精神科医の野田正彰氏が講演でこんな話をしています。
家族が突然死んでただでさえつらいのに、金をむしり取る大家や不動産屋はひどい、と思いました。
不動産屋のニュースレターが郵便受けに入ってて、それに事故物件について書かれてて、大家や不動産を責めればいいという、そんな単純な話ではないことを知りました。
入居者が殺害されたり、自殺や孤独死したりした建物や部屋は「事故物件」と呼ばれます。
不動産を取引する場合には、物件の重要事項を客に説明する義務がある。
雨漏りの有無、白アリ被害、地中埋設物などを告知書で買い主に伝える仕組みになっている。
「物理的」「法律的」な問題が隠れていた場合の責任の取り方について、契約書の条文で取り決めている。
判定が難しいのが「心理的瑕疵」の問題。
その物件で殺人事件があったとか、自殺した人がいる場合は、心理的な問題が瑕疵となる。
自殺があると、現場を跡形もなく修繕し、リフォームを行うなどしても、「告知」をしなければ、後から自殺があったことを知った借り主(買い主)に損害賠償請求をされてしまうリスクがある。
事故物件のある土地を売却し、建物を取り壊して新築しても、敷地内であったことなので、不動産売買する際にはきちんと事件や事故があったことを告知しなければいけない。
「告知」をすれば、借りたい(買いたい)人が少ないので、賃料や価格を安くして取引をすることになる。
建物を壊して更地で売る場合の価格は、通常であれば5~7割下がる。
では、いつまで告知しなければならないのか。
この告知義務は曖昧で、何人目まで告知する義務があるのか、告知義務は何年間なのかといったことは法令では定められていない。
「5年は告知したほうがいい」「10年は必要だ」「1人、入れ替わればいい」など、いろんな話が伝えられる。
しかし、告知義務が必要でなくなる期間は法律で定められているわけではなく、裁判例も地域性やその時の状況で事例が異なる。
50年前に起きた殺人事件現場の物件でも、告知すべき瑕疵があるとした判決例もある。
大家は借り主の相続人である遺族に、以下の支払いを請求することになる。
①残置物撤去・消毒費用
②貸室の原状回復費用
③賃料減額分の損害賠償
とてもつらい交渉であることに例外はない。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171102-00006894-bengocom-soci
これは日本人の宗教観(霊信仰)と関係する問題です。
「大島てる事故物件公示サイト」といって、大島てるという不動産屋が自殺、孤独死、事故死などで死亡者の出た物件の住所や部屋番号、元入居者の死因を公開していました。
不動産業界の関係者はこのサイトを活用している人が多いそうです。
鈴木信行『宝くじで1億円当たった人の末路』に、大島てる氏へのインタビューが載ってます。
「大島てる事故物件公示サイト」にはマンション名だけでなく、部屋番号まで載っているのはなぜか。
告知義務があるのは事故があった部屋だけとされ、隣室や階下で事故があった部屋に、何も知らずに住んでいるということはある。
殺人事件などがあった場合、マンション名だけがひとり歩きしてしまうと、関係ない部屋の持ち主まで風評被害を受けかねない。
「事故があったのに何事もなかったかのように振る舞い、通常どおりの家賃で入居者を募集する業者も存在します。そんな悪徳業者や悪徳大家から、消費者を守るのも当サイトの重要な役割の一つです」
こんなことを大島てる氏は言ってますが、何から「消費者を守る」のでしょうか。
小野不由美『残穢』のように、怨みを残して死んだ人間の地縛霊がいつまでも災いをもたらすからでしょうか。
しかし大島てる氏によると、事故物件では事故が連鎖的に起きる場合があるが、それは『残穢』のような心霊現象ではなく、ほとんどが合理的な説明ができるそうです。
たしかに、自殺や殺人があった部屋は気色悪いという気持ちは理解できます。
しかし、そうした不安が生じるのは、成仏していない霊で脅す霊視商法、霊感商法に惑わされているからです。
祟りなどないのであれば、わざわざ騒ぎ立てる必要はありません。
「大島てる事故物件公示サイト」では「孤独死」も事故物件と定義しています。
「入居者の立場からすれば「孤独死は事故にあらず」という理屈は通らないと思うんです。そもそも、「すぐ死体が発見されたから事故ではない」と言いますが、なぜ施錠された部屋の中の死体がすぐ発見されたのか考えてみてください。それだけひどい悪臭がもれ出ていたからです」
大島てる氏の説明にうなずくわけにはいきません。
だからどうしたというのでしょうか。
部屋をきれいにすればすむ話です。
とはいえ、この事故物件の告知義務や遺族への弁償請求といった問題はそんな簡単には片付かないでしょう。
何が、どのように、なぜイヤなのかはよくわからないけど、とにかくイヤだという、理屈じゃ納得できないところにこの問題の難しさがあります。
わたしも以前、「事故物件」に住んでました。といってもお婆さんが孤独死されたと聞かされただけですが。通常より月額2,000円引き。けど当然のごとく夜中に首絞められるとか稲川淳二的な「反復幻像」があったりすることなかったです。念の為このマップで探しましたが該当しませんでした。大家さんにとって迷惑なマップですよね。
日本では、1976年に自宅で亡くなる人より、病院で亡くなる人が多くなった。で、在宅医療へ舵をきろうとしてる動きがありますが。これから一人所帯がますます増えるわけですから、家(部屋)で亡くなる人の中で「孤独死」「孤立死」までを「事故」に含める理由がわかりません。
私自身は、かつて夜にいわゆる心霊スポットやお墓めぐりをよくしてました。クルマを持ってないから山の中とかには行ってませんが。「お化け」や「幽霊」に出会ったら、「あなたはいまどんな状態なんですか?どんなとこで住んでご飯は食べるんですか?」などと質問したかったんですが。
先に名取市の中学校で何かを見かけたと書きましたが、あれは「幽霊」を見に行ったわけじゃない。不意をつかれると、質問したりできないんですね。
だから「実験」にはうまくのらないんですよね、超常現象って。
寝た子を起こすようなもんだと思いますが。
こっくりさんや心霊写真などの中岡俊哉さんは、息子さんたちが書いた『コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生』を読むと、心霊現象を大まじめに信じてたようです。
スプーン曲げを目の前で何度も見て、これは本物だと信じています。
魚の目を心霊手術で取ってもらったり、いろんな超常現象を体験しているそうです。
『インナートラヴェルズ』や『職業欄はエスパー』でも、当たり前のようにスプーンがどんどん曲がっている。
ですから、超常現象の研究、少なくともスプーン曲げの研究はそんな難しくはないと思うんですけどね。
いっぽう、「虫の知らせ」を体験した人は、これから私のおばあちゃんが死ぬときにもう一度、枕元に立ってくれます。弟が死ぬときも同じく立ちますと宣言するのは、ヘンな感じです。
そういうことを述べているのです。
それらなら調べることができますよね。
『超心理学』によると、それらの実験は数多く行われていますが、有意な結果は出ていないそうです。
私は「偶然の一致」派ですが、シンクロニティのように偶然の一致に意味があるという考えもありますが。
つまり、単なる透視の能力なら、遠くに離れた部屋にいるおばあちゃんに、そば・うどん・スパゲティー・ラーメン・ビーフンの中からどれかを選んで食べてもらって被験者に当ててもらうというような実験をやればいいんでしょうけど。
で、ひとつは念じてもらわずに、一方的に当てる。ふたつめは、おばあちゃんにも念じてもらう。今食べてるのラーメンだよって。送信と受信であるかどうか。そしてみっつめの予知能力であるかどうかなら、食べる前に当てる。こんな実験でしょう。
でも、「危機」にさらされてるって状況下でおこるということなので、人為的におばあちゃんを火傷しそうな風呂に入ってもらうとか、ぼた餅で喉をつめてもらうとかして、五択で当てるとか。。。。ダメでしょそんな実験。
阪大では、「虫の知らせ」を災害・事故への予知能力の一種ととらえ、それを「ネガティブ刺激の事前回避行動」として研究・考察しています。
http://syasin.hus.osaka-u.ac.jp/016/016imamura.pdf
たとえば、奇術師がいるとか。
あるいは、実験の最初はうまくいっても、だんだんと失敗が増えてくることにもいろんな理由がつけられています。
それはもっともだと思うし、言い訳のようにも感じます。
そうしたことが超能力の実験にはついてまわりますよね。
1930年ごろからラインが実験を始めて早80年近く経っています。
しかし、いまだにこれといった成果は出ていません。
虫の知らせや死者の姿を見ることが客観的事実かどうかはともかく、そのことによって、身近な方が亡くなったという事実を受け入れることができるなら、それはそれでいいことだと思います。
まあ、「見た」という人は、向こう側に確かに「幽霊」がいるのを、私が見たと思っている。心理学者たちは、その人たちが「疲れ」ていたり、「罪悪感」を抱えているので「見た」りすると解釈してるようです。
仏教の中に「唯識」という一ジャンルがあります。有名な一節に「唯識無境」というのがあります。これをめぐって、学僧や時代によって解釈がいろいろ分かれるようですが、フツーに考えると、私が、見たり聞いたり嗅いだりつまんだりしているけれど、外側にモノが存在していないということでしょう。
この唯識学派なら、超常現象というのは私たちがフツーに見たり聞いたり嗅いだりつまんだりしていることと同程度の「迷い」というのではないでしょうか。
つまり、超常現象が「誤り」でフツーの現象が「正しい」と判断するのでしょうか?
さらにややこしいのは、チベット仏教のような「中観派」とされてるサイトを読むと、いよいよ迷宮入りでありますね(笑。
http://urx.mobi/I6qB
多くの人が「怖くない」と言っているのは興味深いです。
ある人が「死ぬのは怖くない。大好きなお母さんに会えるから」と言われたことがあります。
死への親近性といいますか。
バラの花が見えるとして、唯識だと、網膜に映った像を「これはバラだ」と認識しているに過ぎなくて、実際にバラの花があるかどうかはわからないと考えます。
そして、バラの花だと認識しても、それが誰にとっても同じバラの花かどうかはわからない。
私の父は認知症になって、誰かと話をよくしてました。
幻聴と対話してたんでしょうね。
私にとっては幻聴ですが、父にとっては現実でしょう。
私が正しいという保証はないというのが唯識の考えなんでしょうね。
でも、リンク先を見ると、唯識は自分の心は実在していると考えるわけだとすると、バラの花のたとえは中観なんですかね。
で、やっぱ西洋哲学だ!笑 で、中観でも自立論証派と帰謬論証派があってツォンカパ大師は後者。で、私も前々から思っていたけどこの帰謬論証派というのは、つまるところ自分は積極的に主張を立てず、相手の主張にことごとくケチをつけて私は正しいって言う。なんじゃこれと思いました。そのあたりこの方はカントやフッサールに言及して「仏教は乗り越えられてるよ」と指摘。うなづく。
https://ittokutomano.blogspot.jp/2012/05/blog-post_14.html
で、あと面白いなと思っているのが江戸時代の日本の儒教の思想家たち。藤原惺窩は相国寺で、林羅山は建仁寺で、山崎闇斎は妙心寺で学んでいます。なぜ彼らは仏教を棄てたのか。
たとえば惺窩は、仏教徒は真諦とか俗諦とか言って、世間に対して出世間の優位性を説くけど、私から言わせりゃ、人倫(人間関係)にこそ真理がやどってるんだ!と言ってます。ま、なるほどと思います。江戸時代のお坊さんは役所の戸籍係みたいなところがあって、どっぷり社会につかってるのに、何へりくつこねとんねんみたいなことは感じます。