三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』(3)

2016年11月18日 | キリスト教

ザビエルが二度目に山口に滞在した時には500人が洗礼を受けたそうです。
短期間に大勢の人が信者になったのは、キリスト教が真実の教えだからだとザビエルは自賛します。

書簡96[僧侶の教えよりも理にかなった神の教え]
18 多くの人びとが信者になってゆくのを見て、ボンズたちはたいへん悲しみ、信者になった人たちを叱りつけて、どうして今まで信じていた教えを棄てて、神の教えを信じるようになったのかと質問しました。信者たちや聖(み)教えを学んでいる人たちは、ボンズの教えよりも神の教えのほうがはるかに理にかなっていると思うので信者になったのだと答えました。また、ボンズの質問に対して、私たちがよく答えたのに、私たちがボンズの教えについて質問したことに、ボンズたちが答えられなかったのを見たからです。日本人は、その宗派の教義のなかで、前にも言ったように、天地の創造、太陽、月、星、天、地、海その他すべての物の創造について、何も知識を持っていません。日本人はこれらすべての物には元始(はじめ)がなかったのだと思っています。私たちが霊魂はそれを創造した創り主がいるのだと言うのを聞いて、さらに深い感銘を受けました。


僧侶たちはザビエルにいろんな質問をしています。

書簡96[創造についての僧侶の反論]
20 彼らは悪魔がいること、そして悪魔が悪い者であり、人類の敵であると信じていましたので、もしも神が善であるならば、こんなに悪い者どもを造るはずがないから、私たちが言うようなことはありえないと考えました。私たちは神は善いものを造られたのですが、彼らが勝手に悪くなったので、神は彼らをこらしめ、終わりない罰を科すのであると答えました。それに対して彼らは、神がそれほど残酷な罰を科すならば、情深い者ではないと言いました。さらに彼らは、[私たちが言うように]神が人類を造ったということが真実であるならば、それほど悪い悪魔が人間を悪に誘うことを知っていながら、どうして悪魔の存在を許しておくのかと言いました。神が人類を創造したのは、神に奉仕するためですから、[悪魔の存在を許すのは矛盾であると言うのです]。またもしも、神が善であるとすれば、人間をこんなに弱く、また罪に陥りやすく創造しないで、少しも悪がない[状態に]創造したに違いないと[言いました]。そして神は、これほどひどい地獄を造り、[私たちのいうところに従えば]地獄に行く者は、永遠にそこにいなければならないのだから、慈悲の心を持つ者ではなく、したがって万物の起源である[神を]善であると認めることはできないと言いました。またもしも、神が善であるとすれば、これほど遵守しがたい十戒を命じなかったであろうと言いました。


僧侶の質問は5点です。
①「神が善であるならば、こんなに悪い者ども(悪魔)を造るはずがない」
②「神がそれほど残酷な罰(終わりない罰)を科すならば、情深い者ではない」
③「神が善であるとすれば、人間をこんなに弱く、また罪に陥りやすく創造しないで、少しも悪がない状態に創造したに違いない」
④「地獄に行く者は、永遠にそこにいなければならないのだから、慈悲の心を持つ者ではなく、したがって万物の起源である[神を]善であると認めることはできない」
⑤「神が善であるとすれば、これほど遵守しがたい十戒を命じなかった」

これらの質問は私にはしごくもっともな疑問だと思います。
神が全能であり全善なら、どうして悪が存在するのかという悪の問題はキリスト教の難問だそうです。
ところが、ザビエルの答えは「神は善いものを造られたが、勝手に悪くなった」というあっさりしたものです。
この答えで誰が納得するのでしょうか。
だったら人間を悪に陥らないように強く創造すればいいという③の疑問が生じるのは当然です。
しかし、書簡には③への答えはありません。

もう一つ大きな疑問は地獄ということです。
ザビエルが来日する以前は、日本人はキリスト教を知らなかったのだから、先祖たちは地獄に落ちていることになります。

書簡96[神の全善について山口の人たちの疑念]
23 山口のこの人たちは、私たちが日本へ行くまで日本人に神のことをお示しにならなかったのだから、神は慈悲深くはないと言って洗礼を受けないうちは、神の全善について大きな疑念を抱いていました。もしも[私たちが言うように]神を礼拝しない人がすべて地獄へ行くということがほんとうならば、神は日本人の祖先たちに慈悲心を持っていなかったことになります。祖先たちに神についての知識を与えず彼らが地獄へ行くに任せていたからです。


キリスト教では、地獄に落ちた者は永遠に地獄で苦しみ、救いはありません。

書簡96[地獄へ落ちた者への悲しみ]
48 日本の信者たちには一つの悲しみがあります。私たちが地獄に落ちた人は救いようがないと言うと、彼らはたいへん深く悲しみます。亡くなった父や母、妻、子、そして他の人たちへの愛情のために、彼らに対する敬虔な心情から深い悲しみを感じるのです。多くの人は死者のために涙を流し、布施とか祈禱とかで救うことはできないのかと私に尋ねます。私は彼らに助ける方法は何もないのだと答えます。


ザビエルは「助ける方法は何もない」とあっさり答えるわけです。

書簡96[日本人は知識を切望し、質問は限りがない]
21 また彼らの教義によると、地獄にいる者でも、その宗派の創始者の名を唱えれば地獄から救われるのですから、[神の聖(み)教えでは]地獄に陥ちた者にはなんの救いもないのはたいへんに[無慈悲な]悪いことであると思われ、神の聖教えよりも彼らの宗派のほうがずっと慈悲に富んでいると言っています。(略)


仏教は地獄に落ちた者も救われるのに、キリスト教では「なんの救いもない」わけですから、僧侶が無慈悲だと感じるのはもっともです。

書簡96[疑いの解明]
24 (略)私たちは理由を挙げてすべての宗教のうちで、神の教えがいちばん初めに人びとに[刻みこまれたことを]証明しました。すなわち、中国から日本へ諸宗派が渡来する以前から、日本人は殺すこと、盗むこと、偽りの証言をすること、その他十戒に背く行いが悪いことであると知っていましたし、行ったことが悪いことであるしるしとして、良心の責め苦を感じていました。なぜなら、悪を避け、善を行うことは[もともと]人の心に刻みこまれていたのですから。全人類の創造主[である御者(おんもの)が、すべての人の心のうちに刻みこんだ]神の掟を他の誰からも教えられずに[生まれながらに]人びとは知っていたのであると説明しました。


いくら日本人が悪を避け、善を行うべきだと知っていても、ザビエル渡来以前はキリスト教自体を知らないのですから、神を礼拝することなどできません。
このザビエルの説明で納得する人がいたとは不思議です。

書簡96[地獄に落ちた者に救いはない]
49 彼らは、このことについて悲嘆にくれますが、私はそれを悲しんでいるよりもむしろ、彼らが自分自身[の内心の生活]に怠ることなく気を配って、祖先たちとともに苦しみの罰を受けないようにすべきだと思っています。彼らは神はなぜ地獄にいる人を救うことができないのか、そしてなぜ地獄にいつまでもいなければならないのかと、私に尋ねます。私はこれらすべての[質問に]十分に答えます。彼らは自分たちの祖先が救われないことが分かると、泣くのをやめません。私もまた[地獄へ落ちた人に]救いがないことで涙を流している親愛な友人を見ると、悲しみの情をそそられます。


「神はなぜ地獄にいる人を救うことができないのか」という問いにザビエルはどう答えたのか気になります。
現代のキリスト教ではどのように答えるのでしょうか。
宗教改革の時代に生きたザビエルに、文化多元主義への理解を期待するのは無理な注文だと、私も思います。

多くの西洋人が日本の旅行記を書いていますが、短い滞在期間で、しかも限定された場所で少数の日本人に会っただけの場合だと、旅行記の記述がどの程度、日本や日本人の実態を伝えているかは疑問ではないでしょうか。

コメント
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