三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

また会える世界

2010年03月13日 | 仏教

悟った尼僧ならともかく、凡俗としては死別の悲しみが簡単に消えることはない。
死んだらおしまいではいやだし、かといって苦の境界に生まれることを繰り返すのもいやだ。
というので、死んだら終わりではなく、また会える世界、つまり死後の世界が求められたのではないだろうか。

浄土真宗では「死んだらおしまいではない。また会える世界があるんだ」ということをよく説くし、「極楽の蓮台で半座空けて待っている」という言い方もされる。
その根拠とされるのが「この身はいまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」など、お先に浄土で待ってますという親鸞の手紙の一節である。
西本願寺の「浄土真宗の教章(私の歩む道)」にも、浄土真宗の教義は「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する」と、死んで浄土に往生すると示されている。

「浄土真宗の教章」を読んで、れれっと思うのが還相回向のこと。
死んでから浄土往生して仏になり、そうしてこの世に還って衆生済度するとなると、たとえば目の前に苦しんでいる人がいるとして、その人に「助けてあげたいと思うが、凡夫の身では思うように助けることはできない。だから、これから念仏を称えて死んでから往生するから、私が仏になるまで待ってくれ」という話になる。
それと、死んでからとなると、還相した私(=仏)は幽霊ということか。
善いサマリア人とはちょっと違うようです。

還相回向のことはおいといて、死んでも死なないのだから死を恐れることはないし、死んでも浄土でまた会えるはずだから死別を悲しむこともないことになる。
これは天国に生まれることを信じるキリスト教徒でも同じはず。
町山智浩『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか』に、ビル・マー『レリジュラス』という世界の宗教家たちをインタビューして歩くドキュメンタリーが紹介されている。
アメリカにはフリーウェイのトラック専用パーキングに立っている教会があるそうだ。
トラックを走らせるドライバーのために建てられた教会である。
ビル・マーは「天国に行けるのはキリスト教徒だけなんですか?」とニコニコと疑問をぶつける。
「決まってるだろ!」
「じゃあ、どっかの国の山奥でキリスト教なんか聞いたこともないまま育った善良な人は天国に行けないんですか?」

このビル・マーという人はポーカーフェイスで発言者の揚げ足を取っては怒らせてしまうそうだ。

一生懸命に天国の素晴らしさを説くキリスト教徒に、さらっと「そんなに天国がいいところなら、さっさと死ねば?」と突っ込む。
相手はどのように答えたのだろうか。
自殺はダメとしても、天国に早く行くために病気になっても治療を一切受けないとか、そういう人がいてもいいのではないかと思う。

ビル・マーは福音派のマーク・プライヤー議員に「あなたは聖書の記述を全部信じているんですか?」と尋ねる。
「もちろんですよ」
「じゃあハルマゲドンを信じてますか?世界の終わりが来て、キリスト教徒だけが助かるという」
「ああ、信じてますよ」
「あなたは世界は必ず破滅すると信じているのに、どうして政治家なんかやってるんですか?」

それに対してプライヤー議員は「政治家に知能指数はいらないんだよ」と口走ったというのだから、正直な議員さんです。

死後に天国に生まれると確信しているなら、死別を悲しむことは神を疑うことになるのではないかという疑問が浮かぶ。
『アラビアンナイト』に「陸のアブド・アッラーフと海のアブド・アッラーフ」という物語がある。
アブド・アッラーフが海に住む同じ名前の男と知り合いになり、海の世界を案内してもらうという話である。
物語の最後、家に帰る途中、楽しげな歌声が聞こえ、ご馳走が並べられ、みんなが食べたり、飲んだり、たいそうな宴が開いているのを見たアブド・アッラーフが「結婚式のお祝いですか」と尋ねると、お葬式だという返事。
海の世界では、誰かが死ぬと、その死者のために祝宴を開き、歌を歌い、ご馳走を食べる。
陸ではどうなのかと尋ねられたアブド・アッラーフは「手前どものほうでは、誰かが死ぬと、その死者のために悲しみ、泣き、女たちは顔を叩き、着物の胸元を引きちぎるのです。すべて死者への悲しみを表すものです」と答える。
これを聞いた海人は怒り出し、友達づきあいも友情も断ち切った、今後会うことはないと告げる。
アブド・アッラーフが「何故そのようなことを言われるのでしょうか」と聞くと、海人は「陸の方々よ。あなた方は神さまからの預かりものではないのですか」と反問する。
そして、「では神さまがその預けたものを取り返されるのがあなた方にはどうして苦痛なのですか。いや、そのためにあなた方は泣いたりなさる。ご貴殿に預言者―神の祝福と平安あれ―への供物をどうしてお預けできましょう。あなた方は子どもが生まれると喜ばれるが、いとやんごとない神さまが魂を預けたものとして吹き込まれただけのこと。その預けた魂を神さまが取り返されるのがどうしてあなた方には辛く、泣いたり、悲しんだりなさるのですか」と逆に詰問する。

海人が言うことはもっともだと思う。
「往生の素懐を遂げる」という言葉があるが、死んでいいところに行くとしたら葬式は喜びの場であるはずだ。
だけども、死んだらいいところに行けるぞとおだてて自爆テロをさせるわけで、これはこれで危ない話である。

「主婦の友」昭和19年1月号に「軍国の母を訪ねて 四児悉く陸海将兵に育て上げ三児殉国のほまれに輝く筒井松刀自」というタイトルで筒井マツという方の物語が記事になっていると、高橋哲哉氏が紹介している。(「真宗」2009年6月号)
筒井マツさんは長男が戦死した時、その場にへたり込んで日暮れまで立ち上がることができなかった。
次男が死んだ時は、「むごいことよのう。悲しいことよのう」と思った。
そして筒井マツさんは「その時分はまだ、こっちの性根も充分に定まらず、時折めそめそ考えたりしちょりましたが、しんそこから、わが子でかしたと思うたのは、二人の合祀祭りに、靖国神社へ参らせて頂いた時からでございます」と語っている。
それはどういうことかというと、子どもが靖国に祀られ、天皇が大祭に参拝したのを見て、「子供は永久に生きているのじゃと、晴れ晴れしてしもうたのでございます」と筒井マツさんは語る。
死の悲しみをこうして乗り越えたのである。
高橋哲哉氏はこれを「感情の錬金術」と言っている。
自爆テロの理屈に通じる。
どういう死であろうと、死を美化するのはまずいと思う。

死んだらどうなるかということだが、真宗光明団周南支部「あゆみ」にこんなことを書いている人がいた。
ある僧侶が法話で「浄土真宗の教章(私の歩む道)」について話をし、そして「死んだらおしまいではないのです。浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化するのです」と語ったのを聞いたその人は、「私はびっくりして死後の事はあまり考えておりませんでしたので」と感想を述べている。
なるほど、これだな、と思った。

全然関係ないけど、ドラゴンクエスト7だが、CD1をやっと終えてCD2へ。
まだまだ先は長い。
死ねません。

コメント
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