原田正治『弟を殺した彼と、僕。』を読んだ。
腰巻きに「森達也氏(映画監督)絶賛!! 読み終えて吐息が漏れた。大事な本だ。そして凄まじい本だ」とある。
私も一読後、ふーとため息が出た。
原田正治さんの弟さんは1983年に殺された。
一年三ヵ月後に犯人が逮捕される。
上司だった。
保険金目当ての殺人で弟さんは殺されたのだ。
原田正治さんは弟を殺された自分の気持ち、そして被害者遺族としておかれた状況をものすごく率直に語られている。
まず、それに圧倒される。
小西聖子『犯罪被害者の心の傷』を読んで、ある程度、被害者の気持ちを理解しているつもりでいたが、少しもわかっていなかった。
原田正治さんは死刑廃止運動に関わっていく。
原田正治さんのこの言葉には恥ずかしくなった。
先日、原田正治さんのお話をうかがった。
原田正治さんは弟さんを殺され、犯人は死刑になったのだが、原田さん自身は「死刑は絶対に反対だ」と言われ、死刑廃止運動に取り組んでおられる。
「良い被害者」と「悪い被害者」があるんだと、原田正治さんは話された。
「良い被害者」とは、つらさ、苦しさを表に出さず、沈黙を守って、じっと耐える人である。
「悪い被害者」とは、自分の思いを声に出して語り、行動する人である。
被害者救済運動などを行う人も「悪い被害者」である。
だから、「金のためにやってるんだ」などと陰口をたたかれる。
まして、死刑廃止を訴える原田正治さんは「最悪の被害者」だから、さまざまな圧力があるそうだ。
原田正治さんは「無言電話にはまいりました」と話されたが、無言電話をして楽しいのだろうか。
「声を出す被害者は異常なんです」と、原田正治さんが言わざるを得ない状況のほうが異常だと思う。
しかしながら、つらい思いをしている人が「つらい」と声を出しにくいのは、日常茶飯事である。
例えば、家族を亡くした人が「思い出しては涙が出る」などと言うと、「いつまでも泣いてはいけない。元気を出しなさい」と善意の励ましを受けることになる。
だから、みんな何でもないような顔をしなくてはいけない。
これも異常な状況である。
そして、原田正治さんに、「どうすることが加害者の償いになるのか。被害者の救いとはどうなることか」とお尋ねしたところ、原田さんの返事は「わからない」だった。
そして、「加害者と面会したい。面会し、話をする中で、わかってくるのではないだろうか」と話された。
一人暮らしのおばあさんで、空き巣に入られた方がいる。
大したものは盗られていないのだが、「とにかく恐いんだ」と言われた。
留守中に泥棒に入られたらと思うと、外に出れないし、かといって、家にいる時にやって来られたらどうしようかと、これまた落ち着かない。
つまり、泥棒はおばあさんの安心を盗んだわけである。
おそらく、泥棒はおばあさんがそういう恐れを抱いていることは想像もしていないだろう。
おばあさんも、その恐れや不安を自分一人で抱えるしかない。
もしも、おばあさんが泥棒と会い、自分の気持ちをぶつけることができたら、償いと救いの第一歩が始まるのではないだろうか。
修復的司法である。
もちろん、そう簡単にはいかないだろうが。