生のウソ』はいくつかあげている。
・90パーセントが自分は平均以上のドライバーだと答える
・70%の学生は自分には平均以上の指導力があると思っている
・85%が他人より社交的だと考えている
などなど。

人は、成功や好成績は自分の手柄だと思い、失敗は環境や他人のせいにする傾向がある。
なぜかという説明がおもしろい。
精神の病に苦しむ人々の自己認識は間違っているというよりは正しすぎることのほうが多い。
ウツ病患者はこうした錯覚とは無縁であり、ウツ病の人のほうが現実を正しく把握し、希望的観測に曇らされないクリアな目で将来を予測する。
ところが、自己欺瞞度の高い人ほど精神的に安定しており、自分のことがわからないほうが精神的にはいい。
しかし、健康人も内面に注意を集中させていると、ウツ病患者の状態に近くなる。
そこで人間は、ウツでない状態を保つために現実をポジティブな方向にねじ曲げる。
幻想や粉飾された自己認識が精神の健康にとって不可欠な要素であり、自分のことがわからないほうが健康的なのである。

自分のことをきちんと知ることで病気になるのと、うぬぼれて健全な社会生活を送るのと、はたしてどっちがいいのか。
ウツ病患者が暴力犯罪を起こした事例は皆無と言っていいほどなのに対して、高い自尊意識がしばしば暴力的傾向を助長することがあり、復讐に駆り立てられるのも、高い自尊意識の持ち主(自信家、うぬぼれの強い人)のほうらしい。
となると、ウツ体質の人が多いほうが世の中が穏やかになるわけです。

もう一つ、不愉快な経験は気にしないのが一番だそうです。
たとえば死別。

身近な人と死別した人の生活と健康状態を数年にわたって追跡調査した。
悲しみから目を逸らし、悲しみをほとんど外に表わさないタイプの人のほうが、心身の健康状態は良好だったのである。



なるほどね、苦しまないためには、イヤなことを忘れて考えないようにするのが一番だということです。
何も考えず、疑問に思わずに生きていくことは楽ではあるが、それでは人間としてどうなのかとは思う。
でも、人間らしく生きるためにはウツ状態でなくてはいけないというのも困った話です。

悩まずに楽しく暮らすことを選ぶか、苦悩の中で何かを見出そうとするか、これは性格的なものが大きいと思う。
真継伸彦が「宗教的天才は絶望の天才だ」というようなことを書いていた。
たとえば釈尊である。

なぜ家族や地位や財産やらを捨てて出家したかというと、老人・病人・葬式を見たからという伝説がある。

ほとんどの人は、老人・病人・葬式を見たからといって、一時的に落ち込むことはあっても、自分とは関係がないものとして考えないようにするから、そこまでは悩まない。
年に一万人以上が交通事故で死亡するが、自分もやばいと思ってたら運転などできないし、霊柩車を見るたびにウツになる人はほとんどいないと思う。
他人事だと思っているから、まあ、何とか生きていけるわけで、明日は我が身と真剣に悩んでいたら、ノイローゼになることは間違いない。
たいていの人はいろんな悩み事はあっても、「人生なんてそんなもんだ」と自分に納得させて、ほどほどのところで考えるのをやめる。

だけど、釈尊はそこにこだわり続けたわけだ。
釈尊は徹底したマイナス思考の、後ろ向きの性格だったんだと思う。
最終的には「自分はこういう道を見つけることができた」と説いている。

嫌な思い出が時々、意識の表面にぷかぷかと浮いて出てくる私としては、マイナス思考でグジグチと悩んでしまう釈尊が見つけた道を歩むしかないなあと思っている。

コメント (9)
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