親鸞聖人七百五十回忌ご遠忌のテーマが「今、いのちがあなたを生きている」に決まったそうだ。
最初に思ったのは、こりゃなんだ、ということ。
まず、日本語になってない。
小学生が「いのちがあなたを生きている」という文章を書いたら、国語の試験で×をもらうに違いない。
東本願寺のHPに「御遠忌テーマの願い」という文章があり、これまたわけのわからない言葉の羅列で、私はアホなのかと悩んでしまう。
ひょっとすると、こういう意味不明のテーマにすることで、あれこれと考えてもらいたいという願いをこめた、ということなのかもしれない。(そんなこたないか)
もう一点は、「いのち」という言葉のうさん臭さである。
このことについては次回のお楽しみ。
「今、いのちがあなたを生きている」が日本語としてどのようにおかしいか、ヒマ人の私は考えました。
まず、国語辞書で「を」を調べてみました。
《格助詞》
①{他動性の動詞を伴い}
ア、動作・作用が直接に及ぶ対象を示す。
イ、動作・作用によって作り出される対象を示す。
②{移動・経過を表す動詞を伴い}
ア、動作・作用が成立する場所・経路を示す。
イ、経過する時間を示す。
③{分離を表す動詞を伴い}分離の対象を示す。…から。
④{好悪・願望などの心情を表す述部を伴い}それらの心情の向けられる対象を示す。
「を」には接続助詞と間投助詞の意味もあるのだが、これは関係ないので省略。
①の意味の「を」は、「私は本を読む」「あなたは肉を食べている」といったもので、「を」の後には他動詞が来る。
ところが、「生きる」は自動詞なんですよ。
「歩く」とか「泣く」などが自動詞である。
「あなたを思って泣く」と言っても「あなたを泣く」とは言わないように、「あなたを生きる」の「を」は①の意味では使わない。
「いのちがあなたを殺す」だったら、文法上正しい。
「生かす」は他動詞だから、「~を生かす」は少しも問題がない。
だから、「今、いのちがあなたを生かしている」なら、日本語として自然である。
次に②だが、その例として、場所だと「山を越える」「列車が駅を通り過ぎる」、時間だと「昼休みをすごす」「長い年月を経る」など。
だから、
「あなたは今を生きている」
「いのちが今を生きている」
なら可。
「いのちがあなたを生きている」の「を」が②の意味だとしたら、「あなた」は場所や時間の意味を持つことになる。
つまり、「いのちがあなたという場を生きている」という意味になる。
「命」を国語辞典で調べると、「生物を生かしていく根源的な力。生命。」とある。
「いのちがあなたを生かしている」ということです。
今度は「生きる」を国語辞典で調べてみました。
「(「命を生きる」など、命を表す語を目的語として)一生を送る。やや文学的表現」
だから「あなたはいのちを生きている」という言い方は、やや文学的な表現なわけです。
もう一つ、「文学的な表現として「~に生きる」「~を生きる」の形で、生活の場所・場面・時間を示すこともある」と説明されている。
たとえば、「彼は山に生き、山を生きた」という文章だと、彼が生きた時間、生きた場所、彼の生き方、そういったものの象徴が山だということを表す。
だから、「私は阿弥陀のいのちを生きている」という文章なら、私が生きている内容は阿弥陀のいのちで示される、ということになる。
「あなたはあなたを生きればいいんだ」と言うことがある。
この場合の「あなたを生きればいい」とは、「~を生きる」という言い方で、生活の場所・場面・時間を示そうということだから、生そのものを表そうとしている。
だから、「あなたはあなたを生きればいいんだ」とは、
「あなたのままで生きればいい」
「あなたとして生きればいい」
「あなたという場で生きればいい」
といったことを意味する。
同じように考えると、「今、いのちが私を生きている」は、
「いのちが私として生きている」
「いのちが私なんだ」
「いのちが私となって生きている」
「いのちが今、ここで生きている」
「いのちが私という場で生きている」
というような意味を含んでいると理解できる。
というわけで、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは善意に解釈すると、「あなたのいのちはあなたのものではない」、「(阿弥陀の)いのちに生かされて、あなたは今、ここを生きている」、そして「あなた一人の力で生きているのではない」と言いたいのだと思う。
しかし、テーマとしてはあまりにもありふれている。
このテーマ、日本語として不自然だから、どういうふうにでも解釈できるという利点があるというのがねらいなのかもしれない。(もちろん、これは皮肉です)
最新の画像[もっと見る]
- 植松聖「人を幸せに生きるための7項目」 4年前
- 植松聖「人を幸せに生きるための7項目」 4年前
- 植松聖「人を幸せに生きるための7項目」 4年前
- ボー・バーナム『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』 5年前
- 森達也『i -新聞記者ドキュメント-』 5年前
- 日本の自殺 5年前
- 日本の自殺 5年前
- アメリカの多様性 5年前
- 入管法改正案とカファラ制度 6年前
- マイケル・モス『フードトラップ』 6年前
如来我となるとは法蔵菩薩降誕のことなり
法蔵は我なり。されど我は法蔵にあらず
こういった曽我量深の言葉が背景にあるの
ではないでしょうか?
「御遠忌テーマの願い」を読みますと、
「いま私たちが御遠忌テーマを考えるとはその出遇いによって開かれた世界を語ることである。しかし、それは決して教団的な信仰表現の中で、つまり、教団内の人々にしかわからない宗派的な言葉で、親鸞聖人との出遇いを語ることではない。私たちの闇と、その闇を照らし出す光との呼応の関係を、誰もがわかる現実的な言葉、生活の言葉で語ることであろう。」
とあります。
全くその通りですね。
テーマが「教団内の人々にしかわからない宗派的な言葉」であっては困るわけで、「誰もがわかる現実的な言葉、生活の言葉」であってほしいじゃないですか。
教団内の人間としては、こういうことかもしれないとテーマの意味を理解する努力をしますが、多くの人にとっては、なんのこっちゃ、でオシマイですよ。
テーマはちゃんとした日本語にしてほしいものです。
誰もが、自分の人生を、「自分が」生きている、と思いますよね。このいのちは「私の」もの、という風な感覚で生きています。
でもこの言葉を見た瞬間に、これまで何十億年、連綿と繰り広げられてきてた命の歴史、そしてそのつながりの中にいる自分、確かに自分で肉体はコントロールできているけど「いのち」をコントロールしているわけではなく、未だにどこにあるのかさえ解明されていないその力の源、花の中にも鳥の中にも見える命の美しさ・・・そんなものが、イメージとなって瞬間的にわっと湧き上がってきました。
で、なるほど~、うまいこといわはる~!!と、私は思いましたー。
私は、洗礼を受けたという意味ではカトリック教徒ですが、実際には無宗教です。キリストも偉大な人ですが、本当に偉大な賢人というのは国や時代に関わらず常にいるものですねー。
なぜ「いのち」って言葉が嫌いなんですか?
良かったら教えてください。
NHK講座の本に大谷大学が広告出して
ましたが、、、
「人間が大好きです。」
とのキャッチフレーズでアンマリ可愛くない
子供が、こっち指さしてる写真が出てます。
同じ代理店じゃないかしら。。。
最近はやりの「ほんわか・やわらか・無意味」ですね。
見栄えはするけど意味不明。広告コピーと
しては非常に良い出来です。
だいぶお金を使ったのでしょう・・・とほほ。
コメントありがとうございます。
こんなに絶賛されたご意見を東本願寺が聞いたら、すごく喜ぶと思いますよ。
>おまつさん
なぜか漢字ではなく平仮名の「いのち」とか「こころ」といった言葉、結構はやりじゃないですか。
どういう意味で使われているかというと、多くの場合、霊魂(スピリッツ)とか、そういった意味として使われているように思います。
たとえば、諸富祥彦という明治大学の先生のHPを見ますと、御遠忌テーマと同じような言葉が出ています。
http://morotomi.net/
諸富氏はトランスパーソナル心理学の先生ですから、そこで言われる「いのち」とはあらゆる生命に共通している実体的実在、インド思想の梵(ブラフマン)のようなものです。
あるご住職の説かれる光の世界、一如の世界、阿頼耶識もそうした「いのち」です。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/houwa/houwa4.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/houwa/houwa5.html
これらの「いのち」「こころ」観はニューエイジやスピリチュアルの主張と共通しています。
ところが、仏教では「いのち」「こころ」が実体として実在するという考え方を否定します。
それなのに、「いのち」「こころ」という言葉を安易に使うと、ニューエイジ的、スピリチュアル的な意味で受け取られかねません。
私としては御遠忌テーマは「いのち」ではなく「願い」「はたらき」とするほうがいいのではないかと考えています。
「願いによって私は生かされている」というような。
ま、センスがいいとは言えませんけどね。
うーん、確かにそうですね。。。
東本願寺さんのWebを見たところ、???な
フラッシュが流れてました・・・
あの路線を進めちゃうとシルバーバーチとか、
違う方向に向かいそうな感じですな。。。
キャッチコピーである以上仕方ないのでしょうが、主語が意味不明な文章は止めて欲しいですね。皆が勝手に自分の都合のいいように
解釈しちゃうから。。。
「私の欲しいのはあなたのココロ!」とか言って
脅してくれる方が、ヨホド親切心溢れてますな。
ダーっ♪
願っている超越的存在がいるとなると、これまたちょっと違うんですが。
それはともかく、シルバーバーチをご存じとは話が早い。
というのも、東本願寺はニューエイジへの傾斜があるようで、いささか問題だと感じています。
ところが、そのことを人に話しても、ニューエイジやスピリチュアルについて知らない人が結構いて、で、その説明をするわけですが、それがまた一苦労。
↑ や、こーゆーのが居てくれるのは良いことなんですが、謎めいた言い方でなく、仏様とかハッキリ言って欲しいです。高級霊だの、地球外生命だのトンデモを言う人達がうじゃうじゃいるから。。。
>シルバーバーチをご存じとは話が早い。
ちっとも嬉しくは無いです。
変なキッカケで知りまして、多少調べて頭が可笑しくなりそうになりました。
和尚さんのWebを参考にさせていただきますが、いい薬になる本がありましたら教えてください。知り合いでハマってる人がいて、会うたびにコッチが可笑しくなりそうなんで・・・
ではでは。
「願っている超越的存在はいない」と言いたかったのですが。
仏がどこかにいて、こいつらかわいそうだから何とかしてやろう、というイメージを持ちがちですが、それは方便であって、そういう超越的存在が実在していて、それを仏と言ってるわけではありません。
それだったら、仏とシルバーバーチとはどう違うんだという話になるでしょう。
>変なキッカケで知りまして、多少調べて頭が可笑しくなりそうになりました。
私はシルバーバーチについては読んでないのですが、チャネラーの言ってることなんで大同小異ですから、だいたい想像できます。
霊魂にしろ、地球外生命にしろ、存在を証明できないかわりに、否定もできないやっかいなしろものです。
信じている人にとって、シルバーバーチの実在は主観的事実ですからね。
霊媒がいかにインチキなことをしているかについては、元霊媒師が書いた「サイキックマフィア」はどうでしょうか。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872335678/qid%3D1148938574/250-0610849-4397858
太田出版のスケプティック・ライブラリーはほかにもいろいろお勧めがあります。
「超常現象の謎解き」というサイトにはいろんな本が紹介されていますから参考になさってください。
http://www.nazotoki.com/
>それだったら、仏とシルバーバーチとは
>どう違うんだという話になるでしょう。
んじゃ、仏様って何なんすか? (・ω・)
また今度会う機会にでも教えてくらさい。
まずは教えていただいた本を読んでみようと思います。
有難うございました。