三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

輪廻と不殺生と差別

2006年04月29日 | 仏教

ジャン・ジャック・アノー『セブン・イヤーズ・イン・チベット』は、チベットに亡命したドイツ人の話で、ダライラマのために映画館を作る場面がある。
映画館の建設工事が始まったが、チベット人たちは地中にいるミミズを殺せない(「前世で母親だったかもしれないから」と言うのだ)ので、時間がかかる。

今枝由郎『ブータン仏教から見た日本仏教』にも、ブータン人がネズミやハエを殺さない(「お前の爺さんだったかもしれないからな」)というエピソードが出てくる。

輪廻という、生命の連続性を認識したうえで、いかなるかたちをとっているにせよ、生きものを殺してはならない、という立場である。


かつては日本でも、輪廻が道徳的規制としてはたらいていた。
私も子供のころ、地獄極楽の幻灯を見て、本当にゾゾッとしたものだ。
しかし、悲しいかな人間は、それでも悪を作ってしまうんですよ。

前に書いた気もするが、マリオ・プーヅォ『ゴッドファーザー』にこんな場面がある。
ドン・コルレオーネの右腕だった男がガンで余命幾ばくもない。
見舞いに行くと、男はこのように嘆願する。
「お願いです。私を助けて下さい。肉は焼け、頭の中にはうじ虫がたかっています。ゴッドファーザー、お救い下さい。幼なじみの私が、罪の深さにかくも死を恐れている私が死ぬことを、コルレオーネともあろうお人が黙って見過ごされるのですか?」
地獄を恐れているのならマフィアなんかにならなければいいのにと思うが、まあ、元気な時はそんなことは考えないもんです。

考えてみると、母親がミミズになったり、爺さんがネズミやハエになっているかもしれないと考えるということは、マフィアのボスたちのような悪業を積み重ねているから、ひょっとしてと思うわけだろうか。
これは死者に対して失礼な話だと思う。

『ブータン仏教から見た日本仏教』に、ロポン・ペマラという高僧は体調が優れない時にはいつも念仏三昧だと書かれている。
ロポン・ペマラ師によると、

病気には三つのタイプがあると言う。一つは、本当の病気で、これには医学的な治療がある。もう一つは、悪霊の祟りであり、これは占いと法要によって対処できる。最後は、過去世の業の結果であり、自分がいま体調が優れないのは、このタイプである。だから、薬も、法要も役にたたず、唯一の対処策は善業を積むことである。だから、自分は念仏を唱えているのである。


しかし、私は前世の業によって病気になるとか、そういう教えは嫌いである。
なぜなら、差別や不幸、災難をその人の責任だとしてしまうからである。
輪廻は現在の境遇は過去世の業の結果であると、現状を単純に肯定してしまう教えともなる。
たとえば差別である。
苦しい思いをしているのは前世の報いだから甘んじておとなしくしなさい、そうすれば来世では少しはいいとこに生まれるかもしれないぞ、というわけである。

今の子供に「悪いことをしたら地獄に堕ちるぞ」と脅しても、怖がらないだろうと思うが、カルマの法則だと説いたら、そうかもしれないと考える人は結構いるのではないか。
困った傾向です。 

コメント (2)
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