スーパーマンとクラーク・ケント、誰が見たって同一人物だとわかりそうなものだが、なぜかみんな気づかない。
その秘密はクラーク・ケントのかけているメガネにある。
メガネからは催眠波が放射されており、クラーク・ケントとスーパーマンが似ていると気づかれない。
物事を実際とは違ったふうに見えさせるスーパーマンのメガネを大がかりにしたのが『マトリックス』で、我々の生活はコンピューターが見せていた夢にすぎなかったというお話。
高校のころ、ブルーバックスから出ている都筑卓司さんの本を何冊か読んだが、そのどれかにこんなことが書いてあった。
他の人たちはひょっとしたらみんな精巧にできたロボットかもしれない。
いや、自分自身だって、私の記憶を与えられたロボットではないという保証はない。
このP・K・ディック的な問いに都筑卓司さんがどう答えているかは忘れたが、そうした疑問を私が持つということが、私が人間であることの証拠だ、みたいな答えだった気がする。
しかし、P・K・ディック『ブレードランナー』では、レプリカントが悩んでましたね、「私は人間なんだろうか」と。
ここまで大げさな話でなくても、何が現実で、何が虚構なのか、『荘子』の胡蝶の夢じゃないが、わからないと思う。
けど、蝶はレプリカントと違ってそんなことは考えもしない、たぶん。
荘子は人間だからこそ、「ふふ、いいたとえを思いついた」とほくそ笑んだことだろう。
亀井勝一郎『愛の無常について』の中にこんな文章があるそうだ。
人間は考える力を持っている。何を考えるか。
私はこれでよいのかと考える。
そして疑う力を持っている。迷う力を持っている。
これは本当の教えなのかと疑う、あるいは迷う、そういう力を持っている。
私はこれでよいのかと考える。
そして疑う力を持っている。迷う力を持っている。
これは本当の教えなのかと疑う、あるいは迷う、そういう力を持っている。
どうも理解力が無いようです。
最後のほうにある、考えて迷いう事があるのが人間という事ですか?
またその迷った道から抜け出れる道というのが仏教なのでしょうか?
もしその道に出た時にもう迷う道に進むときはないのでしょうか?
またその道を進む上で迷う事は重要ではないのでしょうか?
何か"?"がいっぱいですいません。
もう質問はやめておきます。
そういうのはやっぱり自分で探していくものですよね。
困らせてしまってすいませんでした。
私もわかりにくいかなとは思ってました。
それと、坊さんというのは独善的でして、相手がわかっているものとして、ほいこらとしゃべりたがるんですが、聞いてる人は何がなにやらさっぱりということがしばしばです。^^;
前半の文章は、私たちは色眼鏡を通してでしか物事を見ることができない、
しかも色眼鏡をかけているという意識も持っていない、という意味です。
では色眼鏡をはずせばいいのかというと、
はずしたつもりでも、違う色眼鏡にかけ替えただけかもしれない、
だから、何が真実で何が真実でないかの判断は難しい、
ということを書いたつもりです。
後半は、わかったつもりになること、
あるいは、わかろうとすることを放棄すること、ではなく、
問い続けることが大切だ、ということを言いたかったわけです。
人間とは迷うのが当然だし、迷うべきだと思います。
そして、迷ったとこから抜け出てたら、
迷わなくなるということもないと思います。
大切なのは迷っていることに気づくことだと思います。
しかし、迷ったことに気づいたからといって、
もう迷わなくなることもないと思います。
あっちこっちにふらふら迷って痛い思いをしながら、
しかしこの道を歩いていこう、道だけははっきりしている。
そんなところかなと思っています。
長々と書きましたが、つまりはjeyさんのおっしゃるとおりです。
何度もすいませんでした。
これからはもっと寛容にまた違った角度で
物事を見て学んでいきたいと思います。
自分は悟りを開くなんていうたいそうな事は
できないような凡人ですが、
学ぶ事はできるのではないかと思っています。
成長、進歩、発展、向上、ということは言いません。
少なくとも真宗ではそうです。
死ぬ身である私が死なないようにするのではなく、
死ぬ身をいかに生きるか、ということが問題であるように、
凡人である私が凡人でなくなるのではなく、
凡人である身をいかに生きるか、だと思います。
えらそげですみません。