三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

真宗の現代化を目指して

2006年11月28日 | 仏教

『歎異抄』の文庫本を買おうとネットで調べると、角川文庫から新訳として千葉乗隆訳があった。
某大型店に行くと見つからなかったので、店員に「角川文庫の『歎異抄』はないですか」と尋ねると、「はあ?」という返事。
それで紙に『歎異抄』と書くと、調べてくれたのはいいが、「タンイショウ」で検索しているのだ。
『歎異抄』ぐらい誰でも知っていると思っていた私の傲慢でした。

お勤めの最後には『御文』を読む。
蓮如は地域の有力者や道場に手紙(御文)を与え、みんなが集まった時にその手紙を読む、という教化方法をとっていた。
今ならビデオ法話というところである。

ところが現在では、『御文』を読んでも、おそらくほとんどの人にはなんのことやらさっぱり理解できないだろう。
意味がわからないのはもちろん、耳で聞いただけでは何を言っているのかチンプンカンプンだと思う。

たとえば「仏恩報謝のために、つねに称名念仏をもうしたてまつるべきものなり」、字を見ればどういう意味かわからないこともないと思う。
しかし、「ブットンホウシャ」とか「ショウミョウネンブツ」といった真宗の基本的用語を聞いて、どういう字なのか、意味は何かをわかる人は、今や少数派ではないだろうか。

私は『御文』を読む時には現代語訳にして読むのだが、そうなると「仏さまのご恩に報いる仏恩報謝のために、つねに南無阿弥陀仏と声に称えて、称名念仏をもうさなくてはいけない」というような、長々とした文章になり、これはこれで何のことやら混乱してしまう気もする。

現代に通じる真宗にするためには、まず専門用語をどうするかという問題があるが、現代の言葉に置き換えればいいというものでもない。
『正信偈』や『阿弥陀経』の現代語訳でお勤めしたからといって、意味が理解できるかどうか疑問に思う。
どうしたものやら、はてさて。

コメント (5)
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