三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

仙波芳一『図解雑学 親鸞』

2006年08月17日 | 問題のある考え

 

小野功生『図解雑学 構造主義』が面白かったので、仙波芳一『図解雑学 親鸞』を買った。
表紙の親鸞の絵、あまりにもかっこよすぎるのはご愛敬。

中身であるが、どうもおかしい。
「絶対の幸福」とか「後生暗い心」といった言葉がくり返し使われている。
これは親鸞会の用語である。
それとか、「一向専念無量寿仏」の多用(親鸞は『教行信証』で一個所だけ引用している)とか、「『教行信証』には「三重廃立」以外、書かれていない」とか、ひっかかるとこが散見する。

著者の仙波芳一という人は何者なのか。
真宗史学研究所研究員ということなので、真宗史学研究所のHPを見ると、所在地がどこかわからない。
ネット上にしか存在しないのかもしれない。

リンクの「浄土真宗の入門書」をクリックしたら、なんとあのチューリップ企画のHPにとんでしまった。
ということで、仙波氏は親鸞会の方と判明しました。

大学生の時、繁華街を歩いていたら、白人女性からつたない日本語で「アンケートお願いします」と声をかけられ、鼻の下を伸ばした私はほいほいとアンケートに答え、そして女性に誘われるまま統一協会について行った。
その時、東大卒という人の話があった。
その話だが、「人生の目的は幸福になることです。これは誰も否定できないでしょう」と言ったのだけ覚えている。

『図解雑学 親鸞』にも、「絶対の幸福になることこそが、人生の目的なのです」とあり、親鸞会と統一協会は同じことを言っているのかと、なんとなく感心した。

では、絶対の幸福とは?
「絶対の幸福とは、どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜びをいう」
「阿弥陀仏の本願とは、阿弥陀如来という仏の約束をいう。その内容を一言でいえば、「どんな人をも必ず絶対の幸福に救う」という誓いである」

「絶対の幸福に救う」とは変な日本語である。
「絶対の幸福」とは浄土往生という意味ではないか。

それにしても、どうして「幸福」という言葉を使うのだろうか。
「救い」や「往生」では今の人にはわかりにくいから、ということかもしれないが、仏教では幸福という言葉はない。

そして、仙波氏はこう言う。
仏教の目的は「抜苦与楽」である。
聖道仏教では、苦しみの原因は煩悩だと教える。
しかし、苦悩の真因は煩悩ではない。
「苦悩の根源は疑情」ということである。

「疑情とは何か。別名「無明」または「無明の闇」ともいわれるが、後生暗い心のことである」
後生暗い心とは何かというと、「死後どうなるか分からない心」のこと。
つまり、私たちが苦しむのは死んだらどうなるか分からないためなので、それが分かれば苦しみはなくなり、絶対の幸福になる、というわけだ。

では、死んだらどうなるのか?
「阿弥陀仏の本願は、生きている時は絶対の幸福に救い摂り、死んだ後は極楽へ生まれさせて、未来永遠の幸福に生かし切るという誓願である」
死んだら極楽に生まれることが決まったから、今、絶対の幸福だということだろう。

ところが、誰でも死後に往生できるわけではない。
「往生には、現在の往生と、死んでからの往生と二つあるが、現在ただ今、往生できている人だけが、死んで往生できる」
現在の往生とは絶対の幸福になること、死後の往生とは死ぬと同時に浄土へ往って仏の身に生まれること。
今、絶対の幸福にならないと、死んでも往生できない、だから弥陀の本願を信じなさい、と仙波氏は勧めているわけだ。
しかし、往生できない人がいると断定するのは、摂取不捨の本願と矛盾する。

仙波氏は「善因善果、悪因悪果、自因自果とは、幸福という運命は、善い行いが生みだしたものであり、不幸や災難という運命は、悪い行いが引き起こしたものだということである」なんてことを、最後で言っている。

つまりは、阿弥陀の本願を信じないとろくなことはありませんよ、ということで、こういう脅しはインチキ宗教の常套手段である。
インチキ宗教と一緒にされたのでは仙波氏としても不本意だと思う。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする