三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

土屋賢二『ツチヤ教授の哲学講義』

2006年11月07日 | 

『ツチヤ教授の哲学講義』によると、ツチヤ教授は哲学の考え方には二つあるという。

ひとつは、哲学は感覚を超えたところにある形而上学的真理を解明するものだという考え方です。もうひとつの考え方は、哲学は、そういう真理を解明するものではなくて、哲学的問題に関してわれわれの理解を深めることだ、そのためには、特にことばの働きをきちんと理解する必要がある、という考え方です。

形而上学とは何か。

形而上学は、感覚で捉えることのできるものや観察できる事実をさらに超えたものが存在すると考えます。この形而上学的なものを研究するのが形而上学です。

たとえば、神とか、価値とか、存在とか、意味が形而上学的なものである。
「この世界は何のために存在しているのか」とか、「神は存在するか」とか、「自分とは何か」とか、こういった形而上学の問題を解決し、深遠な真理を解き明かすものが哲学だと思われている。

しかし、ツチヤ教授はそれを否定する。

形而上学は結局のところ、ことばを言い換えたり、われわれが使っている言葉のルールを変更しようとしているとしか思えない。


たとえば、「本当の自分とは何か」という問題である。
「本当の自分とは何か」、プラトンはふつう「人間」と呼んでいるものは本当の意味では人間ではなく、人間のイデアこそが本当の意味で人間であると主張している。
しかしツチヤ教授は、「人間のイデアが本当の人間なんだ」ということは「AはAである」と言っているにすぎない、「人間」と呼ばれているものは本当の人間ではないと否定するのは言葉の使い方を変更しようと主張していることだ、形而上学は言葉の規則に反対を唱えているだけだ、と言う。

ウィトゲンシュタインは哲学の問題はすべて言語的な誤解に基づいて発生するんだと考えています。誤解に基づいて発生した問題なら、それを解決するということもありえません。

形而上学的な問題に答えはないということである。

スピリチュアル・ペインということが医療の現場で問題にされている。
闘病生活が長引いている人や、死を目の前にした人が、「私の人生は何だったか」「なぜ死ななければならないのか」「どうして苦しい思いをしてまで生きなければならないのか」「死んだらどうなるのか」といった苦痛な問いを持つ、それをケアしましょうということである。
しかしながら、こうした問いは形而上学的な問題だから、答えがない。

田畑正久『生死を超えて』だったと思うが、中学生がナイフで教師を刺して死亡させたという事件があり、そのお通夜の席で同僚の教師が「どうして、死んだの」と嘆き悲しんでいたら、側にいた医師が「出血多量で死にました」と答えた、ということが書かれてあった。
医師の答えは場にふさわしくはないが、しかし医学的には正しい答えである。
宗教的な答えはいろいろあろうが、「そういう業を作ったからだ」が答える仏教者もいるだろう。
ウィトゲンシュタインだったら、「答えはない」と答えるのだろうか。

ツチヤ教授はこう言う。

ぼくは「いかに生きるべきか」とか、「何が一番価値があるのか」といった問題を哲学的に解決することはできないだろうと思っています。解決できない理由は、われわれに能力がないからではなくて、この問題自体に疑わしい点があるからだと思うんですね。

天願大介『AIKI』という映画にこんなセリフがある。

正しい質問には正しい答が含まれています。迷うのは問いの立て方が間違っているからです。

これにはほとほと感心した。

プラトンは、形而上学的な真理を知らなければ、われわれの人生は意味を失ってしまうと考えた。
しかし、ツチヤ教授は疑問を呈する。

ぼくはこういう考え方に疑問を持っています。(略)プラトンは、重要なことはすべてわれわれの感覚経験を超えたところにあると考えましたけれど、それにも疑問を感じます。

そしてこう言う。

われわれは不思議だと思うことがあれば、その問題には正解があるはずだと考えてしまいますよね。そして、その正解を探そうとしますよね。でも、ぼくとしては、解決を探す前に、その前提となっている「正解がどこかにあるはずだ」という考えを吟味する必要があると思います。

つまりは、「なぜ死ななければいけないのか」「どうしてこういう目に遭ったのか」「いかに生きなければいけないのか」といった問いに答えられないからといって、それで悲惨だということにはならない。
だからといって、そうした問いが無意味だとは思わないし、スピリチュアル・ペインは大切な問題である。

しかし、答えの出ない問いは、問いの立て方が間違っているのではなかろうか。
ならば答えを探すよりも、正しい問いは何かを考えていかないといけないと思う。
じゃ、何が正しい問いなのかとなると、これまた難問ではありますが。
安易に答えを与えるスピリチュアリティの先生より、ツチヤ教授のような人を本願寺は招いてほしいものです。

コメント (67)
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