「階級社会のなかで治安を守る有効な方法の一つは、最も貧しく、差別されているグループに、さらに地位の低いグループがいる、と説得することである」(C・ダグラス・ラミス『要石』)
江戸時代は士農工商穢多非人という身分制度があったが、明治になって四民平等になった、と中学で習った。
ところが、上杉聰『これで納得!の歴史』に「江戸時代の身分は、「武士・百姓・町人」の三つが主でした。(略)歴史教科書から「士農工商」の言葉は、ほぼ完全に消えてしまいました」とある。
「四民平等」が一般的な用語として広く使われるようになるのは明治30年前後のことなんだそうで、知らないことばかりです。
そもそもは社会の「下」ではなく、「外」だった。
「江戸時代まで、は社会の「外」にありました。それは、たんに「穢れ」意識などによるものだけでなく、裁判制度、行政的な支配なども、一般社会と異なった支配・法体系のもとにあったからです。住む所も、異なる土地へと隔離されていました」
「・」には「外(ほか)」などの表現がつけられ、「こわい」「血筋が違う」「異人種」といった「穢れ」や「動物視」などもまとわりついた。
の中にも上下があり、帯刀を許された者もいる。
しかし、「外」だから、一般の人はそのことを知らないでいた。
それが明治維新によって変わる。
「社会の「外」にあったため、一般社会の人々は、それに気付かないで過ごすことができたと考えられます。ところが賎民廃止令によっての人々が社会のなかへ入ってきたとたん、互いに比較できますので、彼らの身分観念と矛盾をきたし、刀を取り上げたのです。
つまり、社会の「外」にあれば、の「上」の姿も容認でき、矛盾しないのですが、それを社会の「内」へ組み込んだとき、に対する差別意識は「外」から「下」へとイメージが変わることを余儀なくされるのです。
こうして、に「下」という意識がつきまとうことが近代の特徴となります」
この上下関係は価値の上下になる。
「差別について今日、「下」のイメージが増えて、「下」という「価値」で表す場合が多いのですが、実はその陰に、かならず「排除」の差別が含まれていることに気付くべきだろうと思います」
の人間はたとえ金持ちであろうと社会の最下層の存在だと価値づけられる。
貧富の上下もある。
「廃止令」(「解放令」という言い方は正しくないと上杉聡氏は言う)以前のの「生活は案外豊か」だった。
警察・刑吏・皮革・芸能などの仕事を占有していたからである。
ところが、賎民制度の廃止によっての人々はそれらの仕事を失った。
「賎民制度を廃止した結果、その仕事を解雇したために起こった経済的な打撃は、たいへん大きなものでした。もし相応の補償措置が講じられていたならば、防ぐことができたでしょう」
青森県「残らず平民になる、併(しか)し渡世成り難き旨にて困窮す」
長野県では、警察の仕事をする代償として、一年に二回、お米を農民たちからもらってきたのだが、廃止令によってそれがなくなり「困窮」した。
しかし、職を失った民に経済的な補償はなされなかった。
「関東のは経済基盤が弱く、江戸時代から収入の多くを警察・刑吏の業務に依存していましたから、廃止令によっての人々は大きな経済的打撃をこうむりました。このため、周囲の一般民衆にいっそう頼らざるをえない状況が生まれ、とても差別をなくしてくれと要求できない立場に追いやられていました」
経済の格差は現在でもある。
地区児童の学力は府全体の児童の学力と比べると、明らかに差がある。
「学力差には、親の蓄積した教育程度や経済力が、子どもたちの世代にそのまま伝えられ、差別が確実に子どもたちに影響を落とす構造があるのです。
では、なぜの親たちの学力が低かったのか、経済力が低いのか、そこには差別の歴史があります」
子供の学力の差は親の経済力の差と無関係ではない。
「今、問題になっている「格差」問題とは、悪い状態から抜け出すことが、事実上不可能になっているということなのです。(略)深刻なのは、そうした「地位」が、親から子へも伝わってしまうことです。親の経済力や学力、そして社会的な地位が、そのまま子どもへ引き継がれる傾向になることなのです」
格差が新たな差別を生むことになるし、差別は格差を固定化するわけである。
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帯刀を許された人もいたというのは、なにかで読んだことがあります。
芸能関係で派手で人気があり、収入もかなりあった人もいたそうですね。
神社の境内などで芸をするというのも今も続いていますね。
慣習法というのか不文律で、六法全書に載ってなくても彼らだけが認められているんですね。
で、村の祭りで青年団が屋台を出そうとすると、『ちょっと待った』と言われるんです。
また脱線ですけど
以前、私は住む家に困っていて公営住宅の申込書をもらいました。
読んでびっくり、私の収入では多すぎて申し込みが出来なかったのです。
安月給で自家用車なんてとても買えなかったですけど、公営住宅の住人は車に乗ってるんです。
今、生活保護を受けている人は車に乗れないでしょ。
公営住宅は地区の人を優先して入居させるためのものでしょうけど、矛盾を感じたあの頃でした。
人間というものは、ほんと特権が好きですね。
その特権を守る一番簡単な方法が血統なんでしょうね。
学力は落ちるけど、カースト枠で合格したり、逆に不合格になったり。
逆差別ということもあるようです。
だったらどうすればいいのか。
難しいですね。
ここでバーリアなどの民俗芸能者が含まれるとあります。
>ダリットには、皮革労働者(チャマール)、屠畜業者(マハール)、貧農、土地を持たない労働者、街路清掃人(バンギー、またはチュラ)、街の手工業者、バーリヤなどの民俗芸能者、洗濯人(ドービー)などのジャーティが含まれる。
むかしむかし読んだ仏典のエピソードを思い出しました。釈迦は、王子だったころ、夏・冬・雨季それぞれの宮殿があってそこで歌舞音曲を伴った宴が催されていた、と。お釈迦さま、この歌や舞がすっかりいやになったのか。八斎戒のなかにも、不歌舞観聴戒。。。歌舞音曲を見たり聞いたりせず、装飾品、化粧・香水など身を飾るものを使用しない。
がありますよね。また、相応部(サンユッタ・ニカーヤ)の中の六処篇、聚楽主(村長)相応のエピソードでも、歌舞音曲村の村長さんに対して、「きみたちは歌舞伎者は、死後喜笑天に昇ると思ってるけど、地獄行きですよ」なんてこと言ってますね。
http://urx.blue/Ieio
私はお釈迦さまってもっと人々の悲しみや苦しみを受け止めてくれる大きな人だと思ってたときがあったけど、仏典にあたるとまったく誤解してたと思ったものです。
http://j-soken.jp/ask/2121
「また托鉢に来てるのか。おまはんらもちょっとは自分で額に汗して食い物つくってみいよ」
「あ、どうも申し訳ない。じつは私はむかし何不自由ない王子の身分だった。民百姓がやっとの思いで働いた上がりでもって暮らしていたんだ。でもそんな生活にも苦労は尽きないんだよ。将来を思うと、この国の舵取りなど私には無理だと深く悩んでいたんだ、、、」
「ふん。王子か。そんな身なりでね」
「まあもうすこし聞いてくれ。あの贅沢三昧の暮らしを離れて今は質素な生活を送っている。われわれは、われわれなりの厳しい規律のもと研鑽をしそれなりに思索を深めている。そんな中から見えてきた話が少しでも皆のお役に立てたらと思ってる。恥ずかしいけど、ひとの心を耕すって仕事、カルチャーってわかるかな?法話会などもやってるのでよろしかったらまた聞いてもらえないかな」
ブッダがおキライな芸能人。4代目桂米團治師匠が故・米朝師匠に語ったこのことばのほうがぐっと来ます。http://diamond.jp/articles/-/69582?page=311878653160.html
>「芸人は、米1粒、釘1本もようつくらんくせに、酒が良えの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間が決めてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのおかえしの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」
そして話術のたくみさ。
釈尊とバラモンのやりとりを耳にしているようです。
持ち芸の一つにされてはいかが。
仏教関係の本を読み始めたころ、増谷文雄先生の本を何冊か読み、影響を受けました。
ですから、ひいき目に解釈すると、村の長への釈尊の答えは、天は六道であり、天へ生まれることを願うのは間違いだということではないでしょうか。
人権ということですが、桜部建先生は、仏教は命の尊厳ということは説かないと言われてます。
平木典子『アサーショントレーニング』に、「私たちは、誰からも尊敬され、大切にしてもらう権利がある。この人権は、いい換えれば、人間の尊厳は誰からも侵されることはないということです」とあります。
仏教では人権という考えはないのかもしれません。
とはいえ、優波離が出家したときのエピソードがありますよね。
釈尊が悟ったあと、生まれ故郷に戻ると、王族を初めとする人々が出家を願った。
ところが、一番最初に出家を許されたのがシュードラ出身の優波離で、王族でも優波離の下座になる。
優波離は、私のような者がと辞退すると、釈尊は「人は生れによってバラモンとなるのではない。行いによってバラモンなのである」と言われた。
鍛冶屋のチュンダとの逸話などがありますし、ある先生が釈尊はカースト制を否定はしなかったが無視したと言われてます。
相手に応じて、上から目線になり、また時には下に立ったのではないでしょうか。
女性が出家することに渋ったとか、比丘尼を比丘の下に置くとか、そういうこともありますけどね。
この論文中、なんといっても面白いのが赤沼智善さんが大昔に調べられたブッダ在世当時の出家者・在家者の種姓別人数。シュードラ階級は全体の約3%ですね(不明が半分以上でチャンダーラはないんですが)。いえ、3%でもあるというのが驚くべきことですけど。
チャンダーラについてはこの論文がありますね。 http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/4607/1/KJ00004465344.pdf
この中で引用されてる松溝誠達先生の説では、チャンダーラは『テーラガータ』の中で2%だということですが。
入澤先生は、「比丘になれない条件」を調べ、「畜生」とあることをもって果たして本当にチャンダーラが入門できたかどうかに疑いをはさんでおられる。
http://ur0.pw/IfMe
リンク先の論文はゆっくりと読ませてもらいます。(理解できるかどうか心配ですが)
植木雅俊『仏教、本当の教え』に、「(釈尊は)「生まれ」や、「皮膚の色」などによって人は差別されるべきではないと一貫して主張した。(略)
出家することは、本来、世俗の名誉、名声、利得などを一切かなぐり捨てて、社会の最底辺に置かれた人たちと同じ立場に立つことであった」とあります。
袈裟をつけるのが、その表明でした。
中村元先生は「仏教では意識的に最下の階級であるチャンダーラと同じ境地に身を置いたらしい。仏教の修行僧は袈裟をまとっていたが、袈裟をまとうことは、古代インドではチャンダーラの習俗であったからである」と言われているそうです。
釈尊の弟子には、道路清掃人の女性もいたといいますから、チャンダーラ出身の比丘、比丘尼がいたんじゃないでしょうか。
今では袈裟(の色)というのは、寺格とか僧階を表すものであるわけですよね。釈迦の精神から遠く離れてしまった。 http://www.sampoji.or.jp/archives/823
↑これを見ると浅葱色は下から二番目。歴博のサイトで確認してもこれ、死に装束として受け取られる色ですね。インドで袈裟は、遺棄された遺体を覆っていた布をの再利用だそうで、その意味では、浅葱色って釈迦の精神に沿うものですよね。https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/151/witness.html
「布は在家者(白い布をまとっていた)と区別するために草木や金属の錆を使って染め直され(染壊)、黄土色や青黒色をしていた。梵語の名前はこの色(壊色(えじき))に由来する」
とあります。
「壊色」とは、
「袈裟のこと。通常,青壊色・黒壊色・木蘭壊色の三種類がある。不正色。〔原義は濁った色の意。青・黄・赤・白・黒の五正色およびそれぞれの中間色のようなはっきりした色を,袈裟に使うことを禁じたことから〕」
という意味です。
糞掃衣は浅葱色ではなく、汚く濁った色ですから、チベット僧が来ている衣のような色ではないでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F#/media/File:Gandhara_Buddha_(tnm).jpeg
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/91P5OvjBf%2BL._SL1500_.jpg
まあ仏像自体が、ヘレニズム文化の影響を受けて、ギリシャ的な風貌を持っているというのは中学あたりの歴史で習ったような気もしますが。
インド人男性は、白のクルタという上着とパジャマというズボンをはいてドーティという巻きスカートみたいなのを巻いてることもあるけど。
それで、白衣というと庶民ということを表すようですね。
妙法蓮華経如来神力品にみられる「若於僧坊。若白衣舎」という一節は、出家の住まいであれ、在家の住まいであれという意味だそうです。(つづく)
https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/7/21.htm#19