三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

サンガラトナ・法天・マナケ『波瀾万丈! インドの大地に仏教復興』

2018年03月28日 | 仏教

 
サンガラトナ・マナケ「インドと日本の架け橋として 現代インドのアウトカーストへの差別に学ぶ」という講演をYoutubeで見て、こんな人がいるのかと驚嘆し、サンガラトナ・法天・マナケ『波瀾万丈! インドの大地に仏教復興』(2007年発行)を読みました。

サンガラトナ・マナケ師は1962年にインドのナグプールで生まれる。
マハールという不可触賎民の出身。
インドでは不可触賎民が人口の3割だが、差別されている人は7割にもなるという。
住んでいる地域と名字で、だいたいどの階層かを判断できる。
上下の区分だけでなく、横にも区分があり、同じ階層の人間同士で争わせる。

マナケ師は7歳で得度し、1971年、9歳で延暦寺に入る。
3時半に起床、4時から止観(坐禅)を1時間、そして勤行が1時間。
6時から作務(掃除)を1時間し、7時から朝食。
7時半に出て、ケーブルの駅まで30分歩き、8時のケーブルに乗り、麓の駅から20分歩いて坂本小学校に通う。
小学校から帰ると、夕方5時から1時間止観、1時間勤行、夕食をすませて勉強し、就寝は10過ぎ。
ということは、睡眠時間は5時間半しかなくて、小学生にとっては厳しい。
しかし、マナケ師は日本人はみんなこういう生活をしていると思っていたそうです。

中学校と高校に入ったときにインドに帰りますが、ヒンドゥー語を忘れてて、両親と話すときにも師匠の堀澤祖門師が通訳してくれたそうです。

インド仏教の現状に触れることができました。しかし、そこでは、僧侶を聖人として崇める行為が日常的に行われていました。

高貴な客には、低い台を用意し、女性が水瓶から水をかけて足を洗う習慣がある。
僧侶に対しては、水ではなく牛乳で僧侶の足を丹念に洗う。
足を洗った牛乳を、まず家族がお神酒のように一口ずつ飲み、続いて参列者が次々と飲んでいく。
本願寺の法主が地方に巡教したとき、法主が入った風呂の水を人々が競って飲んだという話がありますが、インドでは今もそういうことが行われているようです。

1985年、23歳の時にインドに帰国。
やはり言葉に苦労した。
禅定林という建物をやっと完成させ、次に何をするか、インドでは水がないから井戸を掘ろうとを考えた。
しかし、村長に相談すると、すぐ近くに川があり、水には不自由していないと笑われる。

私が井戸を掘ろうとするその気持ちが、相手も望んでいることだろうと思いこんでいる。相手が必要としている活動をするのではなく、こちらが勝手に決めた活動を押し付ける。ボランティアの現場では、こうしたことが多々起こりがちです。(略)相手には大変迷惑な話です。
作る側の気持ちのなかには、相手にとって不必要なものを作っておきながら、感謝しろという気持ちが芽生えます。

マナケ師はヒンドゥー語を学ぶためもあり、しばらくは高校生までの子供たち5人と共同生活をしながら畑を耕した。
そのうち、日曜日に寺子屋をして、子供を一日預かるようになる。
1年続けるが、日曜学校だけでは何も変えることはできないと思い、親がいない子、親が面倒を見ることができない子供と一緒に生活する子供の家を始める。
現在(2007年)、子供の家に40人前後、学校に約400人いる。
http://www.pmj3.com/

活動の基盤にあるものは、ものを与えるのではなくて、自立できる人を育てることにあります。
パンを与えるのではなくて、パンの作り方を教えるということです。

あんパンを与えようとしても、限られた人数にしか与えることはできない。
そして、あんパンを拒む人がいたら、「お前はなんてひどい人間だ。私はあんパンを与えてやっているだろう。それを食べればよいではないか」と怒る気持ちが発生したり、相手を見下げる気持ちが生まれてくる。
人間にはそれぞれ考え方があり、人間それぞれの生き方があり、それぞれの生き方をと認め合うべきではないか。
「パンを与える」というやり方をとると、すべてを肯定できなくなってしまう。
自分の意見に賛同し、都合のいいものだけを肯定し、自分にたいして都合の悪いものは否定してしまう。

それではどうすればよいか。
自立を促すしかない。
パンの作り方を教える。
みんなはそれを習って自分で作り方を覚える。
パンの作り方を習ってしまえば、自分の好きなようにパンを加工すればよい。

インド仏教は佐々井秀嶺師を中心にして一つの教団としてまとまっているのかと思ってたら、佐々井秀嶺師の名前が出てきません。
上座部系、チベット系などいろんな教団があり、現在のインド仏教は、個人の悟りを最優先する上座部系の仏教が主体になっているそうです。

マナケ師の活動への弾圧があるそうです。
仏教思想に基づいていないと攻撃されたり、建立した寺院を壊すよう政府に訴えた人もいた。

インドに今ある仏教形態のなかにも、私たちが受け入れなければならない考え方もたくさんあります。けれども、どうしても納得できない、私たちの立場から考えておかしなことは、絶対に受け入れることはできないのです。けんかをするのではなく、相手の立場を認めながらも、どれだけ攻撃されても自分たちの信念を貫くことが大切です。


マナケ師のもとに、年間100人前後が弟子にしてほしいとやってくるが、大半は口減らしのため。
上座部系の僧侶の大半は口減らしのために僧侶になった人たちだそうです。

インド上座部仏教の形態は、師弟が一緒に住むということではない。
弟子は一つ、二つのお経を覚えたら師のもとから出て行く。
師匠は得度はさせるけれども、なぜ僧侶になるのか、僧侶は何をすべきなのかは教育しない。
師匠は自分の弟子が50人いるという権力は見せたい。
けれども、責任は持ちたくない。

ナグプールあたりの僧侶たちは、社会のなかで何もできない人たちが僧侶になるというケースが大半。
ほかの何をしても食っていけないけれど、僧侶になることで食事も尊敬も得られる。
ナグプールの一般的な僧侶は、好きなときに寝て、好きなときに起きて、好きなことをして、ご飯は人が食べさせてくれる。
大半がそうだから、世間では僧侶は何もできない怠け者がなっているというレッテルを貼られている。

何はともあれ、大した人がいるもんだと、いつものことですが感心しました。

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