三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

谷田和一郎『立花隆先生、かなりヘンですよ』

2006年11月16日 | 問題のある考え

谷田和一郎『立花隆先生、かなりヘンですよ』は、立花隆のニューサイエンスかぶれを批判した本である。
谷田和一郎は立花隆のオカルト的なものに対するパターンをこう書いている。

まず、最初はオカルト的現象に対して、ひとまず疑問を提示する。ただし、これはあくまでもポーズでしかない。一応疑問を示しながらも、オカルトを頭ごなしに否定するのは非科学的であると言って、オカルトの実例をいくつも挙げていく。
この実例が、かなり長い。あまりに長いものだから、途中で論理の道筋がよくわからなくなっていき、いつのまにか最初の批判的なトーンは薄れて、最終的にはオカルトに肯定的な結論が導き出されていく。


立花隆の臨死体験についての論法である。

はじめに「本人の報告を信じる限り」と注釈をつけておきながら、最後には「このような例を否定するわけにはいかないだろう」と締めくくっている。最初に、報告を「信じる限り」と仮定していたのに、最後には報告が「正しい」ことになってしまうのである。


こうした論の進め方はニューエイジャーに一般的に見られる。
「まず初めに結論ありき」なのである。
そして実例(と称するもの)をあげ、「そうらしい」「ありうる」「かもしれない」という曖昧な表現を使いながら仮説(すでに用意されてある結論のこと)を述べ、こういう実例が積み重なると否定できないと言い、いつの間にか「これ以外考えられない」と断定するわけだ。

ところが、実例がはたして真実かどうかは検証されないし、神秘体験となると、体験していない者にはわからないと言って、反論を認めない。

心霊主義の創始者とも言えるフォックス姉妹は、霊との交信はいかさまだったと告白している。
ところが、本人が明らかに否定しているにもかかわらず、霊との交信は事実だったと書いている本は少なくない。

もうひとつ、オカルト作家がオカルトの話を書いても、新興宗教の教祖がオカルト的なことを言っても、もちろんそれは許容の範囲内にあるが、大学教授、博士、著名人(立花隆のような)がオカルト肯定論を語ったら、信じる人が出てくるわけだから、その害毒は大変なものであるということ。

まあ、島薗進の言うように、ニューエイジ(スピリチュアリティを含む)は「新宗教以後の宗教運動」(かなり怪しい宗教運動ではあるが)だし、オカルトにしろ似たり寄ったり、とてもじゃないが科学とは言えない。

で、宗教とは何かということだが、土屋賢二『ツチヤ教授の哲学講義』の定義。

ぼくの考えでは、宗教の基本的特徴のひとつは、信じるということじゃないかと思うんです。(略)
宗教では、常識からすればとても信じがたいようなことを多くの人が信じているんですよね。それが宗教です。


反論することもできないし、証明することもできないこと、たとえばイエスが神の子であること、最後の審判、信仰すれば幸運になる、悪いことをすればバチが当たるetcを宗教は説き、信者は信じる。
それに対して、哲学は「非常に厳密に吟味する学問です」とツチヤ教授は言う。
哲学にかぎらず、科学的とはそういうことだと思う。

小須田健『面白いほどよくわかる図解世界の哲学・思想』に、こう書かれている。

哲学は、どんな問題に対しても安易に答えを出してしまう私たちを戒め、自制を促す力をもっています。
「もうこれは正解ではなくなったのではないか」と、絶えず自己吟味をして、自分に対して批判的な目をもち続けることが大事なのではないでしょうか。
「今の自分にはわからないことがありうる」という観点を保ち続けることが大切なのです。

立花隆たちニューエイジャーのたわごとは他山の石であります。

コメント (6)
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