三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『安部英医師「薬害エイズ」事件の真実』2

2011年10月22日 | 厳罰化

1985年5月~6月 刑事事件となった患者に非加熱製剤の投与。
1991年12月 患者が死亡。
1994年4月 保田弁護士等が安部医師を殺人罪で告発
1996年1月 患者の母が安部医師を殺人罪で告訴
このころからバッシングが始まる。
1996年8月 逮捕
2001年3月 無罪判決

安部英医師は死亡した患者の母親から殺人罪で告訴されたが、検察は業務上過失致死罪で起訴している。
安部英医師は患者に血液製剤を注射したわけではないし、宿直医と研修医が注射をしたことも知らなかった。
では、どうして安部英医師に責任があるのかというと、検察官の主張は以下のとおり。
「1984年9月の時点では、非加熱製剤の使用を続ければ高い確率で患者をエイズに感染させ、その結果エイズを発症させて死亡させることを予見できたから、生命に切迫した危険のない患者には、非加熱製剤でなく、クリオ製剤を投与させるべきであったのに、そうしなかった過失により、患者を死亡させた」
安部英医師は非加熱製剤の危険性は認識できたのに、ついうっかりして、宿直医が非加熱製剤を注射するのを制止しなかったというわけである。
知らないうちにそうなってしまった、意図的ではない、と検察も認めているから過失致死罪で起訴したはずである。

ところが、検察官の描くストーリーは「安部医師は、製薬会社から金を受け取っていたので、製薬会社の利益を図ることを目的として、非加熱製剤を投与すれば患者が死亡する可能性が高いことを具体的に認識していたにもかかわらず、非加熱製剤の投与を続けさせ、患者を死亡させた」ということだった。
そして、検察は
「安部医師は血液製剤の致死の危険性を認識していながら宿直医に投与させた、と故意であるかのように主張した」

安部英医師が非加熱製剤を使用することでエイズに感染しても仕方ないと思っていたら、未必の殺意、死の結果が生じてもやむを得ないという認識があったということになる。
故意だったら殺人罪なのに、過失致死で起訴しているのだから、検察は矛盾した主張をしていることになる。

『安部英医師「薬害エイズ」事件の真実』を読むと、冤罪事件のよくあるパターン、すなわち自白強要・密室での取り調べ・証拠隠しが、「薬害エイズ」事件でもなされている。
検察はアメリカとフランスのウイルス学者(エイズ原因ウイルスの発見者)の嘱託尋問調書を隠していた。
二人とも安部英医師に有利な証言をしたから。

木下忠俊帝京大学教授(1985年5月、6月当時の臨床実務の責任者)は検察側証人である。
判決文「被告人と同様に刑事責任を問われかねない状況の下で、自分に対する責任の追及を緩和するために検察官に迎合し、その誘導に沿って安易に供述したのではないかという疑いも、払拭し得ないところである」
木下忠俊氏は、検察に迎合した証言をしなければ、自分も訴追されるのではという怖れを持ったらしい。
「実際、法廷での彼の証言によれば、木下氏は毎回の証言にあたり、何十時間もかけて、検察官作成のB4判数十枚にも及ぶ証言内容を記載したメモを完全に暗記するまで練習させられ、それに従って、法廷で証言を続けたことが明らかになりました」

参考人の事情聴取も執拗に行われ、検察のストーリーに合うような証言を参考人は求められている。
安部英医師本人に対する取り調べは言うまでもなく厳しいものだった。
8月29日から10月24日まで勾留。
持病の心臓と肺、上下気道障害が増悪し、不整脈、心不全、胃潰瘍、椎間板ヘルニア、間質性肺炎等が再発憎悪して、歩行困難となった。
意識も混濁、不明になりかけた時期もあったが、一日7時間あまりの取調べは、病舎に入っても一日の休みもなく続けられたそうだ。

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