三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

芹沢俊介『「オウム現象」の解読』

2010年03月25日 | 問題のある考え

芹沢俊介『「オウム現象」の解読』は、何年か前に読んで不快に思ったが、読み直してみても、鋭い考察はあるものの、やはり賛成できない部分が多い。
この本は地下鉄サリン事件の一年後、1996年4月出版だし、今は絶版のようなのにあれこれ言うべきではないかもしれないが、せっかくなので。

で、どこらが不快かというと、まずはニューエイジ、スピリチュアルに好意的であり、死後の生の実在に肯定的だと思われる点。
阿含宗の桐山靖雄を評価している(ように思える)とこも問題。
そして、マインド・コントロールによる精神の呪縛という視点を考慮に入れていないこと。
もっとも芹沢俊介氏しはマインド・コントロール論を認めていないようだから、精神の呪縛ということを問題にしないのは当然か。

それとか、今の時点から文句をつけるのはどうかと思うのだが、1989年10月にオウム真理教をめぐるトラブルが報道されたのだが、それについて「親と称する人たちが、息子を返せ、娘を返せとオウム側に迫り、その訴えを週刊誌が取り上げたことからトラブルは社会の表面に浮上してきた」と書いているし、坂本弁護士一家失踪についても、
「確かに「被害者」の会の代表弁護士格としての坂本弁護士を誘拐しどこかに拉致する動機が、オウム真理教側に皆無というふうに言い切れない。けれどあまりにおあつらえむきにバッジが落ちていたこと、さらにはマスメディアや「被害者」の会の親たちと利益を共有しない私たちにとって、彼らの報道や論理は一方的にすぎるし、オウムと弁護士失踪を結びつけるには飛躍が多すぎるように感じられる」(「超能力・誘拐・終末」「正論」1990年5月号所載)と書いていることはやっぱりまずいなと感じる。
坂本弁護士の事件について「超能力・誘拐・終末」で書いたことについて、芹沢俊介氏は1995年5月の講演で「いずれにしても断定できることではありませんから、オウムじゃないともオウムだとも書きませんでした。そこは注意深く書いたと思います」と、己に甘いことを言っているのはさらにまずい。

芹沢俊介氏はイエスの方舟に好意的で、イエスの方舟では「依存もなければ、服従もなく、またその対極の自立という発想もない」と賞賛している。
イエスの方舟があやしいとは思わないけど、芹沢俊介氏のほめ方はおかしいと思う。

たとえば、西村幸男「イエス逃走の内部事情」から、
「たとえば、未熟でたいへん感度がいいと思える人がいるとする。「その人が本当に救われるんだったら、どういうような手段でも使え」と、千石さんはいわれる」という文章を引用し、そして芹沢俊介氏はこう書く。
「宗教的態度として述べられた言葉として、なんら奇怪な論理は駆使されていない。むしろ、時代の塵のなかにあまりにも深くうまってしまったため忘れられていた古くて新しい主題が生きのびていたことに、感動を覚えるほどである」
「どういうような手段でも使え」という言葉に感動を覚えると言われると、れれっと思わざるをえない。
オウム真理教だって救済のために手段を選ばなかったからポアをしたわけだし、霊感商法は正しいことをしているのだから嘘をついてもかまわないと自分たちの行為を正当化しているのだから。

それとか、
「集団の内側でとられる方法は、いっさいの行動を責任者の言葉において行うというものである」という自身の文章の注に、芹沢俊介氏は西村幸男「イエス逃走の内部事情」から次の文を紹介している。
「自我を否定するためには、その人自身の意識で行為をしては、自我は死なない、と責任者はいう。だから、何をするにも、責任者の言葉において行動する」
「一例をあげれば、私も、責任者に『便所に行ってもよろしいか』と聞く。それで、『うん、便所へ行っていいよ』ということになる」
「『小指ひとつ動かすのでも、自分の意志でするな』と責任者はいう」

こうした思考停止こそが我執をなくすんだという理屈はまるでヤマギシ会である。
それじゃ奴隷の幸福になってしまう。

だけどまあ共産党の前衛じゃないけど、考えるのは我々の仕事で、お前たちは従うだけでいいんだ、とまで言うと極端だが、宗教全般にはそういうところがある。
藤田庄市氏は『宗教事件の内側』で、
「宗教的世界に入るや「自分たちはわかっている、彼ら(世俗)はわかっていない」。つまり自分たちが築いた宗教的世界は、世俗の世界より上なのである。これがオウムの場合だとどうなるか。反省や謝罪はしても、失敗をしただけ。やはり自分たちは上で、現世は下である」という指摘している。
オウム真理教や統一教会の信者、あるいは江藤幸子とその信者たちは、自分が導いてやらねば、救ってやらねばというエリート意識があるように思う。
霊的ステージが高い者が低い者を導くというか、清められた者(善)が穢れている(悪)を清めるというか、選ばれた者としての優越感を持ち、上に立って見下ろす。
こういう傾向は宗教者と自称する人には大なり小なりあるように感じるし、そういったえらそげなところが私にもあることは否定できない。
「現実の因果関係が見えなくなり、実情に対して鈍感となり、他人を傷つけることにすら気づかなくなってしまう。宗教がもたらす独善、思考停止である」と藤田庄市氏は言う。
肝に銘ずべきである。

コメント (1)
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