『歎異抄』の文庫本を買おうとネットで調べると、角川文庫から新訳として千葉乗隆訳があった。
某大型店に行くと見つからなかったので、店員に「角川文庫の『歎異抄』はないですか」と尋ねると、「はあ?」という返事。
それで紙に『歎異抄』と書くと、調べてくれたのはいいが、「タンイショウ」で検索しているのだ。
『歎異抄』ぐらい誰でも知っていると思っていた私の傲慢でした。
お勤めの最後には『御文』を読む。
蓮如は地域の有力者や道場に手紙(御文)を与え、みんなが集まった時にその手紙を読む、という教化方法をとっていた。
今ならビデオ法話というところである。
ところが現在では、『御文』を読んでも、おそらくほとんどの人にはなんのことやらさっぱり理解できないだろう。
意味がわからないのはもちろん、耳で聞いただけでは何を言っているのかチンプンカンプンだと思う。
たとえば「仏恩報謝のために、つねに称名念仏をもうしたてまつるべきものなり」、字を見ればどういう意味かわからないこともないと思う。
しかし、「ブットンホウシャ」とか「ショウミョウネンブツ」といった真宗の基本的用語を聞いて、どういう字なのか、意味は何かをわかる人は、今や少数派ではないだろうか。
私は『御文』を読む時には現代語訳にして読むのだが、そうなると「仏さまのご恩に報いる仏恩報謝のために、つねに南無阿弥陀仏と声に称えて、称名念仏をもうさなくてはいけない」というような、長々とした文章になり、これはこれで何のことやら混乱してしまう気もする。
現代に通じる真宗にするためには、まず専門用語をどうするかという問題があるが、現代の言葉に置き換えればいいというものでもない。
『正信偈』や『阿弥陀経』の現代語訳でお勤めしたからといって、意味が理解できるかどうか疑問に思う。
どうしたものやら、はてさて。
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『歎異抄』、日本史の教科書でも出ますでしょうに、知られていないというのは悲しいですね。といっても、ウチの宗派の『正法眼蔵』も、正しく発音できる方は少ないです。「せいほうがんぞう」とかいうのが多いかもしれないです。
それはさておき、現代の方にどのように言葉を伝えていくかというのは、本当に難しいですね。ご指摘のように、訳しても意味が通じなくなることが少なくないですし、せっかく『御文』が持つ語感も大事にしたいです。色々と模索しなくてはならないのでしょうね。蓮如上人も『御文』と「講」を“発明”されたのでしょうから、それにならって、何かしら妙案を・・・というか、拙僧も考えなきゃならないんですけど。
今びっくりした状態です。『たんにしょう』?
こーこーの歴史の先生も「たんいしょう」って言ってた気がする・・・あな、恥ずかしや・・・
『正法眼蔵』はドンナものかも知らなかった状態ですが、仏教関連で呉音でしょうから、流石に「せいほう」じゃなくて「ショウボウ」と思ってましたけど。
英語や仏語は1-2年真面目に勉強すればシェークスピアでもラシーヌでも読めるは読めるけど、現代日本語が理解できて紫式部も分かる人は稀ですよね。
森鴎外だって旧字旧かなだと、辛いわなぁ。。。
話を変えますが、日本語の変遷の激しさも問題では。5-60年前の文書を読むのにも苦労する状態だし。
漢字解読力の低下より、過去の文書が読めない文法・表記法の変化の方が困ったことではと思います。
聖書みたいに、ギリシア・ラテン語版も読むけど、一般信者向けには現代語ってワケにはいかないんでしょうかねぇ。
興味が出てきたら、辞書を引きながらだって読むでしょうが、チンプンカンプンだとやっぱしねぇ。
ぐげっ・・・
しかしながら、坊さんでも他宗についてはあまり知りませんから、『三教指帰』『山家学生式』「栄西」「相国寺」など、正しく読めるかどうか。(私も『三教指帰』を間違ってました)
「てふてふ」はどうでしょう。
あるおばあさん、「てふ」という名前で、恥ずかしながら「どう読むんですか」と尋ねました。(^_^;)
現代語訳すればいいかというと、話し言葉と書き言葉との違いがありますね。
『御文』は読んでわかる文章というより、耳で聞く文章だから口調がいいのに、それを現代の書き言葉に直して読んでも、ありがたみはないですよね。
>何かしら妙案を・・・
音楽法要がよく行われています。
これからはこういったものがいいように思います。
もっとも、法事では無理な気もしますが。
礼拝も、キリスト教だと「れいはい」で、仏教だと「らいはい」ですよねぇ。
昔統計ソフトを取り扱ってたのですが、英語じゃ同じ用語なのに、社会科学系と医薬系と単語が違っててお客さんに合わせて変えて話してましたよ。
そーゆーことを考えると「読み」にこだわるのはアホらしい気にもなります。単なるセクト主義だったりもしますから・・・
さりとて、お葬式で口語訳のお経を詠まれてもシラケますしねぇ。。。ギターをつまびいて皆で合唱されてもなぁ。
でも、音楽ホールで坊さんがうなってる声明ってのもお尻がこそばゆくて嫌でした。
それなりの格式や重みってのは、お坊さん側にも、お経をあげてもらう側にも、参加責任と義務があって、その上で成立するんでしょうね。
でも、ちゃんと参加しようと思うと意味ぐらい知ってないと辛いしねぇ。。。
うーん、たとえば 「懺悔」はもともと仏教の言葉でして、「さんげ」と読みます。
しかし「さんげ」と言ったら、たいていの人には意味不明だろうし、ATOKでは「さんげ」を変換しても「懺悔」にはならない。
本家本元が宗教差別されてるんですよ。
勤行というのは意味がわからないからありがたい、という要素もあります。
しかし、とにかくありがたいじゃ、鰯の頭信心ですから、経本を配って一緒にお勤めするようにしています。
ただ聞いているだけじゃ退屈だろうし、ぜひ参加してくださいという意味もあります。
ところが、このお経はどういうことが書かれているのかと興味を持つ人はあまりいないようです。
どうもうまくいきません。