三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

苦しみをどのように受け止めるか

2013年11月12日 | キリスト教

加賀乙彦『雲の都』の語り手である悠太、そして母や妻、妹、叔母一家たちはカトリックの信者なので、『雲の都』は神について何度も触れている。

悠太は大学紛争の時に、クギが打ちこんである角材で頭を殴られて入院する。
痛みに耐えながら、このように悠太は考える。

神の痛みはどうか。まず明らかなことは、イエス・キリストが十字架上で人間から被った痛みこそ、あらゆる痛みのなかでもっとも激烈なものであった。そして、彼が人間から受けた軽蔑、差別、裏切りの精神的痛みこそは、さらに究極の痛みであった。


自分が苦しい目に遭った時に十字架上のイエスを思うのはキリスト教徒の常らしく、エリザベス・ギャスケル「ベン・モーファの泉」(『ギャスケル短編集』1850年)にもこんなエピソードが書かれてある。
エレナの一人娘が転倒して半身不随になり、婚約者が去ってしまい、メソジスト派の説教師であるデイヴィッドにエレナは訴える。

この世には嫌気が差しました。我が子を見る影もなく悲嘆に暮れさせたままにしておきながら、私は死んで安らぎを見出すことなんかできるでしょうか?

デイヴィッドはこのように答える。

エレナよ。おまえが行く所では、すべてが明らかにされるであろうし、おまえが今とても耐えられないと思っている、そういった悲しく重苦しいことが終わったと分かり、神に感謝するようになるだろう。おまえの苦悩は、あの花園における恐ろしい主の苦悩よりも大きいと思っているのかね。

イエスに比べると、これくらい大したことがないから我慢しろ、というわけである。

松家仁之『火山のふもとで』に、世界が美しいのは神が創造したからというやりとりがある。

彼女はね、分子生物学を研究するようになって、はじめてゴッドがいるって思うようになったそうよ。こんなに精緻で合理的で、しかも美しいかたちは、神でもいなければとてもつくりだせるはずがないって。

へそ曲がりの私は、だったら醜いものは誰が作ったのかと思う。

『雲の都』でも、悠太の叔母と娘が浅間山を見ながらこんな会話をする。

娘「ねえ、ママ。自然てのは美しいのね。その美は神様の傑作なのね。逆に言えば神様は傑作しかお作りにならない。わたしなんかの絵は、いつも失敗して醜くなるのに、神様は醜い作品はお作りにならない。それがわたしは不思議でならない」
母「ほんとだね。(略)もし神様がおられなければ、美はこの世に現れなかった。わたしは絶対にそう思う」
娘「(略)どんな山でも美しいのはなぜかという話になった。(悠太)先生の言うには、自然の山で醜いのに出会ったことがないんだって。(略)驚いたことに、あらゆる方向から浅間は美しく見えたんですって。子供が砂山で浅間山を作ろうとしない理由もわかる。それは子供には神の作った浅間山は再現できないからなんですって」

どうして神は浅間山を噴火させ、多くの人を殺したのか、と私は思う。

阪神大震災でボランティアとしてしばらく滞在した悠太は、ある少女が焼け死んでいく姿を想像する。

体は動かない。「助けてえ」と必死に叫ぶ所に炎が入り込んできた。「熱いよう」と少女は泣いたけれども、物凄いヘリコプターの爆音に消されてしまい、誰も助けに来てくれない。少女の体はじりじりと焼かれていった。少女はついに叫びもがきながら、焼かれていった。

こういう想像力があるのに、その痛みをもたらした神への疑問は出てこないのが不思議である。
というか、都合よすぎるんじゃなかろうか。

デイヴィッド・ロッジ『どこまで行けるか』は、神への異議をはっきりと述べている。

洪水による土砂崩れが小学校を呑み込み、教師と百十余名の児童が死ぬという事件(実際の事件)が起きる。
ブライアリー神父はこの事件について次のような説教をする。

(このような災害を)人間の罪深さに対する一種の罰と見なしたり、神の御意として何の疑いも差し挟まず受け入れたりするのがキリスト教の伝統的な反応だ。その二つの反応はどちらも不十分である。なぜなら、もし罰せられるのが人類の罪深さとすれば、あの子供たちや家族が罰を蒙るのは完全に不当だ。そして、もしそれが神の御意ならば、なぜわれわれは、それに疑問を呈してはいけないのか?キリスト教徒が信じているように、もし神が宇宙に遍在しているのなら、神は宇宙の中の一切のことに責任をもち、こういうときに人間の心に掻き立てられた怒りと敵意を甘受する用意がなければならない。

そして、神に不平をぶちまけ、苦しみを率直に語った『ヨブ記』を引用する。

グレアム・グリーン『事件の核心』では、子供の死について神に問う。

遭難した船から逃れた人たちが乗ったボートが40日間漂流し、女の子は助けられたものの、すぐに死ぬ。
主人公である警察副署長はこう感じる。

自ら創り出したものを愛するほどの人間性を持たぬものとしての神も信ずることは出来なかった。


グレアム・グリーンやデイヴィッド・ロッジはカトリック作家である。

彼らの小説に登場する人物は、神に異議を唱えても、信仰を捨てず、神に無関心でもない。
疑問を持ちながらもカトリックにこだわり続ける。
そこらがキリスト教徒ではない私にも共感できるわけです。

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