「図解雑学」シリーズはわかりやすくてためになる。
一つの項目を見開き2ページで説明しており、偶数ページが文章、奇数ページが図解による説明となっている。
廣澤隆之『図解雑学 仏教』を読む。
釈尊の生涯、教え、大乗仏教、中国仏教、日本仏教と、仏教について幅広く、ひととおりのことが説明されている。
仏教について予備知識のない人が読んで、どの程度理解してもらえるかよくわからないが、しかしこの本はオススメである。
本願寺もこういう本を出してもらいたいものだ。
思ったこと。
出家第一主義、僧院での瞑想第一主義の傾向は、声聞(小乗)の各派にみられ、インドにおける仏教の主流である。後に、このような仏教のあり方を批判した大乗仏教も、この主流を超える勢力を獲得することはできなかった。
インド仏教では大乗仏教が主流になれなかったのなら、インド仏教において龍樹や世親の影響力はどの程度だったのだろうか。
龍樹や世親の時代、さらには密教が盛んになった時代でも、上座部仏教の論師のほうが有力だったのか。
煩悩は心の中から出る汚れであるという考えがある一方、煩悩とは清らかな心を覆う汚れであるという考えがある。
後者の、本来悟っているのに、煩悩によって汚れている、という考え、これは無垢な赤ん坊を理想化する老荘の思想と似ている。
心を磨いてきれいにしなさいという教えが聖道門ということになる。
金剛石も、みがかずば
玉の光は 添わざらん
人も、学びて 後にこそ
まことの徳は 現るれ
時計のはりの 絶間なく
めぐるがごとく、時のまも
光陰惜みて 励みなば
いかなる業か ならざらん。
玉の光は 添わざらん
人も、学びて 後にこそ
まことの徳は 現るれ
時計のはりの 絶間なく
めぐるがごとく、時のまも
光陰惜みて 励みなば
いかなる業か ならざらん。
この昭憲皇太后の歌はまさに聖道門の教えそのものである。
しかし、真宗は、心は本来清浄だという考えではないと思う。
岸本鎌一氏はこういうたとえを書かれている。
人間は煩悩のかたまり。タドンのようなもので、磨いても美しくならず、細くなり、芯まで真っ黒。磨くのをやめて、火を点じてもらえば、真っ赤な熱を発散し、人に喜ばれる。
「私たちはタドンのようなもので、洗っても洗っても汚れは落ちない」というタドンのたとえは七里恒順という和上の話にあるそうで、それを批判する人もいて、「親様のお慈悲はありがたい」で終わってしまうのなら、たしかにその通りである。
しかしながら、私がタドンのようなものだということは事実ではないかと思う。
あるサイトでは『図解雑学仏教』を、「仏教を深く学ばれた方には不向きだと思います」と書いてあった。
専門書ではなく入門書なんだからこれでいいと思うし、記述に間違いがあるのなら指摘すればいいのには思った。
もちろんそれは現在進行形です。
ある先生は、
「自分の存在が何らかの形で痛めつけられていたり、危ない状態になっていると、恐い・悲しい・傷つく・助けて、という気持ちになります。その気持ちをためていくと、時には怒りになっていくし、憎しみにだって変わってしまいます。感情にいい・悪いはないんだということがまず一つです。どんな感情も「あなたを大切にして」ということを教えてくれるサインだし、感情はそこに生じている、ただそれだけのことです。その後の処理を誤ると困りますが・・・」
と話されてました。
感情をためると怒りや憎しみになると言われるわけですが、どの程度ためると怒りや暴力になるのかというと、人それぞれなのでしょうか。
どうも私はこらえきれる分量は少しだけのようです。
自分も不安定だった時期は何かとキレやすかったですし、今よりももっともっと過激な社会批判、現世(?)批判をしていましたからね。
で、まあ動物行動学のローレンツにはじまって、イロイロ本を読んでいましたが、これまた同じ話しの繰り返しですが、自分が何に怒っているかが言葉にできれば、人間の攻撃性はどこからくるかとか、男性の攻撃性は学習によって起こるのかとかの仮説とか。それは学問的、知的興味をそそるものでしたが、今となってはどうでもいいような感じがしてます。
何にせよ怒ってばかりいる状態が自分にとって愉快ではないと思いましたから、そこから抜けだそうともがいていました。しかしながら、他人様がその状態をご自身で良しとされるなら、私にはどうしようもできないというのが、パールズ流の単純な結論ですね。
その特徴もピッタリそのまま。
でも、ネット右翼は「大半は1970年代~1980年代生まれの主に男性」だとどうしてわかるんでしょうか。
10代の人もいるようにも思うんですが。
それと、ネットイナゴは「ヒマをもてあましている」ということ。
彼らはどういう仕事をしているんでしょうか。
ネットイナゴは「おそらく、ほとんど男性である」、そしてネットイナゴの「暴力性」ということで思ったのが、受刑者の95%は男ということです。
女性はあまり犯罪をしないんですね。
男の多くは暴力性を外に吐き出さずにはおれないということなのでしょうか。
http://tactac.blog.drecom.jp/archive/1801
この半年ここにほぼ毎日あらわれる私はさしづめネット鳥モチでしょうか(笑)。けど他のところにはまず書き込みませんが。
まあ、話題を提供して下さいとのことでしたので。いささかやり過ぎですか(笑)。パールズ作のゲシュタルトの祈りというのがありますが。
http://www.ieji.org/archive/das-gestalt.html
前段は冷たい響きですが、後段は切なさが漂いますね。
そりゃ人情ですから、そうあっさり切り捨てられては。
ムーア『シャンブロウ』というSF小説があります。
私だったらそのまま死んでもいいと思いますね。(^_^;)
http://akumaru0329.fc2web.com/space/space105.htm
AAで話を聞いて思うのは、みなさん方の自己洞察の深さです。
それは他者に対するやさしさにも通じる。
言っちゃ悪いですが、厳罰化を言う人は自分は大丈夫だと思っているだろうし、違いを見つけることで安心しているように思います。
ある時期、異性を意図的に(?)好きになり、それでもって死神の誘いを振り切ろうとしたことがありました。そっちの世界にはまだまだ行かないよ、と。
でも、怪談・牡丹灯篭のお露さんみたいな美人の幽霊が現れてこっちへいらっしゃいと言うならそっちへ行ってたかも知れませんが(笑)。
太宰治が、死のうと思っていた時期に、友人から着物を送られたそうです。それが、その季節向きじゃなかったから、袖を通す季節までは生きていようと思いなおしたそうですが。(相原コージの漫画では、海に入りながら、ふと押入れにエロ本を隠しているのを思い出して引き返した太宰治ネタがありましたが)
さて。自我はほめられればウソでも嬉しく、けなされればホントウでも傷つくというようなことを西研さんが書いておられましたが。自分に甘く、他人に厳しいのが「自我」。自分の傷には敏感だけど、他人が傷つくことには鈍感。だから、いつでも自分は傷つく側にいる発想から離れられない。自分が傷つける側には立たない。
では、どうしたら自分を大切に思えるようになるか、ですね。
寺の掲示板は「愛する人ができれば、死を怖れるようになる 岩井恭平」という言葉にしています。
これは石原慎太郎脚本・制作の『俺は、君のためにこそ死ににいく』への反論のつもりなんですね。
愛する人がいたら自分を大切にするようになるのではないでしょうか。
あるいは、人から愛されていると感じたら、自分は大切な存在だと気づく。
日蓮さんはあまり好きではありませんが、日蓮さんのどこに多くの人が惹きつけられるのか、そこには関心があります。
>仏教語には受容という言葉がないようで、それに近いのは摂受らしいですが。
ま、自己「摂受」というのか。これでいいやと思います。
と書くべきでした。自分を受け入れるようになって、たしかに他人に受け入れてもらえやすくなり、私の側もまた他人を受け入れやすくなりましたね。
折伏ということばには拒否反応がありますね。だから、日蓮さんにはまったくといっていいほど関心が向きません。
折伏とセットで使われ、「摂受」とはまだ仏法を知らない人には優しく説得することで、「折伏」とは既に何かの宗旨をもっている人に対しては徹底して翻意を促すこと、とあります。
http://www.hct.zaq.ne.jp/renjouji/syousyaku.html
もてるためには摂受は必要条件の感じがしますね。
そりゃまあ、優しいというのは異性に限らず好かれる条件でしょうね。
で、幼いときは親に気に入られるか、認められるかが一大事でしょうけど。少し大きくなると、仲間と言うか友だちができて、その友だちの中で評価が得られれば、まあ親の影響を脱するのかも知れません。
そして、思春期はたしかに異性にとって自分が受け入れられているか、好かれているかが気になるところですが。私なんかは思春期からはるかに隔たった今、別に異性にもてなくても(年下の)同性でもいいやと開き直ったので(笑)逆に以前よりも異性とふつうにしゃべれたりするようになったみたいです。
で、若い頃は異性に過剰な思いを抱いてましたが、まあ夢はかなうと萎むというか。。。以前ほど強い憧れというものは、しぼんできましたね。
仏教語には受容という言葉がないようで、それに近いのは摂受らしいですが。ま、自己受容というか。これでいいやと思います。
私の感じとして、もてる男は女にやさしい、女の悪口を言わないような気がします。
「あいつはブスだ」とかみんなで言っている時は黙っている。
それに加えて、おだてるのがうまい。
下心があってのことかどうかはわかりませんが。
五せい(誠実さ)と七台詞、八力(信頼力・包容力)というところでしょうか。
娘には「俺だけは違うがオトコ信じるな」と言っとかないと思う今日この頃です。
自惚れを やめれば他に 惚れ手なし
捨てる神 あるが 仏も 素通りし(笑)
まあ、えらばず、きらわず、見捨てずというアミダさんの本願は、自分が自分に言い聞かせ、ひとり噛み締めてる言葉ですかねえ。。。とほほほ
落語に『色事根問い』というのがありまして、そこでは、ご隠居はんに男がもてる秘訣を教わろうとするのですが、ご隠居はんが説くもてる男の条件としてあげてるのは。。。
一見栄(服装のセンスなど)、二男(ルックス)、三金、四芸(特技)、五せい(誠実さ)、六おぼこ(母性本能をくすぐる幼児性?)、七台詞(交渉力)、八力(信頼力・包容力)、九肝(度胸)、十評判。。。
強いていえば四だけ(一人デュエット)ですかね。しかも万人向けでないやつ(汗
まあ、かつてお酒の席で女性に、「○○さんは小さい頃からまわりの人たちにカワイイ、カワイイと言われて育ってきたと思うけど、スキでもない男から好意をもたれても嬉しくはなくてキモいだけですか。それともまあカワイイと言われるぐらいなら、やっぱり悪い気はしないのですか」とかインタビューを重ねてきましたが(笑)一般法則をひきだすには至りませんでした。
あまりホンネを漏らしてくれませんのでもてる人の気持ちは想像しがたいですね。「自分には高い価値がある」と思っていると、やはりドンドン理想が高くなって、逆に息苦しくなるということはあるのでしょうか。
万次さんの好みがわかりました。(笑)
>私の遺伝子を遺したいとは思いませんね。
埴谷雄高『死霊』に、人間の意志でできることが二つある、一つは自殺すること、もう一つは子供を作らないことだ、というようなことを言う人がいました。
つまり、生存本能と種保存本能(というか遺伝子保存本能)という本能を否定する行為なわけですね。
ルサンチマンという考え、なるほど、たいていのことに当てはまります。
だけど、精神分析もそうですが、あらゆることに適用できる考えというのは、かえってアヤシイ。
>「お前ら福祉をやる人間というのは、異性にもてないとか何かコンプレックスがあるからそういうことをするのだろう」と言ってました。
なんでも某参務は「社会問題をやっているのは劣等感をごまかすためだ」とか発言したとのこと。
劣等感ということで全てを解釈しようとすることも、わかりやすいけどアヤシイ。
小谷野敦『もてない男』は未読でして、読みたいけど、もてない男としては自己嫌悪に陥りそうで怖い。
まあ何にせよ、もてる男に憧れて、そして死んでいく私です。
さて茫洋とした悩みを抱えていた時期から、遥かな時間が経過し、その時間を未来に延長したらもう平均寿命を越える年頃になりました。
10代の頃は、あと何十年こうやって苦しむのだろうと思いましたが。もはやあの暴風雨のような季節は過ぎたんだと思うと正直ホッとします。
ニーチェは宗教(キリスト教)の根底には、弱者が強者を妬む感情があって、復讐を果たし遂げるため別の理想世界をつくってそこに逃げ込み、逆にそこで強者となる。。。という説をとなえましたが。
http://wiki.blhrri.org/jiten/index.php?%A1%F6%A5%EB%A5%B5%A5%F3%A5%C1%A5%DE%A5%F3
むかし働いていた職場で上司が、「お前ら福祉をやる人間というのは、異性にもてないとか何かコンプレックスがあるからそういうことをするのだろう」と言ってました。他人が見てなかったら何をするかわからない人間。けれど、他人のために敢えて「ひと助け」みたいなことをするのは、自分が「いい人」だという評価を受けたいからなんだろうということですね。そのことによってアイデンティティを得るということ。
うーん。私は、ホモセクシュアルというのは異性にもてないから、同性に走るのだという偏見を持っていたのですが。私の知り合いは、実にカッコいいです。女の子が、「○○さんって女のあたしには目もくれなーい、くやしい」というし、また「万次さんはいいなあ。○○さんに気に入られて。あたしなんか全然覚えてもらえないもの」(いわゆるニューハーフの△△さんの言葉。私から見るにべっぴんさんです、この方)
私の仮説はみごとに覆りました。まあ、ひとそれぞれですよねえ。何に惹きつけられるのか。何が彼をそうさせるのか。まさに何に出会うかなのでしょうか。
お坊さんになると、まあ中性になるのですかね。種の保存にも、個の保存にも逆らっていくのが目標でしょう。で、衣装は三衣だ、あたまはツルツルだし。。。とてもお洒落などできず、他と差別化を計らないようにするのでしょうが。
で、私は真宗に所属してますが(笑)、京都で真言宗の仁和寺のお坊さんがずらずらっ~と並んで、修行に出かけるのを見たことがあります。その中にメッサ男前がいました。もう20年も前なのにはっきり覚えてます。
「男前は、やっぱ坊主頭でも男前やなあ」とタメ息をつきました。負け惜しみに聞こえるでしょうが、いまなら自分は男前でなくてよかったなあ、とつくづく思えます。男前なら今みたいな気軽な一人身でいることもなかなかタイヘンでしょう。まわりが決して放っておいてくれませんからね(笑)
私の遺伝子を遺したいとは思いませんね。去年、仕事で、10代の頃不安定な気持のままで過ごしていた場所を何度も訪れました。あの十代の、行くあての無い、何に悩んでいるのか掴みどころの無い感情。今は、悩みでも実に具体的です。
鳩摩羅什は数人の女性と一緒に住み、子供もいたそうです。
そこらの葛藤を龍樹伝で表したという説は説得力があります。
造悪無碍に親鸞は困ったと言われていますが、造悪無碍の輩は実際のところどういうことをしたんでしょうね。
ばれなければ何でもするかどうか、たぶんその人の持っている善悪の基準次第だろうと思います。
日弁連への脅迫状はネットを見ますと、可と考える人が結構いますね。
こっそり女性の部屋に忍び込んでということは可でも、その女性を殺すことは不可という人は多いでしょうね。
僧侶なのにうまいこと言われて子供を作ってしまうことは、鳩摩羅什にとって可か不可か。
そこで葛藤するのが宗教的人間だと思います。
http://www.urban.ne.jp/home/omijo/syuuhen/ryuju.html
学問も諸芸も極めてしまった。まあ、勉強もできるし、スポーツにも芸術にも堪能。文武両道に通じたということでしょうか。で、あとに残された課題は、文字通りの極道。ワルを極めること。(因みに本当は、極道は獄道と書くそうですが)
んで、隠身の術。つまり、透明人間になる術を習得し、男の欲望であることをやり尽くす。けれど、仲間が見破られ殺されたことをもって、龍樹は情欲が身を滅ぼすことを悟り、世をはなかみ。。。もとい。はかなみ、出家したとのことですが。
この物語がずっとひっかかるのですが、お説教で聞いたこともないし、坊さん関係で、このお話しを語りあったことはないですねえ。このお話しを彷彿とさせるのが、ギュゲスの指輪という話しです。
http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/gyges.html
ここで、ギュゲスは身の危険を悟るというオチはついてません。で、人は「ばれなきゃ、何でもするのが人間だ」というグラウコンに対して反駁するソクラテスの論理が、もひとつ私を納得させないんですねえ。
http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/fool.html
これに対し、親鸞聖人の次のお手紙。
http://www.venus.dti.ne.jp/~bouzu893/seiten/shousoku/shousoku02.html
無明の酒に酔って三毒を好んでいた。けれど、阿弥陀仏の(本願)という薬を手に入れた今もなお、毒をみずから好み他人にもすすめるということは、どういうこっちゃ、と。
まあ、私思うに「酔わなきゃやってられるかい!」という苦痛。その痛み止めとして、酔っ払うのでしょうけど、今はしらふ(ソーバー、ソブラエティ)で過ごせるでしょという親鸞さんの思いが、どうも通じない人もあるようだったのかな。
http://chatterie.exblog.jp/5178946/
生き仏信仰の否定ということはあるでしょうね。
自灯明ですが、間違っても、自己正当化せよ(本願ぼこりがそうですね)という意味ではない。
じゃ、どういう意味なのか、困ったもんです。
ご存じのように、灯明は間違いで、洲が正しいそうです。
http://park22.wakwak.com/~kuuki/hp/sisei/ronkou/data/j16.html
向こう岸に渡るために中洲がないと渡れない。
中洲とは向こう岸に渡るための手がかりとすると、自らを中洲にせよとは機の深信という意味かいな、と真宗風に解釈したいところです。
この解釈、間違いでしょうけどね。