平雅行『日本中世の社会と仏教』を読んで驚いたのが、顕密仏教では敵対者、その中には年貢を納めないものも含まれるが、そうした人に対して呪詛が行われたということである。
だからといって、こうした行為が仏教の慈悲の精神と矛盾するわけではない。なぜなら宗教領主にとって、寺敵を呪詛・調伏して寿命を奪うのは、我欲にかられた寺敵の煩悩を砕いて菩提へと導くための方便だからである。
彼らはまさに慈悲の精神にのっとって寺敵を呪詛し、神仏を恐れぬ愚かな民衆の罪業を制止したのである。
自分にとって敵対する相手や命令を聞かない人間は、生きていても悪業を作るばかりだから殺してもかまわない。
殺すことはこれ以上悪業を作らせないためだから慈悲なんだ。
これはオウム真理教のポアと同じ論理ではないか。
オウム真理教信者の言葉。
呪い殺すことを慈悲だと考えるのは、羽田野伯猷『チベット人の仏教受容について』によると、チベット仏教にもあって、呪殺ということが行われていたという。
11、12世紀だから、日本だと平安時代末から鎌倉時代の初め、つまりなぜか同時代なんですね。
度脱(呪殺によって人を度脱せしめ、仏国土へ導引する事業)と瑜伽(女性との性的結合)が行われていて、Vajrabhairavaというタントラが度脱に関する代表的聖典であり、呪殺による度脱を最たる目的としていた。
もっともこのタントラは、当時のチベット密教によってすらも外道の烙印を捺されていたそうだ。
Rwa翻訳官という「度脱においてはチベットにおける第一人者と称して差し支えない人物」がいた。
Rwa翻訳官は多くの僧や外道たちを度脱、すなわち呪い殺していたということで有名だったんだそうな。
Rwa翻訳官は
と言っている。
Rwa翻訳官に限らず、優れた僧とされていた者はこうした能力を有しているとされていたわけで、そういった呪力を持つ者が畏れられ、尊敬されていた。
これは日本でも同様なのではあるまいか。
こうした呪詛、ポアの論理を否定することは難しい。
彼らの考えだと、死んでも死後の世界に生ずるなり、生まれ変わるなりするわけだから、死んでも死なないということになる。
死そのものに大した意味を認めない、だから生を軽んじるんだと思う。
再びオウム真理教信者の言葉。
よく「現代の日本人は死んだらおしまいだと思っているから、今さえよければいいという考えでいる」と言う人がいる。
だけど、今さえ楽しければいいというので刹那的に生きている人なんて、ほとんどいないと思う。
死んだらおしまいという考えよりも、死後の生があるから死んでも死なないんだという考えのほうが、ある意味で問題があるんじゃなかろうか。
それよりも、かけがえのないたった一度きりの生を生きている、死んだらおしまいだからこそ、今を大切にしなければということを、子どもたちに教えるべきだと思う。
Rwa翻訳官は5人の瑜伽母を持ったが、晩年に12歳の娘を瑜伽母としたので、民衆が批難し、投獄されたということで、何となく笑ってしまう。
麻原にしろ、Rwa翻訳官にしろ、結局のところ単なるオジサンだったというわけです。
(追記)
Rwa翻訳官と呪殺については正木晃『性と呪殺の密教』に詳しく書かれています。