三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

子どもを亡くした尼僧たち

2010年03月07日 | 仏教

水野信元『釈尊の生涯』に、釈尊が亡くなった時「周囲の比丘たちは、ある者は大いに嘆き悲しみ、十分にさとっている者は、これが世の中の定めであると思って悲しみにたえていたが、アルヌッダは、悲泣する比丘たちに、世尊の平素の教えとして、諸行の無常である旨を改めて説き示した」、そして「すでにさとりを開いた者は、これが世のならいであるとてたえ忍んだが、未熟な人たちは、嘆き悲しみ胸を打って慟哭した」とある。
この本を読んだのは大学の時で、さとったら親しい人が死んでも悲しいとは思わないのかと思ったものです。

『尼僧の告白』(『テーリーガーター』に、子供を亡くしたヴァーシッティー尼が出家した経緯が語られている。
「子の(死)を悲しんで悩まされ、心が散乱し、想いが乱れ、裸で、髪をふり乱して、わたしは、あちこちにさまよいました。
四つ辻や、塵埃捨場や、死骸の棄て場所や大道を、三年のあいだ、わたしは飢えと渇きに悩まされながら、さまよいました。
たまたま、わたしは、幸せな人(ブッダ)が、ミティラー市に来られたのを見ました。その方は、調練されていない者を調練する人、正しく覚った人、なにものをも恐れない人でありました。
わたしは、もとどおりの心を取り戻し、敬礼して、座につきました。かのゴータマ[・ブッダ]は、悲しみを垂れて、わたしに真理の教えを説かれました。
その[ブッダ]の説かれる真理の教えを聞いて、わたしは出家して、家の無い状態に入りました。師(ブッダ)のことばにいそしみましたので、こよなくめでたい境地を現にさとりました。
あらゆる悲しみは、すべて断たれ、捨てられ、ここで終わったのです。もろもろの悲しみの起るもとである根底を、わたしは、知りつくして、捨て去ったからです」

これほど子供の死を悲嘆したヴァーシッティーに「あらゆる悲しみが終わった」と言わせる教えとはどういうものか気になるが、ジーヴァーという娘を亡くして悲しんでいたウッビリー(コーサラ王の妃)に釈尊はこう説いている。
「母よ。そなたは、「ジーヴァーよ!」といって、林の中で泣き叫ぶ。ウッビリーよ。そなた自身を知れ。すべて同じジーヴァーという名の八万四千人の娘が、この火葬場で荼毘に付せられたが、それらのうちのだれを、そなたは悼むのか?」
するとウッビリーは「ああ、あなたは、わが胸にささっている見難い矢を抜いてくださいました。あなたは、悲しみに打ちひしがれているわたしのために、娘の[死の]悲しみを除いてくださいました」と答える。
短い偈だからということもあるだろうが、実にあっさりしたものである。
自分の娘以外にも多くの人が死んでいるだと聞かされたぐらいのことで、それで簡単に死別の悲しみが消えるものかと思う。
キサゴータミの子どもが死んだが、誰も死んでいない家の芥子粒を求め、そしてどの家でも誰かが亡くなっていることを知って心が落ち着いたという話にしても同じ。
頭ではわかっていても、悲しくつらい気持ちがなくなるわけではないのが普通だ。

あるいは、七人の子をすべて亡くしたヴァーセッティー尼にスジャータという女性が「以前そなたは、死んだ子どもを食べさせつつ(子を亡くして)、昼も夜も、ひどく苦しみ悩んでいた。ところが、いま、何故、ひどく苦しみ悩まないのか?」と尋ねる。
すると、ヴァーセッティー尼は「生と死からのがれる出離の道のあることを知って、[いまでは]悲しまず、泣きません。また苦しみ悩むこともありません」と語り、「かの尊敬さるべき人(ブッダ)の〈生存の素因を滅ぼす教え〉を聞いて、その場で、正しい教えを理解し、子どもにたいする悲しみを除きました」と答える。
真理の教えとはどういうものかというと、「すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(静止)におもむく八つの実践法よりなる尊い道(八正道)とである」、つまり四諦と八正道である。
そうしてスジャータは、「その場で、正しい教えを理解して、出家することを喜んだ。かれは三夜を過ぎてのちに、三種の明知を体得した」
尼僧たちは子どもをなくした悲しみを教えによって簡単に克服し、あっという間にさとっているのである。

今でも麻原彰晃をグルとして崇拝している新実智光が裁判でこんなことを言ったそうだ。
検事が新実智光に、坂本弁護士の妻の父大山友之さんの「せめてこの世に生まれたのだから、人の心を持ってほしい。早く人間を取り戻してほしい」という言葉を引用して尋問したら、新実智光は「だから苦しむんだと。人間の生存には葛藤、渇愛が生じる。(そうした)欲求が苦しみにさいなまれる原因だということを理解さえしていない。何が苦の原因か悟ってほしい」と言った。
裁判長が新実の言葉が被害者や遺族をいかに傷つけるかわかるかと問うと、新実は「傷つくなら、傷つかない本当の心を求めてほしい。(遺族が)人間の心を持てと言って苦しむのなら、(その)心が苦しみの因とわかる」と答えている。(藤田庄市『宗教事件の裏側』)

新実智光の発言と尼僧の告白とを比べたら怒られるだろうが、あっさり割り切っているところが似ていると思う。
盗人にも三分の理というが、愛別離苦が生じるのは執着のためだということ、あながち間違いだとは言えない。(だからといって人を殺していいということにはならないのはもちろんである)
苦しみや悩みがなくなることが解脱だとしたら、何も感じなくなることが悟りということになりかねない。
釈尊には人間味のあるエピソードが多く残されている。
おそらく尼僧たちの気持ちにしても、「悲しまず、泣きません」といった、そんな単純なものじゃないと思う。
尼僧たちのそこらの細かな心の揺れを知りたいものです。

コメント
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