三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

亀井鑛『日暮らし正信偈』

2006年11月13日 | 仏教

信仰は体験によって強化される。
ずっと以前、夜行列車で創価大学の学生と一緒になり、あれこれと話をしたことがある。
その学生の一家はそろって創価学会の熱心な信者で、どうして創価学会の教えを信じているかと尋ねた。
すると、高校のころすごく悩んだことがあり、お兄さんが「自分もそういうことがあった。とにかく勤行してみろ」と言うので、一生懸命勤行していたら、何かに包まれている経験をした、だから創価学会を信じている、ということだった。

これは一種の神秘体験だが、ご利益体験というのもある。
私は身体が弱くて、ある人から「先祖を大切にしたら元気になる」と教えられ、こうやってお坊さんに来てもらうようにした、そのおかげか病気をしなくなりました、と話された人がいる。

真宗の教えを聞いている人だって体験には弱い。
別院で法座があったおり、近くに座っていたおばさんたちが「あの人はすごい。阿弥陀さんを見た」と尊敬するように話していた。

釈尊の悟りは神秘体験かどうか、釈尊は神秘体験をどう考えていたか、諸説あるが、私としては、釈尊は神秘体験自体を否定しないが、特別な価値があるとは考えていないと独断している。
問題は、いかにして神秘体験の呪縛から解放されるか、である。

亀井鑛『日暮らし正信偈』を読んでいたら、そのことについて書かれてあってうれしくなった。

世界中のあらゆる宗教が、〝光〟を媒介にしてその功徳を表現しています。(略)光とか光明といわれると、つい、神秘的な超常現象か何かみたいに、当て推量して、光り輝く視覚体験のことと勘違いしてしまう場合が少なくありません。

このように前置きし、「そんな錯覚から事なく切り抜けられた方」を亀井さんは紹介されている。

その方が37、8歳のころ、農薬の薬害とストレスの鬱病が重なり、耳鳴り、めまい、ものが二重に見えるなどに苦しんだ。
近くの禅寺へ座禅に通って、何ヵ月かしたある春の朝、

座禅の後、帰り支度をしていると、小鳥の啼き声がいつになく冴えて、庭から眼下に見下ろす延岡の遠景が光り輝いて、澄み透って見える。ふと気がつくと耳鳴りもめまいも消えて、わが目を疑うばかりに全世界がまばゆい光に包まれている。

神秘体験とご利益体験を合わせた体験である。

ところが、この喜びをある真宗寺院の住職に報告したら、「そげなもん、屁にもならん」と吐きすてるように言われた。
ご本人も「以来、たしかに耳鳴りめまいは消え、体調もよくなったけれど、あの光り輝く感動は、記憶だけで蘇らない、つづかない」と思った。
そして夏になって、真宗寺院の講習会で話を聞き、「あ、そうか。この〝屁にもならん〟ところに、念仏の生きた真の意味がひそんでいるのか」とうなずけたという。

体験したことを握りしめて絶対化すること、それはまさに執着そのもので、「屁にもならん」と知らされる、それが体験という呪縛を乗り越える道なんだと思う。

コメント (5)
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