三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

高橋哲哉『国家と犠牲』

2008年05月11日 | 戦争

戦争体験者の話を聞くと、生き延びたことの後ろめたさ、戦死者への申し訳なさを抱えておられるように感じる。
そのために、自分の体験を正当化し、美化したい思いを持つ人もいる。
そうした素朴な思いを否定するつもりはない。
ただ、
国がその思いを利用し、大義のために自らの生命を賭した死には意義があった、戦死者は殉教者だ、などと言うのは問題があると思う。

高橋哲哉『国家と犠牲』を読むと、利用の仕方には次の三つがある。
1,戦争の悲惨さを覆い隠す
2,戦争の正当化
3,再び戦争を行う

犠牲(サクリファイス)は聖化されることによって傷を隠蔽する。
高橋哲哉氏は、「戦没兵士の「尊い犠牲」を讃え、それを「敬意と感謝」の対象として美化することは」、「アジア太平洋戦争の戦場の悲惨さ、そこで死んでいった将兵の戦死の無残さ、おぞましさを隠蔽し、抹消する」効果を生みだすと言う。

戦争は美しいものではない。
ベトナム帰還兵のアレン・ネルソン氏は、戦争映画と実際の戦争との違いは戦場の音と死体のにおいだと話している。
「戦争映画では戦争の臭いを表現できない。自分にとって戦争の臭いは、死体の腐敗臭、死体が焼けこげる臭いだ」
音は何とかなるかもしれないが、死体の腐るにおいは映画館では無理。
だから、どんなに戦争の悲惨さを訴えた映画であっても、戦死の悲惨さ、無残さがどこか「尊い犠牲」と感じさせ、神聖で崇高なものとして聖化されるように思う。

靖国も戦争の現実を忘れさせるはたらきがある。
小泉元首相が靖国神社に初詣した時、会見でこう言っている。
「心ならずも戦場に赴かなければならなかった、命を落とさなければならなかった方々の尊い犠牲の上に、今日の日本があるんだということを忘れてはいけない」
高橋哲哉氏は小泉元首相の、戦没者の「尊い犠牲」の上に戦後日本の「平和と繁栄」がある、という論理は次のように展開すると言う。

旧日本軍の将兵が戦死したおかげで、その戦死の功績によって、戦後日本の「平和と繁栄」ある
 ↓
戦没者が「犠牲」になってくれたおかげで、その功績によって戦後日本が「平和と繁栄」を享受できるようになった
 ↓
戦死は「尊い」ものとして讃えられ、「尊敬」され「感謝」されるべきものとして美化される
 ↓
戦死は「平和と繁栄」のために必要だった

こうして戦死が美化されることによって、戦争が正当化される。
「(「尊い犠牲」のレトリックは)むしろ自衛戦争においてこそ、その正義を確認するために最大限の威力を発揮するのです」

そして「小泉首相の「尊い犠牲」という表現は、結局「犠牲は尊い」ということをいっている」
国家の犠牲の論理は、新たに戦争に行って死んでいく人を生みだすためのものである。

小泉元首相は記者会見でこう言っている。
「危険を伴う困難な任務に赴こうとしている自衛隊に、多くの国民が敬意と感謝の念をもって送り出していただきたい」
中曽根元首相
「米国にはアーリントンがあり、ソ連にも、あるいは外国に行っても無名戦士の墓があるなど、国のために倒れた人に対して国民が感謝をささげる場所がある。これは当然なことであり、さもなくして、だれが国に命をささげるか」
久間章生元防衛庁長官
「国家の安全のために個人の命を差し出せなどとは言わない。が、90人の国民を救うために10人の犠牲はやむを得ないとの判断はあり得る」

高橋哲哉氏は「尊い犠牲」の論理はこのように展開すると言う。

国家が国民を戦争に動員して、大量の戦死者が出る
 ↓
戦死者を国家のための尊い犠牲であったという形で聖別し、聖なるものとして顕彰し、讃えていく
 ↓
精神的打撃を受けた遺族を慰謝・慰撫する
遺族が抱く戦死の悲哀や虚しさ、割り切れなさを、「国家の物語」で埋め合わせる
 ↓
国民が遺族や戦死者に共感することにより、彼らを模範として「自分たちもそれに続かなければならない」という「自己犠牲の論理」を作り出していく
 ↓
戦争を繰り返すことが可能になる

「小泉首相の靖国神社参拝は、たんに過去の「大日本帝国」時代の戦没者にかかわるこういであるだけでなく、現在および将来の自衛隊員の死没者にかかわる行為という意味をもち始めています」

「自衛隊員の死が、現在および将来の「日本の平和と繁栄」のための「尊い犠牲」として顕彰され、聖化=聖別され、国家から最大限の「感謝と尊敬」をもって語られるとき、そこに働いているのまごうかたなく「靖国の論理」になるでしょう」

では、首相が靖国神社ではなく、無宗教の国立追悼施設を作って、そこに参拝するのだったらいいのか。
靖国と同じ論理で追悼施設が作られるなら、戦死者を利用し、新しい戦死者を作り出す装置となることに変わりはない。

こうした「尊い犠牲」というレトリックによって戦死者を聖化し、戦争を正当化する靖国の論理は欧米や韓国でも同じように行われている。

「犠牲の論理」は現在および将来の国民に「祖国のため」に「自己犠牲」の義務を果たすことを求める。
だからこそ、「尊い犠牲」という耳ざわりのいい言葉にだまされないようにしないといけない。

愛する人のために戦うと言うが、戦争を続けることは非戦闘員も死ぬ可能性が増えることである。
愛する人のために戦うのなら、戦争をとめるように行動するほうが愛する人のためになる。
悲惨な現実を直視すること、それをくり返さないこと、である。
高橋哲哉氏のこうした考えにはなるほどとうなずきました。

コメント (70)
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