小野功生『図解雑学 構造主義』が面白かったので、仙波芳一『図解雑学 親鸞』を買った。
表紙の親鸞の絵、あまりにもかっこよすぎるのはご愛敬。
中身であるが、どうもおかしい。
「絶対の幸福」とか「後生暗い心」といった言葉がくり返し使われている。
これは親鸞会の用語である。
それとか、「一向専念無量寿仏」の多用(親鸞は『教行信証』で一個所だけ引用している)とか、「『教行信証』には「三重廃立」以外、書かれていない」とか、ひっかかるとこが散見する。
著者の仙波芳一という人は何者なのか。
真宗史学研究所研究員ということなので、真宗史学研究所のHPを見ると、所在地がどこかわからない。
ネット上にしか存在しないのかもしれない。
リンクの「浄土真宗の入門書」をクリックしたら、なんとあのチューリップ企画のHPにとんでしまった。
ということで、仙波氏は親鸞会の方と判明しました。
大学生の時、繁華街を歩いていたら、白人女性からつたない日本語で「アンケートお願いします」と声をかけられ、鼻の下を伸ばした私はほいほいとアンケートに答え、そして女性に誘われるまま統一協会について行った。
その時、東大卒という人の話があった。
その話だが、「人生の目的は幸福になることです。これは誰も否定できないでしょう」と言ったのだけ覚えている。
『図解雑学 親鸞』にも、「絶対の幸福になることこそが、人生の目的なのです」とあり、親鸞会と統一協会は同じことを言っているのかと、なんとなく感心した。
では、絶対の幸福とは?
「絶対の幸福とは、どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜びをいう」
「阿弥陀仏の本願とは、阿弥陀如来という仏の約束をいう。その内容を一言でいえば、「どんな人をも必ず絶対の幸福に救う」という誓いである」
「絶対の幸福に救う」とは変な日本語である。
「絶対の幸福」とは浄土往生という意味ではないか。
それにしても、どうして「幸福」という言葉を使うのだろうか。
「救い」や「往生」では今の人にはわかりにくいから、ということかもしれないが、仏教では幸福という言葉はない。
そして、仙波氏はこう言う。
仏教の目的は「抜苦与楽」である。
聖道仏教では、苦しみの原因は煩悩だと教える。
しかし、苦悩の真因は煩悩ではない。
「苦悩の根源は疑情」ということである。
「疑情とは何か。別名「無明」または「無明の闇」ともいわれるが、後生暗い心のことである」
後生暗い心とは何かというと、「死後どうなるか分からない心」のこと。
つまり、私たちが苦しむのは死んだらどうなるか分からないためなので、それが分かれば苦しみはなくなり、絶対の幸福になる、というわけだ。
では、死んだらどうなるのか?
「阿弥陀仏の本願は、生きている時は絶対の幸福に救い摂り、死んだ後は極楽へ生まれさせて、未来永遠の幸福に生かし切るという誓願である」
死んだら極楽に生まれることが決まったから、今、絶対の幸福だということだろう。
ところが、誰でも死後に往生できるわけではない。
「往生には、現在の往生と、死んでからの往生と二つあるが、現在ただ今、往生できている人だけが、死んで往生できる」
現在の往生とは絶対の幸福になること、死後の往生とは死ぬと同時に浄土へ往って仏の身に生まれること。
今、絶対の幸福にならないと、死んでも往生できない、だから弥陀の本願を信じなさい、と仙波氏は勧めているわけだ。
しかし、往生できない人がいると断定するのは、摂取不捨の本願と矛盾する。
仙波氏は「善因善果、悪因悪果、自因自果とは、幸福という運命は、善い行いが生みだしたものであり、不幸や災難という運命は、悪い行いが引き起こしたものだということである」なんてことを、最後で言っている。
つまりは、阿弥陀の本願を信じないとろくなことはありませんよ、ということで、こういう脅しはインチキ宗教の常套手段である。
インチキ宗教と一緒にされたのでは仙波氏としても不本意だと思う。
この『図解雑学』シリーズ、それなりに拙僧も読んだことがありましたが、とても正統とはいえないような(彼らは自分こそ正統だというでしょうけど)方の見解がまかり通るようでは、今後このシリーズ自体が問題になるように思うのですが・・・
今後買うときには気を付けます。
どうして「親鸞」だけが・・・
でもまあ、親鸞会の勉強をさせてもらったわけで、悪口のネタができました。(笑)
http://shinshu.fubuki.info/east/file01.htm
へぇ~と感心しました。「後生の一大事」について、私はこの文章中にある玉光さんと同じといっていい見解です。ここは、蓮如さんが、当時の社会背景に基づき真宗の教えを単純化・平易化・大衆化した言葉だと思っています。確かに中興の祖であり、信者は増えたでしょう。けれど解りやすいということは、一面危険を孕むことだと思います。
私には玉光ー小森ラインの方が、法然ー親鸞というお二方の仕事の本来的意義からすれば、真っ当な解釈(曲解?)だと思われます。この住職さんは、現代が明らかにしたの問題、障害者の問題、ハンセン病の問題、女性の問題等々の存在をまったく考慮されてないと思います。死後、極楽に行けるのだから、念仏さえ称えてれば、そんな問題考えなくていい。。。というのは楽天的に過ぎますね。
(あ、ここは小森さんが理論闘争した共産党とよく似た論理が見られますね。共産党は、階級闘争がすべてに置いて優先する課題であって、プロレタリアート革命が起きれば、の問題も解消する。。。と説いていました)
まあ、「他人」や「社会」や「近代」なんて言ってるお前だって死を前にしたらそんなこといってられないぞ。。。と言われそうですが。10代からずっと自殺を考え、また20代で交通事故にも遭ったことがありますが、その時クルマに跳ね飛ばされ、「ああ、これで自分の人生も終わり。でもまあ、いいや。自分としてはこれが精一杯」と救急車に運ばれながらボンヤリ考えてましたから。
死後を脅しに使うのは、親鸞会(教団)を拡張するのには都合のいい論理かも知れません。人の弱みを握った方が勝ちってやつですね。でも仏法は脅しからも解放される教えだと思っています。
そして、死んだらどうなるかがはっきりしたから、今、安心するんだろうと思います。
鈴木章子さんがそうですね。
それはそれでいいと思います。
しかし、それだけではすまない問題が出てきたということがありますし、死んだら極楽に行けることなんか信じられない人が多いことはたしかです。
そういったことにどう答えるか、明治以降、苦しんできたわけじゃないですか。
伝統教学というのはよく知りませんが、親鸞会は本派の伝統教学の流れにあるような気がしますし、親鸞会の話は伝統的なお説教(阿弥陀さんにおまかせすればお助けにあずかる、ありがたい)と似た内容で、だからどうした、と私なんか思いますね。
岐阜の坊さんがガンになって「死ぬのが怖い。だから死後の世界としての極楽を信じる」なんて、本当の話がどうか怪しいですが、妄想もいいところじゃないですか。
オウム真理教も死後を脅しに使っていました、「地獄に堕ちるぞ」と。
私以外にマンションのオーナー、スタッフ二人とその子どもの計5人のささやかなお通夜。お経はお西のお坊さんが来てくれました。この葬儀社は、良心的なところで、ちゃんとお坊さんを呼んで戒名(法名、法号)をつけてくれます。たいがい、生活保護の葬式は足元見られて、お坊さんを呼びません。(葬祭扶助の中に僧侶の読経と戒名の書いた位牌代は含まれているにもかかわらず)
スタッフの目に涙がこぼれていました。割と世話のかからない人でした。私は、どうも客観的に物事を観察するたちで、となりの部屋の人でしたが、泣きはしません。でも、このお二人の涙にはもらい泣きしそうでしたが。そしてオーナーが「何とか近くに散歩がてら詣れる墓が出来ないもんかな」と言って下さって、微力ながら、何とか実現に向けてもっとがんばろうと思いました。
死後の世界はあるかどうか。そんなものは解りませんが、身内でなくてもきっちりと見送ってもらえる人がいるなんて幸せだったんじゃないかな。
「カラマゾフの兄弟」にネギの話というのがあって、「蜘蛛の糸」の元ネタなんですが、おばあさん(カンダタ)が地獄に堕ちて、守護天使が泣くんですね。
泣いてくれる人がいるということが救いだと思います。
このことはもう少し丁寧にブログに書くことにしましょう。