「生かされている」という言い方をよく聞く。
生かしているものは何なのか?
生かしているものを先験的に存在する実体、すなわち梵、たとえば神といったものと考える人もいるだろう。
しかし、そういう考えを仏教ではしない。
「おかげによって生かされている」のである。
「おかげさま」という言葉は、「仏さまのおかげ」という意味だそうだ。
もちろん、「仏さま」がどこかにいて、何かしているおかげということではない。
それでは仏が梵と変わらないことになる。
お互いが支え合い、迷惑をかけ合い、生かし合っていること、それを「仏さまのおかげ」という言葉で表しているわけだ。
お互いが支え合い、迷惑をかけ合い、生かし合っているということは、つまり縁起ということである。
あらゆる存在は関係の中で存在している。
曽我量深は、他力とは本来は利他という言葉が正しい、そして、他力は縁起という意味であり、積極的に表現するなら本願力ということである、というようなことを言っている。
利他は慈悲から生じる意志的行為ということだろう。
利他は仏の仕事であるけれども、我々の本当の願いが慈悲という形を取るんだろうと思う。
だから、「生かされている」ということも、ただ縁起なんだ、お互い関係しながら生きているんだ、ということにとどまらず、そこには慈悲がはたらいていることを感じているからこそ、「おかげさま」という感謝の言葉が出てくるわけだ。
もっとも、慈悲というものがまずあるとするならば、これまた梵を作ってしまう。
落とし穴はあちこちにあるので要注意。
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気づいたこと1点・・・
生かされてという宗教感情が
生かす力という観念に転換する刹那
それはもう仏教ではなくなる
生かされているという宗教感情に襲われる経験もなしに
ただ、生かす力と言ってしまえば
それは、ただの観念論でしょう
その観念論はなにに役立つかというと
大いなるいのちと一体の自分と言えば
己の邪見驕慢をくらますことができるのです
そのことでブログに書いてみました。