最近、電車などでよく目にする光景。母親の子どもに対する態度には、二つのパターンがある。
一つは、子どもが車内を走ったり、靴をはいたまま外の景色を見ていても、雑誌や携帯に目を向け、知らん顔の親。もう一つは、子どもの行動をつぶさに観察し、いちいち注意をする親。大きくわけると、子育てのパターンにはこの二種類あるのだろうか。
しかし、そのどちらの母親の子どもも行く末が心配である。放任された子どもは、時と場所を考えて自分の行動を使い分けることができなくなるだろう。強制された子どもは、いつも母親の顔色をうかがい、自分で判断することができなくなるだろう。
子どもには発達の段階に応じて身につけなくてはいけないことがある。適時性というのだろうか。その時期を見過ごしてしまうと身につくことが身につかなかったり、時期にあわないことを教えようとすると発達に歪みが生じることがある。
しっかり大人が抱き締めて育てる時期、手を離して見つめる時期、転んでも自分で歩かせる時期があることを知ってほしい。
最近の若者をみていると(こうした物言いはすでに私自身を見失っている物言いであるが)、自分のことが自分で決められない人間が多くなったように感じる。転ばぬ先の杖ではないが、失敗をさせない、失敗をゆるさないということが、子育ての中で大きなウエートをしめていないだろうか。
最近は、ほとんどが紙おむつ。濡れて気持ち悪いという感覚が赤ちゃんのころから育たなくなっているという。また、あまりにも汚れに敏感になりすぎた結果、あらゆるものにアレルギー反応を起こすようになってきた子どもが増えている。
環境ホルモンのせいだとか、社会の構造が子どもの発達に悪影響を及ぼしているとかいう。確かにそういったことが遠因ではあろうが、身近な子育てのなかに多くの原因があるように思う。
放任ではない自由、強制ではない矯正というバランスある子育てが求められている。