「階級社会のなかで治安を守る有効な方法の一つは、最も貧しく、差別されているグループに、さらに地位の低いグループがいる、と説得することである」(C・ダグラス・ラミス『要石』)
江戸時代は士農工商穢多非人という身分制度があったが、明治になって四民平等になった、と中学で習った。
ところが、上杉聰『これで納得!の歴史』に「江戸時代の身分は、「武士・百姓・町人」の三つが主でした。(略)歴史教科書から「士農工商」の言葉は、ほぼ完全に消えてしまいました」とある。
「四民平等」が一般的な用語として広く使われるようになるのは明治30年前後のことなんだそうで、知らないことばかりです。
そもそもは社会の「下」ではなく、「外」だった。
「江戸時代まで、は社会の「外」にありました。それは、たんに「穢れ」意識などによるものだけでなく、裁判制度、行政的な支配なども、一般社会と異なった支配・法体系のもとにあったからです。住む所も、異なる土地へと隔離されていました」
「・」には「外(ほか)」などの表現がつけられ、「こわい」「血筋が違う」「異人種」といった「穢れ」や「動物視」などもまとわりついた。
の中にも上下があり、帯刀を許された者もいる。
しかし、「外」だから、一般の人はそのことを知らないでいた。
それが明治維新によって変わる。
「社会の「外」にあったため、一般社会の人々は、それに気付かないで過ごすことができたと考えられます。ところが賎民廃止令によっての人々が社会のなかへ入ってきたとたん、互いに比較できますので、彼らの身分観念と矛盾をきたし、刀を取り上げたのです。
つまり、社会の「外」にあれば、の「上」の姿も容認でき、矛盾しないのですが、それを社会の「内」へ組み込んだとき、に対する差別意識は「外」から「下」へとイメージが変わることを余儀なくされるのです。
こうして、に「下」という意識がつきまとうことが近代の特徴となります」
この上下関係は価値の上下になる。
「差別について今日、「下」のイメージが増えて、「下」という「価値」で表す場合が多いのですが、実はその陰に、かならず「排除」の差別が含まれていることに気付くべきだろうと思います」
の人間はたとえ金持ちであろうと社会の最下層の存在だと価値づけられる。
貧富の上下もある。
「廃止令」(「解放令」という言い方は正しくないと上杉聡氏は言う)以前のの「生活は案外豊か」だった。
警察・刑吏・皮革・芸能などの仕事を占有していたからである。
ところが、賎民制度の廃止によっての人々はそれらの仕事を失った。
「賎民制度を廃止した結果、その仕事を解雇したために起こった経済的な打撃は、たいへん大きなものでした。もし相応の補償措置が講じられていたならば、防ぐことができたでしょう」
青森県「残らず平民になる、併(しか)し渡世成り難き旨にて困窮す」
長野県では、警察の仕事をする代償として、一年に二回、お米を農民たちからもらってきたのだが、廃止令によってそれがなくなり「困窮」した。
しかし、職を失った民に経済的な補償はなされなかった。
「関東のは経済基盤が弱く、江戸時代から収入の多くを警察・刑吏の業務に依存していましたから、廃止令によっての人々は大きな経済的打撃をこうむりました。このため、周囲の一般民衆にいっそう頼らざるをえない状況が生まれ、とても差別をなくしてくれと要求できない立場に追いやられていました」
経済の格差は現在でもある。
地区児童の学力は府全体の児童の学力と比べると、明らかに差がある。
「学力差には、親の蓄積した教育程度や経済力が、子どもたちの世代にそのまま伝えられ、差別が確実に子どもたちに影響を落とす構造があるのです。
では、なぜの親たちの学力が低かったのか、経済力が低いのか、そこには差別の歴史があります」
子供の学力の差は親の経済力の差と無関係ではない。
「今、問題になっている「格差」問題とは、悪い状態から抜け出すことが、事実上不可能になっているということなのです。(略)深刻なのは、そうした「地位」が、親から子へも伝わってしまうことです。親の経済力や学力、そして社会的な地位が、そのまま子どもへ引き継がれる傾向になることなのです」
格差が新たな差別を生むことになるし、差別は格差を固定化するわけである。
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そういえば、江戸時代、女性が上半身裸なのは普通だったし、男は全裸の人が珍しくなかったとか。
労働者ですけどね。
サンガラトナ・マナケ師の話にも、インドの強姦と差別のことがありました。
バスに乗っていた女性が強姦され、死亡した事件は全国的な抗議運動が起きました。
http://ur0.link/IK3L
亡くなった女性は高いカーストの出身だったそうで、もしも低カーストの被害者ならこれほどの問題にはならなかっただろうと話されていました。
アウトカーストの女性は泣き寝入りをすることが多いとも言われています。
母親も夏はシミーズいっちょで過ごしてました。家の周辺では、けっこうステテコ姿のおじいさんも見ました。
インドへ10月頃行ったときの感想は寒暖の差が激しい。昼間の暑さと明け方の冷えこみと。「インド 子ども 裸」でググると、自分の子ども時代を思い出すような写真が見れますが。
「レイプ防止下着」が必要なインドの深刻事情」には、
>カーストが低い女性が被害に遭った場合、警察は捜査に動かないと伝えている。
とあります。 http://toyokeizai.net/articles/-/204905?page=2
BSでやっていたドキュメンタリー「ロヒはなぜ死んだのか」も興味深く見ました。主人公の自殺した学生さんは「宗教やカーストによる差別」に反対する活動のリーダー格でした。学内の対立勢力や大学当局に窮地に追い込まれたのが原因だそうです。
2月だということもありますが。
時には凍死する人もいるそうです。
腰巻きだけじゃ冬の雨に耐えられませんよ。
そんなところでも低カーストの人に無理をさせていたわけですね。
そういえば誕生仏は上半身裸の腰巻き姿です。
考えてみると、生まれたての赤ちゃんですから、腰巻きをしているのはおかしいですね。
いろんな論文をよく見つけますね。
ちょっとずつ読んでます。
http://rci.nanzan-u.ac.jp/museum/katsudou/item/kanho24.pdf
下層階級の女性は頭も露わにして、誰にでも識別されるようになっているとあります。さらにケララ州の衣習慣に関して興味深いことが書かれています。
で、上の投稿の『装いと人類学』に共通する話題ですが。近代以前のインドの歴史研究、なかんづく下位カーストを研究するのに文書資料が圧倒的に不足している。そこで、刻文資料を使って、研究してみると、、、(南インドのケースですが)
17世紀頃。床屋と洗濯人カーストが、陶工カーストには「足指輪と上衣を身につける権利がない」と指摘したら、陶工カースト指導者が、ギー(精製バター)で「くがたち」をやって権利があることを証明したという話が載っている、と。
これに基づくと、ある種の低位カーストの人たちは上衣を着ていなかったということがわかります。北インドのおしゃかさんの時代ははてさてどうだったのか。
手塚さんの『ブッダ』では低カーストのチャプラやタッタ、ミゲーラ(女性)などはやはり上半身、裸でした。猟師と衣服を交換なんて場面はあったっけ?
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/89407/1/B231_09.pdf
でも『装いの人類学』という本にある「カーストと着衣規制」という論文を読むと考えさせられます。19世紀以前のインドでは低いカーストの人々は、腰巻だけをしていて上着を着ることは男女とも許されてなかったそうです。まあ、インドは暑い気候だからというのもあるでしょうけど。
このウィキペディア(著者が特定できないこの情報源は必ずしも正しいとは思いませんが)のドーティの項目では
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3
>ヒンドゥー教徒にとって裸体は神聖なもので、裸体を晒すことは恥とはしなかった。 上衣を着用するようになったのはイスラム教の影響である。 17世紀以降、上衣が用いられるようになり、現在ではクルタ(kruta)という丸首のシャツや西洋風のシャツと併用される。
とあります。また、
> ヒンドゥー教徒にとっては縫い目や断ち落としのない布が清浄とされるため、布を継いで使わない。
おしゃかさまの纏った袈裟が、パッチワークでできているのとは対照的です。(糞掃衣の変遷) http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/symp/2011-03-25/s001/s008/pdf/article.pdf
仏典ではお釈迦さまがカピラ城を出て猟師と出会い、彼が身にまとっていた袈裟と衣装を交換したとも書かれています。腰巻と交換したのでしょうか。一枚じゃ全身を覆うのに足りないのじゃないでしょうかね。
ジャイナ教では、現代でも素っ裸派と白衣派がありますが、仏教教団は当時のバラモン教など他の修行者と見た目の差別化をはかっていたようですね。(原始仏教聖典におけるバラモン修行者)
http://www.sakya-muni.jp/pdf/mono07_r06_014.pdf
ここでは、動物の皮の衣とともに樹皮衣は着てはいけないことになってます。
樹皮衣って何?
http://japanese.china.org.cn/culture/2010-08/27/content_20810307.htm
また今世紀に入る前後に、日本の伝統色についてのたいへんやさしくわかりやすく美しい解説本が出版されてて(福田邦夫先生など)この話題について再考せねばと思ってましたね。
>アーリア人がインドに侵入し、最後まで降伏しなかった人たちがアウトカーストとされたと語っています。
これは山崎元一先生の諸研究が参考になりますね。
「まつろわぬ」は「服わぬ」と書くんですね。
すなわち「服従しない」ということです。
サンガラトナ・マナケ師は、アーリア人がインドに侵入し、最後まで降伏しなかった人たちがアウトカーストとされたと語っています。
https://www.youtube.com/watch?v=F5NefkZIC0g&t=3610s
糞掃衣は墓場に落ちていた布で血などで汚れているとされます。
布について血が乾燥した色は柿渋色と似てませんか。
チャンダーラが糞掃衣を着ていたというと、日本の被差別層が柿渋色の衣服を身につけていたということ、関係がなくもないのではないかと思いつきました。
もちろん、安い材料で作った布を簡単に染めたものが下層階級が着るというのは自然ではありますが。
http://o-demae.net/blog/archives/1129.html
いくらそんな立派な赤い衣を着ていても。。。
ブログ主さんは、
>住如さん以降は赤というより、柿色のような色の衣です。囚人用や民用のものとは若干、色違いなんでしょうけど似てます。
これは、緋衣か紅衣だと思われます。本願寺9世実如が1521年脇門跡に任ぜられましたが、その前後、「紫衣」「紅衣」を着ることが許されています。これは、紫草、紅花で染める衣です。また、11世顕如は、1559年も門跡になりますが、緋衣が着れるようになりました。これは茜草で染めるものです。
同じく修験道のほうにも十二道具があって鈴懸(すずかけ)という法衣があります。これを柿渋で染めて着るんですが、母の胎内に住する姿と説明があります。わたし考えるに、実用的な防水・防腐・防虫効果と、血が滲んでも目立たない色から選ばれているのだと思われます。その血を連想させる象徴的な色をあえて着ているのだと。
http://www.takaosan.or.jp/about/syugen_dougu.html
http://toyokeizai.net/articles/-/159722?page=4
古代の藍は貴重品で、藍染の青は高位の色でしたが、江戸時代になると綿が普及し、藍染の着物もポピュラーになったけど染めの回数の少ない浅葱色が囚人服に採用されたようですね。
http://www.japanblue-ai.jp/about/history.html
>なぜ柿色なんでしょうね。
なぜ柿色が差別される色になったのでしょうかね?というご質問ですか。
私が考えるに、色の種類を見分けられたのか云々より、絵巻物などに使われる顔料と、着物に使われた染料の原料が何であったかを今一度確認すると面白いなあと思っています。
その用途、効果が重要ではないでしょうか。
『一遍上人絵伝』に描かれた犬神人を見ると、その着ている服の色は微妙に違いますね。 https://public.muragon.com/yt6jsak8/vlznyc8x.jpg
『洛中洛外図屏風』に出る犬神人も微妙に違う色です。
http://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakutyuu/theme/work31.html
柿のタンニン成分には、防水・防腐・防虫効果がある。あるいは、柿渋染めの布を太陽にさらしておくと濃い色に変化するとあります。 https://www.crearekiki.com/user_data/kakishibu.php
江戸中期に、梅の木で染められたものは色鮮やかな「照柿色」と呼ばれ、「団十郎茶」は、柿渋とベンガラで染めるとあります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E8%89%B2
なぜ柿色なんでしょうね。
ネットによると、「柿色」に4種類の色みがあり、柿の実の色にちなんだ色の系統と柿渋で染めた色の二系統に分かれるそうです。
「柿渋で染めらた色の系統としては、その名も『柿渋色』という色名があり、こちらも略して「柿色」と呼ばれました。さらに歌舞伎用語では“成田屋”の茶色、通称『団十郎茶』も柿渋と紅柄で染めたことから「柿色」と呼ばれています。」
https://irocore.com/kaki-iro-2/
柿渋色と成田屋の柿色は違うようですね。
赤色に90種類あり、その中でまた色の違いがあるわけですし、衣服は洗ったら色が違ってきます。
昔の人はちゃんと見分けていたんでしょうか。
型紙からの連想ですが、水上勉さんはいろんな職人さんを小説の中で描いています。
西陣織の職人を主人公にした小説を読んだ記憶があります。
紙というと、美濃紙作りも取り上げてあったと思います。
少ない賃金ですぐれた作品を生み出してきた名もなき人たちが社会を支えてきたんだと教えられます。
大河ドラマ『西郷どん』では前回ジョン・万次郎が登場していましたが、ロシアへ漂流した大黒屋光太夫の記念館も近くですね。
へえ~、衣の色も奥が深いんだ、です。
覚如の時代は時宗のほうが本願寺よりも栄えていたでしょうから、多分に嫉妬の気持ちがあるんじゃないかと思います。
住如さん以降は赤というより、柿色のような色の衣です。
囚人用や民用のものとは若干、色違いなんでしょうけど似てます。
日本服飾史のサイトでは、時宗のお坊さんは阿弥衣の上に墨の五条袈裟をかけていて、覚如はこれにいかにも「遁世のかたち」を見せびらかせているといちゃもんをつけているのでしょうね。
https://www.youtube.com/watch?v=qVfYbaVxFpI
これも「一寸海溝日記」さんのイラストを見たほうがわかりやすいですね。
http://ur0.work/IryP
色が、身分をあらわしていたことを通史的にみてとれるのがこのサイトかな。凶色としての鈍色(にびいろ)はブログ主さんがいわれるようにグレーですね。僧侶の浄衣のほうは鈍色(どんじき)でホワイトですね。
http://www.kariginu.jp/kikata/5-1.htm
袈裟はもともと「色」をさしていたわけですが、壊色(えしき)といってもこれも部派によって多少違うそうで、海住山寺さんのサイトでは、
>○四分律、五分律、摩訶僧祇律 →青、黒、木蘭
○十誦律 → 青、泥、茜
○根本薩婆多律(有部律)→ 青、泥、赤
とあります。で、色にいろいろあるのは
>染色に関してはインドではミロバラン(和名 呵梨勒)の花や幼果を用いて染めていたようである。(略)ミロバランを例にとると、媒染によって黄色から茶褐色あるいは黒まで染められる。要するに草木など同じ材料の染め粉であっても媒染によっても季節によっても異なることなどがあげられる。 http://www.kaijyusenji.jp/gd/kiko/sentence/k39.html
なのであります。また
>通常、白衣の上に黒衣を着て、さらにその上に袈裟をかけます。「緇」とは、袈裟のことなのか、それとも黒衣のことですかね。
まあ、肌襦袢を着るので、日本の僧侶としては肌襦袢、白衣、法衣、袈裟の四つのどれを指すのかになりますね。お坊さんが許された持ち物としては、三衣一鉢という言葉が有名ですね。(まあ六物ありますが)
大衣、上衣、中衣ですよね。
しかし、義浄の書いた『南海寄歸内法傳』では下着を含めた五衣となっていて、①僧伽梨・・・礼装②鬱多羅僧・・・外出着③安陀會・・・普段着④僧祇支・・・肌着⑤泥縛些那・・・下衣 が挙げられています。
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30060/rbb040-20.pdf
で、ここで中国の袈裟事情ですが。
>およそ南北朝に至り、漢地の風土環境に馴染むため、元々袒露右肩の僧祇支は改造されて縫い合わされ、襟が付き袖が付いた“褊衫”になった。
宋代贊寧選「大宋僧史略」巻上《服章法式》
http://songye.exblog.jp/25226847/
つまり、インドと違って寒いので肌の露出を減らし、着るものも多くなったということです。だから、日本では緇素は、黒衣というか法衣を指すのでしょうね。
>「遁世のかたちをこととし、異形をこのみ、裳無衣を着し、黒袈裟をもちいる、しかるべからざる事」
覚如の時宗批判ですね。風俗博物館のサイトにモデルさんとともにこのような説明があります。
>時宗の法衣は従来の中国的、また日本の貴族的な法衣を捨てて、庶民的な服装のなかに法衣を見出した。即ち式正(しきせい)の衣、裳の観念を排した裳なしの衣で、粗雑な繊維の故に網衣(あみえ)と呼ばれ、人の用いるものではないという意味から「馬ぎぬ」とも呼ばれたが、宗団の人は却ってこれを阿弥衣と尊んだ。http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000085
養老令718年に服装の色の規定があります。
>橡墨つるばみすみぞめ
つるばみは、くぬぎ、もしくはその実、ドングリ。家人・は、それで染色した衣服を着ました。http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro19.html#07
僧尼令には、
>僧尼には、木蘭・青碧・皀・黄及び壊色等の色の衣の着用を許可すること。
とありますが。 http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro07.html#10
ところが、平安時代の皇族や貴族の喪服としてこのつるばみ染めの色が着られるようになって、鈍色という言い方もでてきたわけです。で、お坊さんたちにも受け入れられるようになったわけです。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhej1987/52/10/52_10_973/_pdf
「緇とは出家者の衣の色である黒色をいい,素とは在家者の衣の色である白色をいう。転じて出家者と在家者を意味する」
では、この「衣」とは何なのかと思いました。
ご存じのように、通常、白衣の上に黒衣を着て、さらにその上に袈裟をかけます。
「緇」とは、袈裟のことなのか、それとも黒衣のことですかね。
ところが、覚如は『改邪鈔』で「遁世のかたちをこととし、異形をこのみ、裳無衣を着し、黒袈裟をもちいる、しかるべからざる事」と批判しています。
「末法には袈裟変じてしろくなるべし」と『末法燈明記』にあるそうです。
だったら、墨袈裟はどうなるんだと思いますよね。
墨染めといっても、黒ではなく鈍色だそうですね。
鈍色は灰色ですから、黒でも白でもない。
衣服の色で差別を視覚化していたとは知りませんでした。
差別は生活のあらゆるところにまで及んでいるんですね。
それにしても誰がそんな細かいことまで決めたのやら。
さて。(浄土真宗の僧侶の方々は)法衣と差別ということを言い出すと必ず、黒衣同盟の話になるのですが、それでは面白くない、ということでグレープの『精霊流し』の歌詞の一節を手掛かりに考察してきました。
ここで幕末、岡山(備前)で起こった渋染一揆に言及したいと思います。
次のブログを書かれた方は、とくに衣服の染色について学者さんたちが喧々諤々の論争をされていることをうまくまとめられています。 http://existenz.seesaa.net/article/310455529.html
私は、特定の人々を差別する「色」がかってあったけれど、庶民の中にはその特別の意識が薄れていたかもしれないけれど、わざわざそれを強要されたことが怒りとなったと考えます。
確かに徳川時代に囚人が着ていたのは浅葱色ですよね。 http://crd.ndl.go.jp/reference/uploads/d3ndlcrdentry/reference/1000059041/3.jpg
http://crd.ndl.go.jp/reference/uploads/d3ndlcrdentry/reference/1000059041/4.jpg
そして(渋)柿色で思い出すのは、宮崎駿氏の『もののけ姫』の白い覆面をした石火矢衆たちが着ていたオレンジ色。そして遡って『一遍上人絵伝』や『親鸞聖人伝絵』に見られる犬神人ですよね。
http://ur2.link/InBM
http://ur2.link/InBU
そして1908年の監獄法施行規則で未決囚の服の色は浅葱色、既決囚の着物は柿色(赭色 しゃいろ)と決められたのですね。網走刑務所資料館では、お人形さんが鮮やかなオレンジ色の囚人服を着ているのが印象的です。
https://hokkaido-labo.com/abashiri-prison-museum-16860
http://qq1q.biz/ImNl
イマダ葉上房ノ阿闍梨ト申ケル時。宋朝ニ渡テ。如法ノ衣鉢ヲ受ケ佛法ヲ傳。歸朝ノ後。寺ヲ建立ノ志御坐ケルニ。天下ニ大風吹テ。損亡ノ事アリケリ。世間ノ人ノ申ケルハ。此風ハ異國ノ樣トテ。大袈裟大衣キタル僧共。世間ニ見ヘ候。彼衣ノ袖ノヒロク。袈裟ノ大キナルガ。風ハフカスル也。
京都で大風が吹いた日があった。都人のいうにはこれは異国のようだった。葉上さんが着てるやたら大きい袈裟のせいで吹いたんだ、ぐらいの意味です。
日本のお坊さんたちの衣が、インド風の衣装から、中国風のカラフルなものに変わり、さらに神官や朝官の影響を受けて色や形が変化したのを見て、インドへ帰れ!原点に帰れ!といった復古運動をなしたのが、叡尊さんや忍性さん、俊芿(しゅんじょう)さんや栄西さんなどの律宗、禅宗のお坊さんだった。
そんなことが、法政大の大塚紀弘先生の『中世禅律仏教論』というやたら大部な本に載ってました。
http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=123096
>律僧により新たに形成された律家の日常的な特質は、「衣食」における律法の護持にあった。他の僧侶集団との差異を明確化したのが、日常生活の作法に関して詳細に規定する『四分律』やその注釈書に基づく日常生活の集団的規制であった。『四分律』における衣食の規定に着目すると、顕密仏教に対する中世律家の革新性・独自性が明確になる。僧侶であることを身分標識として外見的に示す袈裟に関して、顕密仏教の小袈裟に対し、律家では、墨染または香染の大袈裟を着用した。
だからなんなんだ?というオチのない話でした(笑
日本服飾史というサイトを見ると
>(浄衣とは)潔斎の服として神事の時に用いられる。形状は狩衣と同じであるが無紋であり、色は白を主とし、他に黄もある。烏帽子を被る。この他に僧服にも浄衣といわれるものがあり、仏教の神道的行事等に用いられる。 http://costume.iz2.or.jp/costume/296.html
つまり、白衣はインドでは「庶民」という意味だったのが、日本では「浄衣」という神道的な清浄を意味するようになった、と。
室町時代に成立した『法体装束抄』のことについて語られた論文にはこうあります。
>法体の最正装である法服(註:袍裳)が『法体装束抄』では筆頭に記されず、 鈍色(註:浄衣)が筆頭なのは、当時は鈍色が法体の正装として一般化され、法服が特別な法会等の限られた機会にしか着用されなくなったからであろう。 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/kondo.pdf
日本のお坊さんの服装は、朝官服にだいぶ影響されてますね。↓のイラストは一寸海溝日記より。このサイトはとても見やすく。勉強になりました。(つづく) http://file.depth333trench.blog.shinobi.jp/hensen04.jpg
http://file.depth333trench.blog.shinobi.jp/hensen05L.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F#/media/File:Gandhara_Buddha_(tnm).jpeg
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/91P5OvjBf%2BL._SL1500_.jpg
まあ仏像自体が、ヘレニズム文化の影響を受けて、ギリシャ的な風貌を持っているというのは中学あたりの歴史で習ったような気もしますが。
インド人男性は、白のクルタという上着とパジャマというズボンをはいてドーティという巻きスカートみたいなのを巻いてることもあるけど。
それで、白衣というと庶民ということを表すようですね。
妙法蓮華経如来神力品にみられる「若於僧坊。若白衣舎」という一節は、出家の住まいであれ、在家の住まいであれという意味だそうです。(つづく)
https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/7/21.htm#19
「布は在家者(白い布をまとっていた)と区別するために草木や金属の錆を使って染め直され(染壊)、黄土色や青黒色をしていた。梵語の名前はこの色(壊色(えじき))に由来する」
とあります。
「壊色」とは、
「袈裟のこと。通常,青壊色・黒壊色・木蘭壊色の三種類がある。不正色。〔原義は濁った色の意。青・黄・赤・白・黒の五正色およびそれぞれの中間色のようなはっきりした色を,袈裟に使うことを禁じたことから〕」
という意味です。
糞掃衣は浅葱色ではなく、汚く濁った色ですから、チベット僧が来ている衣のような色ではないでしょうか。
今では袈裟(の色)というのは、寺格とか僧階を表すものであるわけですよね。釈迦の精神から遠く離れてしまった。 http://www.sampoji.or.jp/archives/823
↑これを見ると浅葱色は下から二番目。歴博のサイトで確認してもこれ、死に装束として受け取られる色ですね。インドで袈裟は、遺棄された遺体を覆っていた布をの再利用だそうで、その意味では、浅葱色って釈迦の精神に沿うものですよね。https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/151/witness.html
リンク先の論文はゆっくりと読ませてもらいます。(理解できるかどうか心配ですが)
植木雅俊『仏教、本当の教え』に、「(釈尊は)「生まれ」や、「皮膚の色」などによって人は差別されるべきではないと一貫して主張した。(略)
出家することは、本来、世俗の名誉、名声、利得などを一切かなぐり捨てて、社会の最底辺に置かれた人たちと同じ立場に立つことであった」とあります。
袈裟をつけるのが、その表明でした。
中村元先生は「仏教では意識的に最下の階級であるチャンダーラと同じ境地に身を置いたらしい。仏教の修行僧は袈裟をまとっていたが、袈裟をまとうことは、古代インドではチャンダーラの習俗であったからである」と言われているそうです。
釈尊の弟子には、道路清掃人の女性もいたといいますから、チャンダーラ出身の比丘、比丘尼がいたんじゃないでしょうか。
この論文中、なんといっても面白いのが赤沼智善さんが大昔に調べられたブッダ在世当時の出家者・在家者の種姓別人数。シュードラ階級は全体の約3%ですね(不明が半分以上でチャンダーラはないんですが)。いえ、3%でもあるというのが驚くべきことですけど。
チャンダーラについてはこの論文がありますね。 http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/4607/1/KJ00004465344.pdf
この中で引用されてる松溝誠達先生の説では、チャンダーラは『テーラガータ』の中で2%だということですが。
入澤先生は、「比丘になれない条件」を調べ、「畜生」とあることをもって果たして本当にチャンダーラが入門できたかどうかに疑いをはさんでおられる。
http://ur0.pw/IfMe
そして話術のたくみさ。
釈尊とバラモンのやりとりを耳にしているようです。
持ち芸の一つにされてはいかが。
仏教関係の本を読み始めたころ、増谷文雄先生の本を何冊か読み、影響を受けました。
ですから、ひいき目に解釈すると、村の長への釈尊の答えは、天は六道であり、天へ生まれることを願うのは間違いだということではないでしょうか。
人権ということですが、桜部建先生は、仏教は命の尊厳ということは説かないと言われてます。
平木典子『アサーショントレーニング』に、「私たちは、誰からも尊敬され、大切にしてもらう権利がある。この人権は、いい換えれば、人間の尊厳は誰からも侵されることはないということです」とあります。
仏教では人権という考えはないのかもしれません。
とはいえ、優波離が出家したときのエピソードがありますよね。
釈尊が悟ったあと、生まれ故郷に戻ると、王族を初めとする人々が出家を願った。
ところが、一番最初に出家を許されたのがシュードラ出身の優波離で、王族でも優波離の下座になる。
優波離は、私のような者がと辞退すると、釈尊は「人は生れによってバラモンとなるのではない。行いによってバラモンなのである」と言われた。
鍛冶屋のチュンダとの逸話などがありますし、ある先生が釈尊はカースト制を否定はしなかったが無視したと言われてます。
相手に応じて、上から目線になり、また時には下に立ったのではないでしょうか。
女性が出家することに渋ったとか、比丘尼を比丘の下に置くとか、そういうこともありますけどね。
http://j-soken.jp/ask/2121
「また托鉢に来てるのか。おまはんらもちょっとは自分で額に汗して食い物つくってみいよ」
「あ、どうも申し訳ない。じつは私はむかし何不自由ない王子の身分だった。民百姓がやっとの思いで働いた上がりでもって暮らしていたんだ。でもそんな生活にも苦労は尽きないんだよ。将来を思うと、この国の舵取りなど私には無理だと深く悩んでいたんだ、、、」
「ふん。王子か。そんな身なりでね」
「まあもうすこし聞いてくれ。あの贅沢三昧の暮らしを離れて今は質素な生活を送っている。われわれは、われわれなりの厳しい規律のもと研鑽をしそれなりに思索を深めている。そんな中から見えてきた話が少しでも皆のお役に立てたらと思ってる。恥ずかしいけど、ひとの心を耕すって仕事、カルチャーってわかるかな?法話会などもやってるのでよろしかったらまた聞いてもらえないかな」
ブッダがおキライな芸能人。4代目桂米團治師匠が故・米朝師匠に語ったこのことばのほうがぐっと来ます。http://diamond.jp/articles/-/69582?page=311878653160.html
>「芸人は、米1粒、釘1本もようつくらんくせに、酒が良えの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間が決めてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのおかえしの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」
ここでバーリアなどの民俗芸能者が含まれるとあります。
>ダリットには、皮革労働者(チャマール)、屠畜業者(マハール)、貧農、土地を持たない労働者、街路清掃人(バンギー、またはチュラ)、街の手工業者、バーリヤなどの民俗芸能者、洗濯人(ドービー)などのジャーティが含まれる。
むかしむかし読んだ仏典のエピソードを思い出しました。釈迦は、王子だったころ、夏・冬・雨季それぞれの宮殿があってそこで歌舞音曲を伴った宴が催されていた、と。お釈迦さま、この歌や舞がすっかりいやになったのか。八斎戒のなかにも、不歌舞観聴戒。。。歌舞音曲を見たり聞いたりせず、装飾品、化粧・香水など身を飾るものを使用しない。
がありますよね。また、相応部(サンユッタ・ニカーヤ)の中の六処篇、聚楽主(村長)相応のエピソードでも、歌舞音曲村の村長さんに対して、「きみたちは歌舞伎者は、死後喜笑天に昇ると思ってるけど、地獄行きですよ」なんてこと言ってますね。
http://urx.blue/Ieio
私はお釈迦さまってもっと人々の悲しみや苦しみを受け止めてくれる大きな人だと思ってたときがあったけど、仏典にあたるとまったく誤解してたと思ったものです。
学力は落ちるけど、カースト枠で合格したり、逆に不合格になったり。
逆差別ということもあるようです。
だったらどうすればいいのか。
難しいですね。
帯刀を許された人もいたというのは、なにかで読んだことがあります。
芸能関係で派手で人気があり、収入もかなりあった人もいたそうですね。
神社の境内などで芸をするというのも今も続いていますね。
慣習法というのか不文律で、六法全書に載ってなくても彼らだけが認められているんですね。
で、村の祭りで青年団が屋台を出そうとすると、『ちょっと待った』と言われるんです。
また脱線ですけど
以前、私は住む家に困っていて公営住宅の申込書をもらいました。
読んでびっくり、私の収入では多すぎて申し込みが出来なかったのです。
安月給で自家用車なんてとても買えなかったですけど、公営住宅の住人は車に乗ってるんです。
今、生活保護を受けている人は車に乗れないでしょ。
公営住宅は地区の人を優先して入居させるためのものでしょうけど、矛盾を感じたあの頃でした。
人間というものは、ほんと特権が好きですね。
その特権を守る一番簡単な方法が血統なんでしょうね。