伊藤栄樹『人は死ねばゴミになる』は、真宗の人(にかぎらないだろうが)にはどうも評判が悪い。
最近の日本人は、死んだらおしまいだ、だから生きている間に好きなことをしなくては、今さえよければいい、という風潮なんだ、と言う人が多く、そのいい例として『人は死ねばゴミになる』が挙げられる。
林暁宇師は『むなしさをこえる』という本の中で、ガンでなくなった鈴木章子さんの「未完のままに」という詩を紹介している。
「人間死ねばゴミになる」
残された子に
残された妻に
ゴミを拝めというのですか
あなたにとりましては
亡くなられた
お父上
お母上も
ゴミだったのですか
人間死ねば佛になる
この一点
人間成就の最後のピースでしたのに
自分がただの粗大ゴミとして
逝ったのですね
未完成のまゝに
林師、鈴木さん、お二人とも死んだらお浄土に往生し、亡くなった人たちと再会すると話されている。
だから、伊藤栄樹の死んだらおしまいという考えはとても受け入れられないのだろう。
しかしながら『人は死ねばゴミになる』は、鈴木さんの言うような意味で「死んだらゴミになる」と言っているわけではないことは読めばわかる。
伊藤栄樹が言いたいのは、死体が自分ではない、人間が生きたということはどのように生きたかだ、ということだと思う。
伊藤栄樹は検事総長在任中(62歳)の時に、盲腸ガンになる。
医者との会話から、早くて数ヵ月、長くて2~3年だと判断する。
そして、仕事を片づけて適当な時に辞める、残された妻が困らないようにする、ということを考える。
このあたり、ものすごく冷静であるし、潔い。
石鹸を見ては「わが人生最後の石鹸になるのではないか」と思い、「来年のプロ野球はもう見ることができないはずだ」と考える。
そうこうしているうちに、「ぼつぼつ一番大事なことに決着を付けておかなければならないと思い至った。つまり、私自身、まもなく間違いなくやってくる自分の死をどのように納得するかということである」
そこで、妻を相手にこういうことを話す。
伊藤栄樹の家は浄土真宗の門徒である。
僕は、人は、死んだ瞬間、ただの物質、つまりホコリと同じようなものになってしまうのだと思うよ。死の向こうに死者の世界とか霊界といったようなものはないと思う。死んでしまったら、当人は、まったくのゴミみたいなものと化して、意識のようなものは残らないだろうよ。
このように霊魂や死後の世界を否定する。
それに対して妻は、「でも、あなたのような冷たい考え方は、いやよ。死んでからも、残された私たちを見守っていてくれなくては、いやです」と言うのだが、伊藤栄樹はあくまでも霊魂を否定する。
チベットでは、死体は抜け殻だからというので、死体を鳥に布施する、つまり食べさせるわけで、伊藤栄樹の考えが間違っているわけではない。
伊藤栄樹の考え、生き方に共感する人は多いと思う。
もっとも、遠藤周作が「我々に先だって死んだ愛する者と死によって再会できるという希望は、大きな悦びになる筈だ」と書いていることに対して、
という感想を述べているが、いくらなんでもさばさばしすぎではないか。
柳田国男じゃないが、子孫の行く末が気になるのが普通のように思う。
伊藤栄樹が死んだ人がゴミになったとは思っていない証拠に、元検事総長布施健が死んだ時、「元検事総長が亡くなられると、現職の検事総長が葬儀委員長を務める例となっている。誠心誠意務めさせてもらおう」と、病身をおして葬儀委員長の引き受けている。
そして葬儀について次のように書く。
霊魂を否定しているのにこんなことを言うなんて矛盾だが、自分の死と大切な人の死について受け止め方が違うわけで、そのあたり面白いと思う。
佐倉哲という人がHPに、増谷文雄の文章を引用し、そして死後の世界についてこういうことが書いている。
単純な事実は、わたしが死んで塵と帰しても世界は依然として存在し続けるであろうということです。しかも、わたしが今日いかに生きるかということは、その世界と無関係ではあり得ないのです。
「人類の運命や世界の成りゆき」のために「せめて石ころの一つでも貢献をしたい」と言う増谷文雄や佐倉哲と同じように、伊藤栄樹も自分が死んだ後のこの世のために今できることを精一杯しなければ、と伝えようとしているように思う。
「死んだらおしまいだから今を楽しく」ということは伊藤栄樹の考えからはかけ離れている。
誕生日を迎え、伊藤栄樹はこのように書いている。