三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

手塚治虫『ブッダ』

2008年05月26日 | 仏教

『ブッダとそのダンマ』を読んで今さらながらに思ったのが、手塚治虫『ブッダ』に描かれた晩年の釈尊がいかにトホホかということである。

『ブッダ』では、悟っているはずなの釈尊がやたらと嘆き、悲しみ、悩む。
シャカ族が滅び、タッタの遺体を抱きながら釈尊が、「これを見てください ブラフマンよ!! 天地の霊よ!! 私がいままで何十年も人に説いてきたことはなんの役にも立たなかったのですか!?」と泣きわめくんですぜ。
そして、「私は一生なんとむだなことをしてきたんだ」と愚痴り、「ブラフマン!! どこにおられるのです なぜ私に答えてくださらない!? ブラフマンどうか…どうか私をみちびいてください!!」と懇願する。
これじゃとてもじゃないが目覚めた人とは言えない。

アジャセの病気を治した時、釈尊はこう言う。
「わかったぞ~っ 人間の心の中にこそ…神がいる…神が宿っているんだ!!」
ぎえっ、心の中に仏ではなくて神がいるとは。

釈尊はブダガヤで悟りを開いたあと、さらに仏性ならぬ神性を悟り、これで最終解脱したのかと思ったら、そうは問屋が卸さない。
舎利弗と目連が死んだという知らせを聞いて釈尊は、わしは信じたくないぞっ うそだ」と口走り、そして「わしをこの世に残して旅立った?…わしはどうすればよいのだ……」なんて泣きごとを言うんだから、しっかりしてよと言いたくなる。
人間的と言えば人間的ではあるが、これじゃあね。

そして死んだ後もブラフマンに、「私が去ったあと…私の一生をかけて説いた話は…どうなるのですか!! 百年たち千年たったあと忘れさられてしまうのですか!!」と、自分が自分がと執着まるだしで問いただす。
こういうのを我執と言うんじゃなかったかいな。
死んでも我執はなくならないというたとえですよ、というのであればいいのだが、まあ、そういうことはないでしょう。

で、釈尊はどうしてブラフマンに恨み言を言ったり、教えてもらおうとするのか。
それは手塚治虫の仏教観はバラモン教的だからだと思う。
アンベードカルと違って、手塚治虫は超自然主義・創造神・梵我一如・霊魂信仰・魂の輪廻転生・死後の世界信仰などを肯定する。

たとえば、リータが死んだ後のアナンダと釈尊との問答。
「ねえブッダ…死んだリータはどこへいったんでございましょう…」
「そうだな…たぶん自然の精気の中だ…」
「セイキ」
「こまかい こまかい目に見えないようなつぶにわかれて 大空の中へちっていったのだ 私もおまえもいずれそこへいく そしてリータとまじりあう……」
「ほんとうですか!?」
「…それが宇宙の法則だ」
「じゃあ いつかリータに会えますね!?」
「たぶんな……」

いかにもニューエイジ的生命論だが、『火の鳥』「未来編」でも、最終的にすべての生命が火の鳥の中で一体となる。
これは梵我一如である。

あるいは『ブッダ』では、ブッダとして人々を教え導く釈尊自身の導師がブラフマンだということ。
これじゃ釈尊の説いた教えはバラモン教の一派だということになってしまう。
実は釈尊が導師なのではなく、本当の導師はブラフマンだという構造、これも『火の鳥』「未来編」と共通する。
「未来編」の主人公は世界を創造する神になるが、しかし彼は真の神ではない。
この二重構造は、創造神を創造した本当の神、至高神がいるというグノーシス主義と同じものである。

ちなみに手塚治虫『ブッダ』は潮出版社から出版されている。
潮出版社の意向に従ってこういうブッダ像を作ったのかしらん。

コメント (18)
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