エホバの証人が冊子を配っていたのでもらって帰った。
この冊子は「ものみの塔」という名前で、1879年以来、継続的に発行してきたそうだ。
「本誌は、聖書預言の成就となる世界の出来事を絶えず見守り、神の王国が、仲間の人間をしいたげる人々を間もなく滅ぼし、地上をパラダイスに変えるという良いたよりによってすべての人々を慰めます」
「すべての人々を慰めます」と書きながら、滅ぼされる人もいるというのは矛盾だと思う。
2006年3月15日号には「死―過酷な現実」という文章が載っていて、「死別の悲しみがいやされる時は来ますか。死んだ人にはどんな希望がありますか。亡くなった家族や友人に、またいつか会えるでしょうか」といった問いに対する答えが書かれている。
まず、ラザロの復活を例に挙げ、「亡くなった人々にとってのたしかな希望とは復活であることが分かります」
では、人の死後、何が復活するのか。
「腐敗して地の塵に戻ってしまった肉体ではありません。同じ体が復活するのではなく、亡くなった同じ人が復活するのです」
「エホバにとって、新しい体を備えた同じ人を生き返らせるのはたやすいことです」
「ものみの塔」誌の文章は直訳体で読みにくく、意味の通らないところが多い。
復活は、亡くなった人の希望ではなく、生きている我々の希望だろうし、「同じ体が復活する」のと「同じ人が復活する」のとはどう違うのだろうか。
霊魂についてははっきりと否定している。
「人の内にある何かが死後も生き続ける、という考え方についてどうでしょうか。実際のところ、復活の教えと、人の魂は不滅であるという考えは相いれません。人の内の何かが死後も生き続けるとすれば、復活など必要ではないでしょう」
もっとも、亡くなった人すべてが復活するわけではない。
「決して許されない罪を犯した人もいます。そのような人はゲヘナ、つまりとこしえの滅びを表す象徴的な場所にいます」
ある人が復活するかどうかだが、それを決めるのは神であって、我々にはわからない。
復活には二種類あって、天に復活する者と地上に復活する者がいる。
「キリストに属する者たちで成る小さなグループの人々は、ある特別な目的のために天の命に復活させられます」
キリストと共に王また祭司として支配する人たちの数は14万4000人。
天への復活はいつ起きるのか。
「1914年以降の世界の出来事からはっきり分かるように、キリストの臨在および「事物の体制の終結」は1914年に始まりました。ですから、もちろん人間の目には見えませんが、忠実なクリスチャンの天への復活はすでに始まっています」
なぜ「はっきり分かる」のかは不明。
では、残りの人はどうなるのかというと、大多数の死者は地上に生き返る。
地上での復活はいつ始まるのか。
「創造者は、サタンが支配する現在の世を間もなく終わらせると約束しておられます」
その証拠として、箴言、ダニエル書、ヨハネ書をあげている。
これらの書物が書かれたのは2000年以上も前なのに、相変わらず「間もなくですよ」と言われても納得はしがたい。
「死―過酷な現実」によると、死者が復活することが死別の悲しみにある人にとっての希望だという。
「死―過酷な現実」に挿絵があるが、庭園の背景に墓地があるという変な場所で、3組の親子が再会を喜んでいる。
地上での復活とはこういうものだと説明しているのだろう。
死んだ子供に再会して喜ぶ親、という感動的なシーンである。
しかしながら、いろんな疑問が湧いてくる。
抱き合って喜んでいる正面の母親と息子、右の両親と二人の娘、この人たちはいったい何歳の時に死んだのだろうか。
左にいる白髪頭の黒人は老人のようだから、老人の姿で復活する場合もあるらしい。
ということは、死んだ時の年齢、容姿で復活するということなのだろうか。
たとえば、妻が30歳、夫が93歳で死んだ場合はどういう再会の仕方になるのだろうか。
蓮如のように5回も結婚していたら、天国では一夫多妻になってしまう。
子供は子供のままで年を取らないのか。
霊魂を否定しているから、死んだ後に何かが生き続けることはない。
死んでから復活までの間に時間は経過しないことになり、死んだ瞬間に復活するのだろうか。
それに、この世が終わると地上への復活が始まるわけだから、最近死んだ人も大昔に死んだ人も同時に復活することになる。
今まで死んだ何十億か何百億かの人がいっぺんに復活するわけだから、ものすごい混乱が生じて、この絵のような感動的なシーンはあり得ないのではないかと心配になる。
ああ、そうか、だからごく少数の人しか復活しないということなのか。
というふうに、次々と疑問が生じる。
きれいごとすぎるのではないだろうか。