三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

森達也『死刑』

2008年05月17日 | 死刑

死刑について、漫画家、死刑廃止議員連盟の議員、弁護士、執行に立ち会った刑務官と検事、元死刑囚、教誨師、ジャーナリスト、被害者遺族、そして光市事件の被告といった人に聞いて考えた本。

亀井静香氏へのインタビュー、少々長いが亀井氏の答えの一部を以下引用。
「死刑はいくら国家がやるにしても、生きているものの命を奪うことに違いはない。人を殺しちゃいけませんという法律をつくるその国家が人を殺すのなら、これは明らかな矛盾です。
死刑制度があっても殺人事件は減りません。つまり犯罪抑止にはなっていない。これはもう、客観的に歴史的に証明されているわけです。ならば何か残るのか。報復感情ですね。自分の親兄弟などを殺された場合の親族の苦しみ。相手を八つ裂きにしてやりたいという怒り。人間としては当たり前の感情です。そういう人たちの気持ちを和らげる努力は、国家としても社会全体としても、いろんな形ですべきだと思いますよ。しかし遺族の報復感情を国家権力の行使という形でやるべきではない。
そんな報復感情の延長にあるのが戦争です。
ブッシュがそうですね。9・11の報復感情だけでイラクに侵攻してしまった。憎しみはわかります。わかるけれども、遺族が全員応報を求めているわけじゃない。自分の親しい、愛しい人が殺されたことで、やはり人の命は大事なんだと、犯人の命までとることは求めないという人も実際にいるわけですからね。人間って知らずに誰かを害したりしている場合がきっとあるわけです。だからね、自分は絶対的な被害者だという立場をとるのは、やっぱり私は間違いだと思う。とはいえ犯罪被害者や遺族の方がそういう感情を持つことを、けしからんと言ってるんじゃないですよ。そうではない。でもやっぱりね、人間ってそんな存在なんですよ」
すごく真っ当な死刑反対論。
亀井氏の死刑論に反駁することは難しいと思う。
しかし、感情的に納得できるかどうかは別だが。

死刑廃止を訴えることは政治家として損ではないかという森達也氏の問いに、亀井氏は、
「俺は損得で政治やってないから」
「損得で政治やるなら郵政民営化に賛成していますよ」

と答える。

さらにこんなことも言っている。
「警察官僚出身だからこそ、冤罪がいかに多いかを私は知っています。
私自身がね、誤逮捕しかけたことが過去に二回あるんです。つまり冤罪です。起訴されてからも裁判官は検面調書(検察官が取った調書)を何よりも優先する。目の前で被告人が『検事から誘導されて言ったんです』と主張しても聞く耳を持たない。あれはひどい」
説得力がある。

検事を不正行為を内部告発しようとしたが、詐欺罪と暴力団からの接待を受けたとして収賄罪で逮捕された三井環(元大阪高検公安部長)氏は
「裁判官はね、昔から検察依存なんです。これが強くなってきた。検事が勾留請求する、あるいは逮捕状請求するでしょ。これ、いわゆる自動販売機やからね。裁判所は言われるまま、検事が反対したら保釈も認めない。(略)なぜ検事が保釈を嫌がるかというと無理しているからですわ。だから保釈させずに罪を作る。たとえば中小企業の社長が逮捕されたとき、ずっと拘束されていたら会社は倒産しますよ。だから保釈ほしさに、やってなくても認めてしまう。認めれば保釈されますから。こうして実際は無罪なのに有罪になってしまう」
と語っている。
これまた内部告発。


なぜ死刑はやめるべきだと主張しているのかという問いに亀井氏は、
「何かなあ。家が貧乏だったからかなあ」
「肉や魚食ったりなんてことは全然ない。ただうちの場合、親子兄弟、貧しいだけに仲良かった。……だから俺なんか、もしも貧しくて愛情の薄い家庭に生まれていたら、人殺しやって死刑になっていたかもしれない。たまたま周りの人に恵まれて生きてきた。これは自分の力じゃねえのよ。……今はね、弱者が強者に対して反抗しない時代になっている。(鬱憤が)下へいっちゃう。だから死刑囚なんて殺しちゃえってなっちゃう。弱いものを仕置きして満足している。ひどい時代になったと俺は思うよ」
ひょっとしたら自分だってという想像力、冤罪で捕まる人の痛みを感じる繊細さを、失礼だが亀井氏が持っているとは思わなかった。

しかし、亀井氏は悲観していないと言う。
「死刑囚の命であろうと人間の命を大事にするということ、そういう心が芽生えることによって、凶悪犯罪というものはなくなっていくと思いますね」

死刑囚の教誨をしているT神父の言葉はひたすら重い。
T神父は最初に執行に立ち会ったとき、もうすぐ処刑される人を目の前にして「壊れました」と言う。
「そのとき僕は、たぶんどこかが壊れたと思う。それは今も感じる。(略)あの執行の日以来、何かが壊れました。そうとしか思えない。たとえば車を運転しながら、何の脈略もなく涙が溢れてくることがあるんです」
死刑囚の教誨は生きるためではなく、おとなしく殺されていくために行なう。
宗教者として矛盾することをしなければならない。
T神父は「できることなら教誨師を辞めたい。本当にそう思う」とまで言う。
そうは言いながらも、T神父は執行の時に死刑囚を抱きしめる。
ため息。

コメント (43)
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