三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

夏が終わって

2013年09月30日 | 青草民人のコラム

青草民人さんです。

今年の夏は異常気象なのか、各地で最高気温を更新したり、記録的な大雨が降ったり、竜巻が起きたりして、各地で大きな被害に見舞われた。天変地異は、人間の想像をはるかに越えるものであることは、東日本大震災で身に染みたはずなのに。「喉越し過ぎれば熱さ忘れる」なのか、新たな災害の発生に、改めて自然の脅威と人間の無力さを身近に感じた。

自然法爾という言葉がある。我々を取り巻く環境は、決して自分の都合のいいようにはならないのが常である。夏は暑いとわかっていても、その暑さに辟易し、なんとか涼しく過ごそうと大枚を払ってクーラーをつけて、外気をますます暑くしている。東電の原発事故で、原子力発電のもつ功罪を問い始めた私たちではあるが、元を正せば、人間の営みがその遠因になっていることを深く自覚せねばなるまい。


人間は、科学の力で自然を征服したつもりになっているが、自分の生活に新しい壁を次々につくってしまっているだけではないだろうか。我々人間ももともとは自然の一部である。暑さ寒さにある程度は順応できる力をもっているはずだ。それを科学の力で武装して、何でも思い通りにできると錯覚してしまった。自然の脅威の前で、はだかになって始めて無力な自分を思い知る。


暑さの中でも、ときおり自然の風をひんやりと感じる瞬間がある。灼熱の日差しの中でも、木陰の涼しさは、体温を和らげる。蝉の喧噪も、夜のコオロギの鳴き声を聞けば、季節の移ろいを感じ、夏への郷愁さえ覚える。


「暑さ寒さも彼岸まで」日本人の季節感は、一種の自然との一体感をもって営みを続けてきた先人の知恵なのかもしれない。「自然法爾」、自然に身を委ね、あるがままに生きる。暑さも寒さも乗り越えられない試練ではなく、私たちの生き様を問うことばであるように思う。


さて、東京オリンピックの招致が決定した。国民の一人として、期待感が高まるのは当然のことではあるが、安倍総理のプレゼンテーションの言葉が気になった。福島原発の漏水について、完全にブロックされており、東京は安全であると。その発言の中に福島の安全・安心につながる意味合いはまったく感じられない。

オリンピック招致と被災地の復興を結びつけたいという発言もプレゼンテーションの中に何回も出てきたが、多額の費用がかかるオリンピックへの歳出で、被災地への復興費用はどうなるのかといった懸念が当然起こる。東京オリンピックが優先で、東北がまた置き去りにされはしないか。お祭り騒ぎの中で、国民全体が震災そのもののことを忘れてしまうのではないか。

夢や希望を与えるオリンピックであるなら、いっそ東北で開催してほしかった。世界の人々が日本を訪れる機会である。世界で唯一の被爆国であり、被曝国でもある日本。原子力の功罪を経験した国民である。世界の人に感動を与えるだけでなく、私たちの国が経験した功罪を知ってもらう機会にもしてほしい。

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