毎日新聞の「中島岳志的アジア対談」で、作家の雨宮処凛との対談が載っていて、これが面白かった。
中島岳志は、若者の「自分探し」が過激な右傾化につながる現象を危惧しており、似た事態がアジアの他国にも起きているというところから、雨宮処凛との対談となった、とある。
31歳の雨宮処凛は「小学校のころからいじめを受け、自殺未遂や家出を繰り返す。高校卒業後、東京で右翼団体に加入」という経歴の持ち主である。
雨宮処凛は右翼時代をどう振り返るかと聞かれ、このように答える。
そして、このようにも言う。
「自分も必要とされている」ということを、小林政広『バッシング』という映画の主人公も同じことを言っていた。
『バッシング』は、イラクで人質になった人たちが日本に帰ってから誹謗中傷を受けたという事件をモデルにしている。
期待して見に行ったのだが、主人公が単なる甘ちゃんとしか思えず、がっかりだった。
主人公は仕事をクビになったり、イタズラ電話がかかってきたりして(どういうことがあったためか、映画では説明されない)、神経がささくれ立って、イライラしているのはわかる。
それにしても、性格がいかにも頑なで、これじゃあねと思ってしまう。
たとえば、コンビニでおでんを買うのに、一種類ずつ別の容器に入れてもらい、汁をたっぷり入れてくれと店員に注文するのだが、なぜか不機嫌そうに怒ったように言うのだ。
小林政広監督は主人公を、人とうまくつき合うことのできないキャラクターとして描いているのである。
主人公は雨宮処凛が、
と言っている、まさにその通りのどん詰まり感の中にいるわけである。
映画の最後、主人公は再び旅立つ(どこへなのか、これも説明なし)。
その理由を継母(どうして姉妹のように見える大塚寧々なのか)にこのように語る。
自分は何をやってもダメで、勉強はできないし、友達は少ないし、大学は落ちたし、仕事もない、だけどあそこに行ったら自分を必要としてくれる人がいる、子供たちが「有子、有子」と言ってくれる、だから行くんだ。
人から相手にしてもらったから、喜んでもらえたから、大切にしてもらえたから、という気持ちはわかるが、それだけの理由で危険なところに行くというのでは、常識はずれだ、自分勝手だと非難されても仕方ないのではないか。
モデルになった女性が気を悪くするんじゃないかと思う。
自分は誰からも相手にされていない、自分はいてもいなくてもいい人間なんだ、ここには居場所がない、必要とされている場所があればどこでもいい。
自分探しというよりも、居場所探しと言うべきか。
雨宮処凛も右翼バンドをやめて、イラクで人間の盾をしようと試みたそうだ。
居場所を求めて、右でも左でも、あるいはカルトにでも転がっていく。
以前なら左に向かうのが主流だったわけだが、今は右である。
なぜなら、右のほうが「分かりやすい敵を示してくれる」からである。
雨宮処凛はこう言っている。
自分が必要とされる居場所を探しているのは若い人だけではない。
毎日新聞の「雑誌を読む」に、斎藤環「右翼テロと歴史の罠」という文章がある。
加藤紘一議員の実家が放火によって全焼した。
浅野健一によればマスメディアは事実を伝えていない。
そして、
と述べる。
放火事件の犯人は65歳、右翼団体のなかでも閑職だったそうだ。
放火は居場所がなくなった彼なりの自分探しなのだろうか。
中島岳志は
と言っているが、放火事件は一つの表れかもしれない。