三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

映画のユダヤ人

2005年05月15日 | 映画

フロイトが12歳の時(1868)、街角で父親が帽子をたたき落とされたにもかかわらず、父親もフロイトもそれに反抗できなかった。
そして、ウィーン大学に入学(1873)しても、やはりユダヤ人であるための差別に苦しめられた。

で思ったのだが、外見だけでユダヤ人だとわかるか、それとも名前で判断するのだろうか。
私は中国人や朝鮮人を見ただけではわからない。
日本語でない言葉をしゃべっているから、ああ日本人じゃなかったのかと思うぐらいのことである。
『血と骨』や『パッチギ!』といった在日朝鮮人がテーマの映画では、朝鮮語が飛び交うが、出演する俳優の誰が日本人で、誰が朝鮮人か、これもわからない。
朝鮮語の発音で、そうかもしれないと想像する程度である。

ところが、欧米の映画を見ると、一見しただけですぐにユダヤ人とわかるらしい。

『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』という映画、ユダヤ人の少年がトルコ人、すなわちイスラム教徒の養子になるという話だが、この少年がユダヤ人だとは私にはわからなかった。
トルコ人(なつかしや、オマー・シャリフです)が少年をユダヤ人だと言うので、ああ、そうなのかとわかった。

アカデミー賞の『ドライビング・ミス・デイジー』では、ジェシカ・タンディ扮する老女はパトロール警官から「ユダヤ人か」と蔑視される。

これも、えっ、そうだったのかと思った。

ところが、『バティニョールおじさん』という映画は、ナチス占領下のパリで、ユダヤ人の少年をスイスに逃亡させるというあらすじだが、このおじさんはユダヤ人の少年を自分の息子だとしてナチスの目をごまかす。

ということは、外見ではわからない場合もあるということか。

『ぼくセザール10歳半1m30cm』では、冒頭に葬式のシーンがあり、かぶっている帽子を見ると、セザール少年一家はユダヤ人だと思う。

話の筋からして、主人公がユダヤ人でなくてもかまわないと思うのだが、何か必然性があるのかもしれない。
欧米人は外見でユダヤ人だとわかり、ユダヤ人であることが特別な意味を持つのだとしたら、差別の根は深いとあらためて感じる。

(追記)
ジョン・カサベテス『アメリカの影』は黒人ではあるが白人と間違えられる三兄弟が主人公、ロバート・ベントン『白いカラス』の主人公は黒人であることを隠して白人として生きる。
ということは、黒人だとわからない人もいるわけで、では何を根拠に差別するのかと思う。

 

コメント (8)
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