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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』

2006年08月05日 | 厳罰化

 多くの日本人が、犯罪が増加し、治安が悪化していることに不安を感じている。

内閣府が3日に発表した「子どもの防犯に関する特別世論調査」で、周囲の子どもが犯罪に巻き込まれる不安を感じている人が74%に上ることがわかった。子どもが被害者となる事件の頻発を受け、大人の間にも不安が広がっていることが浮き彫りとなった。(読売新聞)

ところが、河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』(2004年の発行で、統計は2002年まで)によると、犯罪実数は本当は増加していないし、治安の急激な悪化も起きていない。
最近5年での認知件数の急増は、統計の取り方の変化などが原因で、実数の急増ではない。

各種統計を見ると、昭和30年代が主要7罪種(殺人、強盗、強姦、傷害、暴行、脅迫、恐喝)の事件発生率のピークで、その後次第に減少して90年から95年ごろが最低、97年からは微増に転じている。

犯罪による死亡者数は90年代半ばまで減少し続けており、ここ数年は横ばい。

殺人は年間1300件以上だが、殺人の統計には、殺人予備罪と殺人未遂罪が含まれており、殺人によって殺された被害者の数を調べると、最近は600人台。

この600件余りの内、最大のカテゴリーは心中である。
「無垢な被害者を人殺しが襲う事件はせいぜい100,200のオーダーであるように思われる」と河合幹雄は言っている。
加害者が家族なのが4割、顔見知りによる犯行が8割である。

日本において、軽微な犯罪を数えれば、他の諸先進国と比較して、さして犯罪被害が少ないわけではないものの、殺人、強盗はじめ重大な犯罪に限定すれば、極めて犯罪は少ないと結論できる。

日本社会は安全でなくなってきているという認識は、全くの誤りであり、日本社会は安全にうるさくなってきていると言うべきである。

2002年現在は、戦後で最も安全な時代であり、さらに安全性を上げ続けている状況にあることは間違いのない事実である。諸外国と比較しても、日本人は、世界で抜きん出た安全を享受していることに変わりない。それなのに、妙なペシミズムの時流にのって不正確な議論がなされていることは悲しいことである。


どうして体感治安が悪化しているのだろうか。
内閣府のアンケート
不安になる理由(複数回答)は、「テレビや新聞で子供が巻き込まれる事件が取り上げられる」が85・9%と最多で、「地域のつながりが弱い」が33・2%、「子供が習い事で帰宅が遅い」が31・1%。
つまりは、マスコミはいたずらに不安感を煽り立ててているわけだ。

犯罪が増えているわけでもないし、治安が悪くなっているわけでもないのに、どうして「日本は犯罪の少ない安全な社会であるという安全神話」が揺らいでいるのだろうか。

河合幹雄は「安全神話の崩壊が、犯罪増加と無関係に起きたということである」と指摘する。

戦後、人々の規範意識が低下したために凶悪犯罪が増加したなどという言説は、まったく根拠を欠く。

そして、安全神話の第一の特徴は、犯罪を別世界の出来事と思っている人々のみが抱いているということである。
したがって、安全神話の崩壊とは、犯罪は別世界の出来事と思っていたのが、もはや別世界の出来事ではなくなったということにほかならない。
つまり、かつては犯罪の世界と日常生活の場とは切り離されており、はっきりとした境界があった。

たとえて言うと、夜の繁華街と昼の住宅街という境界である。

安全神話の崩壊とは、この境界の崩壊にほかならない。
もちろん、昔は境界があったから犯罪が少なく、治安がよかったというわけではない。
安心感と犯罪は別である。

たしかに私の子供のころなど、子供が行ってはいけない場所があり、夜は外に出ないのが当たり前だった。

ところが今は、小学生でも夜遅くまで塾へ行ってるし、住宅街のレンタルビデオ屋でもアンパンマンのビデオと一緒にアダルトビデオを借りることができる。
境界がなくなってしまっている。

さらに河合幹雄はこのように書く。

一般的な日本人は、犯罪は別世界の出来事と感じて、防犯意識が薄く、事件があれば厳罰を求める。しかし、犯罪に係わる統治する側に属する人々は、寛大な処置を伝統としており、刑罰は軽い。

日本の刑罰は軽いかどうかはともかく、一般的な日本人が厳罰を求めるのだから、ネットで厳罰化の声が大きいのもうなずける。

もう一つ、なるほどと思ったこと。

日本社会は、穢れ=犯罪に係わる世界と、犯罪のない日常世界に分離している。

犯罪=穢れ=非日常なのだ。
犯罪が穢れということは、在日、被差別といった差別ともつながってくる。
差別は排除であり、排除することで安心する。

犯罪を身近に感じないため防犯意識が薄いということは、十分に護られているから安全だということではなく、危険がない、つまり、自分の周りには「犯罪者=悪人」はいないと感じていることを意味すると、河合幹雄は指摘し、ハンセン病患者を例に出す。

ハンセン病者は故郷では死んだことになっていたり、存在しないことになっているような、共同体からの排除構造は、穢れを避けて、何も問題がないように安心しようという構造そのものである。

ハンセン病患者に対する隔離、安心感、そして無関心という問題も、穢れ=非日常ゆえなのかと納得した。

コメント (18)
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