三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

霊性文化の波が本願寺にも

2006年11月04日 | 問題のある考え

高倉会館の日曜講演で、樫尾直樹慶応義塾大学助教授が「現代社会における霊性文化と宗教」という講題で話をするそうだ。
霊性文化というとスピリチュアリティである。

樫尾氏は2004年12月10日に真宗大谷派教学研究所の研究会で「現代スピリチュアリティ文化の諸相-その歴史的意味と宗教サバイバル-」という講題で話をしている。
スピリチュアリティを研究することは大切である。
しかし、スピリチュアリティは諸先生方がお話をされてきた伝統ある高倉会館で講演すべきものだろうか。

高倉会館では、毎週日曜日、様々な講師による講演をとおし、広く市民が、真宗の教法を共に聞く場として、日曜講演を開催しております。

スピリチュアリティのどこが真宗の教法なのか。
いやはや、大谷派も末期症状である。

スピリチュアリティについて肯定的な講演だったら、と不安になって、樫尾氏がどういう人か調べてみた。
島薗進東大教授の影響を受けている人のようで、スピリチュアリティについて客観的に研究しているというより、スピリチュアリティの立場から論じている人らしい。

江原啓之、飯田史彦、天外伺朗たちを持ち上げることはしないまでも、彼らに好意的なのではなかろうか。
もしもそういう類いの話であれば、大谷派はスピリチュアリティを真宗の教えと共通するものだと認めたことになる。

樫尾氏の関係しているサイトであるスピナビの説明。

特定の信仰・宗教にかかわり無く、見えない力を感じることで他者とのつながりを創っていく新しいライフスタイルをシェアするサイトです。


樫尾氏のスピリチュアリティ定義。

自分の中や自分と他者との間で働いていると感じられる、自分を超えた何ものかとつながっている感覚(の質)。

「見えない力」「自分を超えた何か」「つながり」ということが何か、また定義をしないといけないのだが、おそらく実体的な「力」であり、「何か」であり、「つながり」だと思う。
それは、通常の感覚では認識できない実在(リアリティ)であり、瞑想などによる変性意識の状態によってしか体験できないものを指していると思う。

<スピリチュアリティ>とは、「誠実で謙虚なまっとうな人間に成熟していく過程で獲得される性質」を示しているのではないかと、私は思いました。

このように樫尾氏は言うが、じゃあ、スピリチュアリティを批判する私なんか「誠実で謙虚でまっとうな人間」ではないのかとひがんでしまいました。

この調子じゃ、瞑想を本願寺や教区で行なったり、ソニーの土井利忠氏が親鸞聖人讃仰講演会に来たりということも十分あり得る。
実際、ヨガ教室をしている末寺や別院は多い。
カウンセリングの勉強会もよく行われている。
ヨガやカウンセリングで救われるのなら真宗は不要である。

教学研究所や親鸞仏教センターがスピリチュアリティを受け入れたら、大谷派の教学は変わってくる。
瞑想によって浄土を見ることができるとか、浄土にいる死者と会話を交わすことができるとか、そういうふうになったら、大谷派を離脱したくなる。

コメント (27)
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