三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

土井隆義『人間失格?』3

2012年02月07日 | 厳罰化

少年犯罪は、後天的なもの(社会のひずみや環境)が原因か、それとも先天的なもの(少年の生まれもった資質)の問題か。
土井隆義『人間失格?』に、「かつては「社会の病理」と認識されていた少年非行が、昨今では「個人の病理」と認識される傾向を強めてきたのです」とある。

少年法の理念(保護主義)は、適切な生育環境が与えられていたら非行などしなかった、社会の責任である、だから更生のために援助をしなければならない、ということだった。
「社会的な成育過程で非行の原因が形成されるのであれば、その成育過程をやり直すことで、非行の原因を除去してしまうことも可能なはずだと考えられます。従来の矯正教育とは、そういうものでした」

ところが「今日の社会では、少年たちの未熟な半人前の存在としてではなく、その人格を尊重すべき一人前の存在とみなす傾向が強まっています」
保護主義(少年は半人前の未熟な存在)から責任主義(少年も大人と同じ一人前の存在)へと、ということである。

そして、犯罪の原因を加害者の個人的な「心の問題」とみなす。
「しかし、少年非行を「心の問題」の現われと捉える風潮が強まってきたというのに、その一方では加害少年に対する教育的な姿勢は弱まり、むしろ「厳罰化」の傾向が強まっています。少年非行が「心の問題」の現われだとしたら、教育的な対応はむしろ強められてもよいはずですが、現実にはそうなっていません。なぜなら、その「心の問題」を社会的な成育過程において形成されたものと捉えるのではなく、生まれもった資質が発現したものと捉える傾向が強まっているからです」

犯罪を個人の問題として片づけることがことができるのか。
土井隆義氏は光市事件の被告を例に挙げる。
「光市母子殺害事件を起こした少年の家庭はすさまじく崩壊しており、そのなかで彼自身も父親から数々の虐待を受けていました。(略)母親が首つり自殺をした現場を最初に発見したのも、じつはその彼でした。皆さんは、もしこの少年と同じような家庭環境に育ったとしても、現在と同様に真っ当な人生を歩んでこられたと言いきれる自信がありますか。そう言いきれる人は、きっと強い人だと思います。あるいは、じつは想像力が欠如しているだけなのかもしれません」

2008年の光市事件死刑判決で死刑のハードルが下がり、十代であっても、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件で3人が死刑確定、石巻3人殺傷事件でも死刑判決が出ている。
彼らの生育歴はいずれも悲惨なものである。

こんなことを言うと、虐待されてもぐれることなく成長する人が大勢いると反論する人がいる。
それに対して、土井隆義氏はこのように答える。

「強い人たちは、よくこう言います。「環境なんかに屈してはだめだ、ひたすら努力していくべきだ」と。それは、確かに一面では正論です。その正しさを否定するつもりはありません。しかし、ひたすら努力していくその能力も、その恵まれた資質も、じつは環境のなかで育まれていく側面をもっています、私たちは、たまたま良い環境に恵まれたおかげで真っ当な生活を送っていられるだけかもしれないのに、たまたま環境に恵まれなかったために道を踏み外してしまった人びとを、それはあなたの自己責任だと切り捨ててしまってよいのでしょうか。生まれた環境は、自分で選んだ結果でもないのに、そこに自己責任を負わせるのは理不尽だといえないでしょうか」
土井隆義氏の言うとおりだと思う。

親が刑務所に入ったので児童養護施設で育った子ども、親から暴力を受けて育った子ども、親がアルコール依存や薬物依存の子どもは、人生のスタートで大きなハンデを背負っている。
あるいは障害のある人。
新受刑者の知能検査結果(「矯正統計年報」2010年)
 知能指数相当値 割合(%)
 テスト不能    4.33
 49以下      4.12
 50~59      6.24
 60~69     12.25
 70~79     21.58
 80~89     25.82
 90~99     18.14
 100~109     6.51
 110~119     0.87
 120以上      0.14
知的障害者は22.61%、80未満のボーダーと合わせると約44%になる。
まわりからの支援が必要な人が犯罪を犯したら、社会(私も含めて)に責任がないとは言えないと思う。

コメント (10)
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