『「生きづらさ」について』で、萱野稔人氏は自分を否定せざるを得ない状況では、「そうなると、いきおい、自分をまともに扱ってくれない社会をうらんだり、さらには、自分の存在そのものを否定することに向かってしまう」と言っている。
他人への攻撃(他者否定)と、自分はダメなんだと責める(自己否定)ということ。
誇大自己症候群や仮想的有能感は前者で、アルコールや薬物依存は後者が多いように思う。
萱野稔人氏はそこらをもう少し詳しく話している。
「一つは、承認が得られず自分の存在価値をなかなか見いだせない人たちが、それによって自分の評価をどんどん下げてしまい、けっきょく「自己責任」という考えに深く陥ってしまうという問題です。他人から認められたり必要とされたりすることがほとんどないから、自分はダメだと思い込み、「自己責任」の考えを強く内面化してしまう」
チャーリー・ブラウンタイプですね。
「もう一つは、認められない、居場所がないという状況に置かれた人が、その埋め合わせとして、自分の存在意義が保証されるような、より大きなアイデンティティへと向かうということがあります。それが、日本人というアイデンティティの主張や、ナショナリズムへとつながっていく」
右翼をルーシーになぞらえたら怒られるかもしれないが、ナショナリズムによって自己評価を高めようとするわけである。
もちろんこの二種類にはっきりと分かれるということではなく、時には自分を否定し、ある時は外へと向かう。
埋め合わせとなるものは日本人というアイデンティティやナショナリズムに限らない。
自分自身の有能感だとか、宗教とかで、ルーシーじゃないけど、往々にして他者に対して攻撃的になる。
たとえば外国人の問題。
フランスでは移民を排斥する極右が台頭しているが、萱野稔人氏によると「移民は出ていけ」と主張する極右を支持するのは貧困層なんだそうだ。
「彼らは、仕事で移民たちと底辺での競争をさせられ、また、財政難ということでどんどん切り縮められる社会保障を移民たちと分け合わないといけない」
「彼らは、自分たちの生活を守るために、移民という、より不利な立場におかれている人たちを排除することに向かうわけです」
これは対岸の問題ではなく、日本でも状況は同じ。
雨宮「実際に最底辺の現場で、アジアの人や他の貧しい国の人と働いていると、日本人であるということにしか拠り所がなくなってしまう」
萱野「底辺の労働現場で他国の人たちと働いていると、どうしても「このままいくと社会から脱落させられてしまうのではないか」という気持ちになって、「自分は、外国人のように社会の外側にいるのではない」ということを何とかして証明したくなりますよね。それを証明するために、日本人というナショナルなアイデンティティが呼びだされる。「自分は日本人なんだから、社会のこちら側にいるはずだ」と」
雨宮「小さなパイを外国人と奪い合わないといけない。そんな状況におかれれば、いきおい外国人に対する敵愾心を抱いたり、日本人であることになんとか拠り所を求めたり、「外国人は日本人とどこが違い、どこがダメなのか」を考えたりしてしまうでしょう」
貧困層が外国人労働者を攻撃するのは、一種の「上見て暮らすな、下見て暮らせ」である。
しかし、ナショナリズムも行き詰まると雨宮処凜氏は言う。
「右翼団体との出会いは大きなことでした。だけど、やっぱり長続きしないんですね。要は自分の生きづらさをごまかしているわけですから」
ごまかすということではアルコール依存や薬物依存と変わらないわけである。