三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

武田和夫『死者はまた闘う』2

2008年05月05日 | 死刑

武田和夫氏の死刑論は、私たちはどういう社会を望むか、という視点から述べられて新鮮だった。

「誤判を百パーセント取り除くことは不可能である以上、死刑制度があれば必ず、無実で死刑に処せられる人が出るだろう。つまり、凶悪犯罪に対する被害者感情を癒すために死刑を存置すれば、無実でありながら国家に殺される人が出るのは避けられない。逆にそのような国家の過ちをなくそうと思えば、許しがたい凶悪事件の犯人を死刑にできなくなる。
ここでもまた、「どのような国家、社会を望むのか」ということが問われることになる。あくまで凶悪な犯罪への報復を優先する社会か、不正、不当に生命を奪われるような人を、決して出さない社会か。死刑存廃論議は、つまるところ私たちがいかなる社会を選ぶのかという問題に帰着するのだ。その場合、どちらの選択が、ほんとうに人間をたいせつにする社会なのかということを検証し、そして自分たちはどのような社会を欲するのかということを、本音でぶつけ合わない限り、膠着した論議にならざるをえないのではないかと思う」

では、武田氏はどのような社会を選ぶのか。
「死刑廃止とは、ただ死刑囚を生かすことではない。すべての人が、共に生きられる社会をつくることなのだ。私はやはり、この社会が、どのような人にとっても、生きるに値する場所であってほしい」

私も同じ考えなのだが、しかしながら被害者遺族はそうはいかないだろうと思う。
孫を殺された松村恒夫氏(あすの会幹事)は森達也氏の質問に「同じ空気を吸いたくないんだ」と答えている。
理屈ではなく、生理的なその感覚は多くの被害者に共通するものだろう。


「少年審判への遺族傍聴 法改正に賛否両論
 少年事件の被害者側が、意見陳述で少年に暴言を吐いたり、ネットで実名公表したりするケースがあることが、日弁連の調査で分かった。被害者側の審判傍聴を認める少年法改正案が国会に提出されているが、こうしたケースもあることから、関係者の間では賛否両論が出ている
」(J-CASTニュース5月3日

「被害者の親族らが、柵越しに少年の背後から頭を蹴りつけ、「出てきたらどうなるかわかっとるんやろな」と脅したこともあった」
というのはさすがにどうかとは思うが、そうせざるを得ない気持ちを否定するつもりはない。

森達也『死刑』の中で、『モリのアサガオ』漫画家の郷田マモラは「敢えて言うのなら、……死刑は必要だと考えています」と言い、宅間守氏の弁護人だった戸谷茂樹弁護士「私はもともと、死刑は廃止すべきと考えていました。でも今回のケースでは、あってもいいのかなあという気がしないでもない」と答えているのには意外だった。
しかし、二人とも被害者遺族のことを考えると死刑廃止とは言い切れないが、かといって死刑がいいとも思わない、そのあたりがもやもやしている。
被害者の処罰感情は理屈では片付かないものがある。

しかしながら、松村氏の孫を殺した加害者は死刑ではなく懲役15年だから、いつかは刑務所から出てくる。
少年による殺人事件でも、加害少年は社会に戻ってくる。
その時に遺族の方たちはどうしようと考えているのだろうか。
すべての殺人に対して死刑に処するよう求めるのか、あるいは加害者にどう生きてもらいたいかという道を選ぶのか。

山本譲司氏は、犯罪被害者となった女性の言葉を紹介している。
「これから刑を終えた加害者が、どのような生き方をするのか。そこにこそ遺族が本当に救われる、一番の鍵があるように思えてなりません」『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』

村瀬学同志社女子大教授は、
「もしも、どんなにひどいことをした者がいるとしても、そのひどいことに見合った「反省」をし「更生」したことがわかるなら「赦して」あげてもいいと多くの人は思うだろう」『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』
と言っている。
私もそう思うのだが、甘いと言われると困ってしまう。

武田氏の「どのような社会を欲するのか」という問いは死刑問題だけではなく、もっといろんな意味で問われる問題である。
たとえば、施設コンフリクト
コンフリクトなんて英語を使わなくていいのにと思うが、どういう意味かというと、「社会福祉施設を新しく建てようとする時に、住民や地域社会が強い反対運動が起こって」「そのため建設計画がとん挫してしまったり、建てるかわりに大きな譲歩を余儀なくされるという、施設と地域間での紛争」のことなんだそうだ。

身体傷害者、知的傷害者、精神障害者、あるいは高齢者、さらには薬物やアルコール依存者、出所者のための自立支援、社会復帰のための施設が近所にできることにどうして地域の人が反対するのか不思議である。
気味が悪いとか犯罪に巻き込まれないか不安だとかいったことが理由らしい。
つまりは、自分の世界に異物が侵入してほしくないということである。
「すべての人が共に生きられる社会」を望んでいるわけではないし、「この社会がどのような人にとっても生きるに値する場所」とは思っていないわけだ。

反対する人は、自分の家族や知人に障害者がいたらとは考えないのだろうか。
身近に障害者がいなくても、この人たちはどこでどのように生きていけばいいのかに思いを寄せないのだろうか。

自分の世界を脅かす異物、不適合者を排除し、切り捨てることは死刑の論理と同じである。
武田氏は、
「死刑のある社会とは、正当な理由があれば人を殺す社会なのです」
「死刑廃止とは、どのような理由があっても殺人行為は例外なく悪だと認めることです」

と言うが、「死刑」を「障害者排除」と置き換えてもおかしくない。

武田和夫氏、そして永山則夫氏の言葉を借りるならば、殺人者が「自己のとらえ直し」をし「生き直し」をするのできる社会、そして私たちが死刑囚の「生き直し」を共にする社会、それは「この社会がどのような人にとっても生きるに値する場所」になると思う。

「償いの気持ちは加害者の新たな将来を作ろうという意欲の中でのみ生じ、その意欲が継続することによって初めて具体化するものではなかろうか。排除からは生まれない」
「社会的排除が逆効果をもたらすことを、私たちは過去の経験から嫌というほど知っている」
(藤原正範大学准教授、元家庭裁判所調査官『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』)

コメント (19)
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