三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

浄土とユートピア

2010年05月15日 | 仏教

平川宗信『憲法と真宗』に、浄土は批判原理だとある。
「私は、仏法は世法に対する批判原理であると考えております。和田先生も、浄土は理想ではない。浄土というのは、それを地上に実現しようとするような理想ではなく、あくまでも批判原理なのだ、ということを言っておられます」
「仏教、あるいは真宗は、あくまでも批判である。浄土の本願に照らされて、この現実世界が穢土であるということが明らかにされていく」

私も同じことを考えていたのでうれしくなった。
で、ユートピアも現実批判、社会批判によって作られたものであり、批判原理だと思う。

ユートピアとは現実離れした夢物語ではなく、理想社会を通して現実社会を批判し、理想の実現に向けて歩ませることが目的である。
ユートピアというとトマス・モア『ユートピア』だが、この小説を読んだなら、こんな国のどこがいいのかと誰もが思うだろう。
『ユートピア』はトマス・モアたちがユートピア国から帰ってきたヒュトロダエウスの話を聞くという構成になっている。
二部に分かれていて、第一部では当時のヨーロッパやイギリスの社会批判がなされ、それを受けて第二部でユートピア国という理想社会が語られる。
現実社会を批判し、その上であるべき社会が構想されているわけである。
と同時に、理想を通して現実社会の問題点が明らかにされる。
そして、物語の最後にトマス・モアは「彼が語ったことのすべてについて同意することは私にはどうしてもできない」と書いて、次の点を指摘する。
「あの民族の生活風習、法律のなかでずいぶん不条理にできているように思われた少なからぬ事例が私の心に浮かんできた。(略)なによりも共同生活制と貨幣を少しも用いない生活物資共有制においてである」
トマス・モアはヨーロッパ、特にイギリスの社会を批判してユートピア国という理想社会を描いたわけだが、それだけではなく、自ら作り上げたユートピアすら批判の対象としている。
つまり、現実を批判して生まれたユートピアが逆に現実によって批判されるのが、『ユートピア』という小説なのである。
作者としてのトマス・モアはユートピア国をどういう社会だと本音では考えていたのだろうか。

『ユートピア』のあとに書かれた優れたユートピア小説は、理想社会を描くことによって現実を批判していると同時に、そこで描かれている理想社会にも批判の目を向けている。
現実と理想との相互批判がなされているのである。
そういう自己批判がないユートピア小説、たとえばカンパネッラ『太陽の都』やベラミー『顧みれば』のように、作者が自らの作った理想社会の自画自賛に終始するものはただ凡庸なだけである。

どのようなユートピアも理想社会ではなかったことを歴史の実験によって我々は知っている。
ユートピア国で行われていた私有財産の否定、貨幣の廃止などが実際になされ、そして失敗した。
経済の発達、技術の進歩、制度の改革といったことでは理想社会にはならないことを我々は歴史から学んでいる。
ユートピアの歴史は、現実を批判して生まれたユートピアが現実から批判され、その批判に答えて新たに時代社会に即したユートピアが生まれて現実を批判するが、それもやはり現実によって批判されるという、現実と理想の相互批判の歴史である。
どのような社会が人間にとって幸せなのかがユートピアによって常に問い直されてきたわけである。

では、ユートピアと現実社会が相互批判の関係なら、浄土と穢土とはどういう関係にあるのか。
平川宗信氏は「本願に照らされて、この現実世界が穢土であるということが明らかにされていく」と言っている。
だったら、穢土は浄土を批判するのか。
浄土は人間の願いが成就された世界ではないから、人間の考える理想であるユートピアとは違うはずだ。
批判される浄土が方便化土だと考えたらどうだろうか。
胎生、辺地、七宝の宮殿、金鎖などのたとえで示される、自分の思いの世界である。
『教行信証』の「(方便応化の身は)これ生老病死、長短黒白、是此是彼、是学無学と言うことを得べし」という文章を、山辺修学、赤沼智善『教行信証講義』では「この応化身の如きは(略)批判せられる仏である」と訳している。
方便化土が批判されるべき浄土だというのは、そんな的外れでもないと思う。


で、ユートピアに話は戻って、もはやユートピア小説は書かれなくなった。
代わりに、理想社会が実はアンチユートピアだったというアンチユートピア小説が書かれるようになる。
アンチユートピア小説であるハックスレー『すばらしい新世界』のエピグラフは、ニコラ・ビィェルディヤーィェフの「理想国(ユートピア)は、これまで信じられなかったほどたやすく実現しそうにみえる。それで、見方を変えれば、われわれはまことに困った問題に直面している。つまり、理想国(ユートピア)の窮極的な実現をどうして避けるか、ということだ」という言葉である。
科学技術や文明の発展はユートピアを現実化した。
だからといって現実がユートピアになったわけではない。
ということは、我々の願う世界は我々を幸せにするわけではないらしい。
では、理想や希望はゴミ箱行きなのかというと、そうでもないことを教えてくれるのがエルンスト・ブロッホ『希望の原理』である。

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