小泉首相の靖国参拝の是非について、A級戦犯の合祀問題、中国や韓国の感情という点だけでしか論議されていないようだ。
そして、どうすることが国益なのかが論じられている。
民間人や賊軍(西郷隆盛たち)が靖国神社に祀られていない、公平でない、という意見も少しはある。
だったら、A級戦犯が分祀され、民間人や敵国人も祀れば、首相の靖国参拝、さらには国家護持は問題ないということになってしまう。
しかし、政教分離という憲法の問題はなぜかほとんど語られていない。
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
戦死したら靖国神社に祀ることを国(=天皇)が約束した、だから首相や天皇が靖国神社へ参拝すべきだ、という意見がある。
国が戦死者を神に祀ることを保証するということは、政教分離の原則に反しているわけで、靖国神社という存在は極めて政治的なのである。
戦争で死んだ英霊をお祀りすること自体は異議がない、どこの国もしていることだとの意見もある。
しかし、仏教徒である私としては、戦死した伯父が霊魂になったとは思わないし、原爆死した祖母をお祀りすることなどしない。
ある人と「どういう死に方が一番楽だろうか」ということを話していて、私は痛いのは嫌いだから、「全身麻酔の手術の最中に死ぬのが一番楽だと思う」と言ったら、その人は「そういう死に方だと成仏できないんじゃないですか。自分が死んだことに気づかずにいるから」と言われたのには驚いた。
おそまきながらシャラマン『シックス・センス』は不成仏霊を成仏させるというお話なんだと気づいた。
アレハンドロ・アメナーバル『アザーズ』も、自分が死んだということを知らなかったというのがオチである。
折口信夫によると、霊魂には三種ある。
1,まだ死のケガレがついている死んで間もない霊
2,純化した先祖霊
3,ほとんど浮かぶことのない霊
3の「ほとんど浮かぶことのない霊」が不成仏霊である。
不完全な死、中絶した生(事故死・自殺・他殺、あるいは横死・不慮の死・呪われた死・志半ばでの死・この世に思いを残した死・怨みの残した死など、そして水子・子供)の場合である。
そういう死に方だと迷える魂・移動できぬ魂になり、霊魂は死んだ場所に留まると、日本では考えられたと折口信夫は言う。
道ばたに花や飲み物が置かれていることがあるが、おそらくそこで誰かが交通事故死したので、家族や知人がお供えしたのだろう。
霊魂が迷うとか祟るとか、あるいは地縛霊になるとか、そんなことはない。
しかし、日本人はこうした霊魂観が血となり肉となっているから、死んだ場所にお供えするとか、慰霊碑を建立することがごく自然な行為として受けとめられているように思う。
戦死者も不成仏霊である。
戦死者が、私は家族のため、国のために死ぬことができたんだから満足だ、ということならば、霊を慰め魂を鎮める必要はない。
しかし、我々はそうは思っていない。
戦死者はこの世に思いを残しているだろう、恨みを持っているかもしれない、ちゃんと祀らないと祟りがある、と考えているものだから、神として祀るのである。
つまり靖国神社の出発点は、非業の死を遂げた人間の怨霊(御霊)を怖れ、祀って災いを防ごうとする御霊信仰なのである。
しかし、死者が迷うとか祟るという考えは、死んだ人に対して失礼である。
靖国問題を論じるときに、政教分離の原則が問題とならないのはなぜか。
一つは、神道が宗教ではなく、習俗とされているからである。
戦死したら神として祀ると国が約束し、そして 靖国神社の祭神として祀るということは、神道の伝統の中でそれまでなかったことではないだろうか。
たとえば広瀬中尉のように華々しい死に方をした戦死者を神として祀ったり、平将門のように恨みながら死んだ人を神として祀ることはある。
しかし、戦死したら自動的に神になるという例はないのではないか。
人間を神として祀ることと、カトリックにおける列聖と似ているように思う。
カトリックでは、模範となる行いをした信者を死後に聖人として列聖している。
もし「殉教者はすべて自動的に列聖する」なんてことをバチカンが宣言したら、堕落したと思われても仕方ない。
政教分離が問題にされないのは、日本国憲法がアメリカの押しつけと非難され、憲法を尊重すべき大臣や国会議員が改正を叫ぶ中、憲法の重みがなくなったためという気がする。
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
小泉首相が靖国参拝して「公約は守らなければいけない」と言ったのは、戦死者の祟りを怖れたためか、将来戦争をしたときに喜んで死んでいく人間を作ろうという政治的意図か、単に選挙の票目当てなのか。
かつて、本居宣長は『古事記』の探究を通じて古代日本人に来世観が存在せず、結果として現世をどのように生ききるか、そしてどう終わらせるか?という散り際が重大な関心事にあったようです。
さらには、宣長は人の霊魂は死後、生前に最も深い愛着を持っていたものに宿ると考えていたため、その対象を桜に選んだようですね。
まさに、管理人様ご指摘の「不成仏霊」ですが、しかしそれで良いとしたようですね。
なお、死の瞬間を感じた方が良いのかどうかなのですが、かつて長谷川如是閑が、「死は事実なり、然れども経験にあらず」としていたのを思い出します。
五来重は、もともと日本人には地獄という観念はなく、死んだらいいところに行くと思っていた、と言っています。
柳田国男もそうでして、死んだら故郷の山から子孫の行く末を見守っていて、盆とか年末年始とかに子孫と交流すると言ってます。
しかし、本居宣長は黄泉は暗くて穢れたところだと考えたそうです。
折口信夫の霊魂観も明るくはないですね。
インチキ宗教とかインチキ霊媒師も暗さを強調し、霊魂が迷うとか祟るとかと言っては脅しています。(明るい柳田国男も祟りは認めていますが)
そうした日本人の霊魂観と仏教の教えをどう調和させるか、それが坊さんの課題じゃないでしょうか。
そのテキストとして靖国問題は格好のものだと思います。
どういう死に方がいいかということですが、私は痛いのとか苦しいとかのは苦手でして、全身麻酔で意識のなく、死ぬとは考えないうちに死ぬのがいいかなと憧れています。
家族は困るでしょうけどね。
これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」
「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」
「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」
「そうではない。」
・・・(中略)・・・さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは
同一であるか別であるか、人は死後もなお存在するか存しないか
等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。
だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。
かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。
「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、
かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」
すると世尊は、かように教えて言った。
「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、
霊魂と身体とは一体であるかどうか、
人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に
対する見解は、独断に陥っているものであり、
見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。
それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240~242頁)
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/muga-0.htm
不成仏霊というものが実体的にあるのでなくて、非業の死を遂げたとか、事故死とか自殺とか尋常でないと判断した死者を特別に扱う意識がこの世に残された者にあるんだと思います。
で、そういったケースを分離することによって自分たちの日常(テリトリー)を守り安心する。。。という「安全神話の崩壊」で円さんが書かれているような問題とつながっているのだと思います。
また靖国神社というのはもっと政治的な判断があったのだと思います。幕末に長州藩やら土佐藩やらが、自分たち反幕府軍の士気(仲間意識)を高めるため生み出した招魂社が淵源でしょう。江戸時代は、日本人という観念は無かったでしょう。おいどんは薩摩の人間でごわす。。。とかいうおくに意識はあったでしょうが。
死者を葬るというのは、われわれは地縁や血縁というものでつながった共同体の一員(仲間)であるという確認行為であるでしょう。当初は、将軍に代わって、天皇というものを担いだ側の仲間意識を強めるものだったのが、外国との戦争によってだんだん国民国家という仲間意識を固めるものに置き換わっていったのが、この「靖国信仰」というものでしょう。
最初は御霊信仰だったと思いますが、だんだんと政治的装置になっていったということでしょうね。
もっとも、そんな単純な話ではなくて、こみいっているからこそ問題なんでしょう。
シンプルな欲望でしょうけど、それが、
教団の教義やら、儀式にはめ込まれると
いささか別のものに変容するような気が
します。つまり、死んだ子どもに会いたいと
いう欲望が、いつのまにやら教団の勢力を
拡張することに情熱が変わったりなんか
して。
さて、先祖供養というのは、歴史的なタテの
つながりの中に自分を位置づけて、安心したいと
いう欲望かな。自分が先祖を祀れば、自分も死後
祀られ、その子孫の記憶の中に生き続ける。
いわば、自分の生きた証しが保存されることです。
またヨコの社会集団を考えれば、やっぱり
コトバを共有しているというのは大きい要素だと
思います。それぞれのおくに訛りを持ちながら、
標準語によってコミュニケーションできる仲間を
みつけられれば、孤立感、孤独感は癒されます。
自分と同じコトバ(思想・宗教・信条・観念)を
解さないものは、よそものです。
意味が生じるということで、ジグソーパズルの
たとえを以前出しました。今度は、クロスワードの
方がいいかも知れませんが、タテにもヨコにも
自分というピースがすっぽりはまるスペースが
あることによって救いが生じるのだと思います。
まあ、自分の帰る場所がある。自分の居場所がある。
となりに人がいて、上にも下にも人がいる。そこは、
ホームでしょうし、存在の故郷、家郷でしょう。そういう
ものが、浄土かな。
それが教義となり、細かなことまで理屈づけられると、死者との再会が客観的事実とされてしまう。
そうなると、矛盾や弊害が生じ、プロジェクトまんじさんの言われるように、教団の勢力を拡張することに情熱が変わったりなんかすることもありますね。
プロジェクトまんじさんの言われるのは先祖崇拝でしょう。
有限の存在である私が、タテのつながりの中で不滅の存在になるように妄想する。
先祖供養は霊が迷わないか、苦しまないかという不安から行うもので、いくら行っても安心しきれない。
言葉(広い意味での)を共有しているかどうか、ということですが、まったくその通り。
夫婦、友人その他でも、共有する言葉が多ければ落ち着けますもんね。
けど、なかなかそうはいかないのが穢土の穢土たるゆえんでして。
でも、居心地の良いとこが浄土だとしたら、風呂に入って南無阿弥陀仏とどう違うのか、ということになりますね。
「すけべ根性」の現われかもしれません(笑)。まあ、あまり素っ気無いのもこれまた、なんですが。ここでまた中道か。。。
で、生前自分の葬式をどうするか。。。ということが一時期マスコミでよく取り上げられてましたが。葬儀のインフォームドコンセント。
ある人に、「私が僧籍があるからといって、誰かれなく死んだ人のお経をあげるというのに抵抗があります。死ぬ前に、葬儀をするかどうか、どんな形式がいいか、何宗でやるかとか決めてもらってたらいいんですが。。。」というと、「すべての宗教に精通するなんてムリですよ。日本人は何とはなしの仏教ですよ。私も特に信仰を持ってませんが」と言われました。
まあ、ここで問題意識がずれているわけで。これもまた「こんにゃく問答」ですね。
まあ、葬式じゃなくて葬式という仏事にしなくてはと、スケベ根性で思っています。