三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

中村うさぎ『私という病』2

2009年05月16日 | 

他人に認めてもらうことで自己確認しようとするのは、自分の中に何もないからだ。
中村うさぎ氏は「自分の行為の動機が「自己確認」であることを知っている。だが、問題は、「どのような自己を確認したいのか」という点だ」と言う。
清沢満之の「自己とはなんぞや、これ人世の根本問題なり」ですね。
しかし、自己評価の低い人に「自己とはなんぞや」と問うても、そんなものありませんとという答えが返るのではないだろうか。
自分の中に何もないと思っているから、外から何かを持ってきて空白を埋めようとする。
そんなことをしているうちに依存になってしまう。

近藤恒夫『薬物依存を越えて』に、薬物依存についてこう書かれてある。
「私は、薬物依存とは「痛み」と「寂しさの痛み」の表現だと受けとめている。「痛み」とは身体的な痛みで、「寂しさの痛み」とは自分は学校や社会の中で必要とされていない、役に立たないという気分の悪さ、疎外感、虚しさ……という心の痛みである」
「覚醒剤やコカイン、シンナーなどの薬物は、耐え難かった身体の痛みや寂しさの痛みを、努力なしできわめて効率的に取り除いてくれる魔法のクスリなのである。そして、身体的な痛みと寂しさの痛みが強ければ強いほど効き目は大きく、薬物依存に陥りやすい」

近藤恒夫氏によると、依存症者は心に飢えを抱えており、自分自身にはないパワーを自分の外に求めて飢えを満たそうとするそうだ。
それは他者からの賞賛や関心だったり、あるいは覚醒剤や酒だったりするわけだ。

中村うさぎ氏が依存症について、ガス漏れ不安からガス栓を何度も確認し、ついには外出できなくなってしまう強迫神経症に快感がプラスされた病が依存症だ、と説明していて、きわめてわかりやすい。
「己の不安を解消するための思い切った行為が強烈な快感を呼び、以後、ガス栓を確認するようにその行為を何度も何度も繰り返すのだが、それは「不安解消と恍惚感の確認の儀式」に過ぎず根本的な問題解決ではないから、あっという間に形骸化し、しかも儀式であるがゆえに何やら呪術的な強迫観念が生まれて、止められなくなってしまうのだ」

他によって自己確認するわけだから、常に他人が自分をどう思っているかが気になる。
近藤恒夫氏は「依存症者とは、いつも自分以外の他人を気にしながら生きている人」と言う。
アルコール依存症の自助グループの人が、「今まではプライドが高くて、自己中で、人のことを考えずに生きてきました。そのくせ他人が自分をどう思っているかが気になる。アルコール依存症はみなそうなんです。自分を中心に世界がまわっていると思ってるから、人がどう思ってるかが気になるんです」と話してて、思わず「そう、そう」とうなずいてしまった。

香山リカ「心が傷つき、回復するということ」を読むと、中村うさぎ氏のような人(私のような人でもある)が増えているらしい。
診察室での相談を聞いていると、「現在生きている多くの人たちは、みんな何となく不本意な気持ちとか理不尽な気持ちを持っていると思うのです。自分は一生懸命やっているのに報われないという気持ちの人が今非常に多い」と香山リカ氏は言う。
「私はまじめにやっているのに、私は頑張っているのになぜ幸せになれないんだ。こんなに頑張っているのに。こんなに一生懸命やっているのに」
だから、不本意な現状を認められない。
でも認めざるを得なくなってくる。
そうなると怒り(「どうして私がこんなひどい目に」)を感じる。
そしてまた否認し、そして怒りを持つ。
否認と怒りをずっとぐるぐる繰り返して、次の段階に行けない。

この怒りということ、近藤恒夫氏が言う恨みと通じていると思う。
「もう一つ、薬物を理解するうえでキーワードとなるのは「恨み」の感情だ。薬物依存者の心の中は、自分ではコントロールのできない恨みの感情で満ちている。薬物依存者は家庭や学校、職場で、自分の思い通りにならなかった体験をたくさん抱えている。コンプレックスと言い換えてもいい。嫉妬や羨望、自己憐憫、高慢なども含むコンプレックスが、ドロドロとした恨みの感情になって、心の中に沈殿されたままになっている」
「やっかいなことに、薬物依存者はクスリを使い続けるために、この恨みさえも巧みに利用する。クスリを使うためには理由が必要だ。そこで、誰かを悪者にして恨みを晴らすために、クスリを使う。恨みが大きければ大きいほど、クスリを使い続けるためには好都合なのだ」

恨みが内に向かえば依存症(薬物に限らず摂食障害とか)になるし、外に向かえば、たとえば動機のない通り魔事件になるのではないかと思う。

「何をもって幸せとするかみたいなことに対して、今、価値観が非常に揺らいでいるわけですね」と香山リカ氏は言ってる。
現実の生活の中でどうして価値を見いだすか、生きている意味を見つけるか、基本的な自信をどのようにしてつちかうか。
「「私という病」は、私が死ぬまで抱えていかなくてはならない「自意識」という名の不治の病なのである」と中村うさぎ氏は言うが、ほんとその通りだなと思う。

ロバート・I・サイモン『邪悪な夢』に、ウィリアム・スローン・コフィン牧師「私はオーケーじゃない。あなたもオーケーじゃない。だからこそオーケーなんだ」という言葉が紹介されていて、そこらに答えがあるような気がする。
近藤恒夫氏によると、シンナーやガス依存者本人は「自分はいい人間ではない」と思っている、つまり自尊感情が乏しい子が多いそうだ。
誘われると、「友達を失いたくない」という気持に負けて一緒にやってしまう。
シンナーやガス依存の人にコフィン牧師の言葉は届くだろうと思う。

ネットで検索すると、コフィン牧師は神学者・聖職者・反戦運動家、ルービンシュタインの娘婿であり、1968年5月スポック(小児科医)ら5人とともに徴兵拒否の教唆扇動罪で起訴されている。
大したもんだと感心した。

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