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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

地震の活動期と磯田道史『歴史の愉しみ方』

2014年04月07日 | 日記

『武士の家計簿』の磯田道史氏は茨城大学に勤めていたが、東日本大震災を機に、歴史地震研究のために浜松市にある静岡文化芸術大学に移った。
古文書などの調査による地震・津波の被害の検証の一端が『歴史の愉しみ方』に書かれている。
一読してぞっとした。

江戸時代以来、50年か100年ごとに地震の活動期がきている。
一度、活動期に入ると、列島の地下構造の破壊がすすみ、数年から20年は地震・津波が続く。
慶長期(1596年~1615年)は地震活動期だった。
まず霧島山、次いで浅間山が噴火。
畿内で大地震が起き、伏見城が崩壊(1596年)。
5年後、岩木山と伊豆大島が噴火。
4年して東海から西日本で慶長地震が発生。、大津波が千葉から四国・九州を襲った(1605年)。
翌年、関東で大地震。
さらに5年後、会津で大地震が起きたあと、慶長三陸地震が発生、三陸・仙台平野から茨城・千葉まで巨大津波が襲った(1611年)。

マグニチュード9の巨大地震が起きたときは、長いときは20年ちかく地震・火山活動も活発になる可能性があるという。
明応大地震・大津波(1498年)では、鎌倉の大仏の大仏殿を押し流した可能性が高い。
宝永の東南海地震(1707年)では、大阪に6メートルの津波がきて、1774戸が流失した。
浜松付近の海岸なら、100~150年に一回、5~6メートル前後の津波がくるし、500年に一度の強い地震では津波の高さは平野部で15メートル近くになるので、海岸部では5階の屋上でも危ないし、新幹線の架線は5キロ、10キロと水没する可能性がある。

若狭湾の原発密集地域も津波と無関係ではない。
1586年の天正地震では丹後半島から福井県沿岸に大津波がきて、家が押し流され、多くの人が死んだらしい。

南海トラフがかなり正確な周期でもって動き、東海・南海地震をおこす。この周期的地震は、100年に一度は、大地震・大津波をおこし、500年に一度は、大々的に連動して超巨大地震をおこし、超巨大津波をもたらす。

ネットで調べたら、1943年の鳥取地震、1944年の東南海地震、1945年の三河地震、1946年の南海地震(いずれも死者は1000人以上)は南海トラフによって連動しておきたらしいので、これから30年ぐらいは大丈夫かもしれないと甘く考えたい。
だけど、大噴火がいつあってもおかしくないわけで、なんともいやはや。


ウソとデタラメ

2014年04月03日 | 日記

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』に、ハリー・フランクファートのこんな言葉が紹介されている。

ウソをつく人は真実を知っていながらわざと誤解させるように仕向ける。デタラメをいう人は真実などどうでもよく、ただ相手を感心させようとする。

前者は政治家、後者は「オオカミが来た」と嘘を言って、みんながあわてるのを見ておもしろがるオオカミ少年だと、ベン・ゴールドエイカーは言う。

正直な人間は、自分が正しいと信じることだけを話す。ウソつきの場合も同様に、自分が話していることが間違っているという自覚が欠かせない。ところがデタラメをいう人間にはこうした図式がいっさい当てはまらない。彼らは真実の側にいるのでもなければ虚偽の側にいるのでもない。そもそも正直者やウソつきと違って事実に目を向けてはいないのだ。

こういうことだと思う。
ウソには、ウソをついていることを自覚している場合と、無知や勘違いの場合がある。
ウソだと自覚しているウソには、意図的に誤解させようと仕向ける場合と、人を感心させたり面白がってつく場合がある。

たとえば、麻生太郎氏の「ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」という発言は、事実がどうなのか知らないが、人を感心させようとして言っただけという気がする。
町山智浩『教科書に載っていないUSA語録』に、ジョージ・W・ブッシュ元大統領(息子のほう)の愛読書は絵本の『はらぺこあおむし』だとある。
『はらぺこあおむし』の初版は1969年、そのころブッシュは23歳だった。
こんな人が大統領になったのかと驚くが、ブッシュさんと麻生太郎氏はなんだか似ている。

では安倍首相が、集団的自衛権が行使できるよう憲法の解釈を変更しようと考え、「最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける」と発言したことはどうか。
選挙にさえ勝てば、首相はいくらでも憲法を解釈できると、安倍首相は本気で信じているのだろうか。
憲法とは国民を縛るものではなく、国家を拘束することで権力の乱用を抑え、国民を守るためにある。
ところが、衆議院予算委員会で「憲法の性格をどう考えるか」と質問され、安倍首相は「国家権力を縛るものだという考え方があるが、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方だ」と答えている。
絶対君主制において王の権力を縛る憲法なんてあり得ないのに。
安倍首相が憲法について無知だということがこの発言によってばれてしまったと思う。

あるいは、東京五輪招致演説で福島の状況を「The situation is under control」(状況はコントロール下にある)と発言したこと。

「私が安全を保証します。状況はコントロールされています」
「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている」
「健康に対する問題はない。今までも、現在も、これからもない」

汚染水は完全にブロックされているし、健康に対する問題はこれからもないと安倍首相が本当に信じているのだったら、この夏は福島原発の近くで泳いでほしい。
こちらは、真実を知っていながら、誤解させるように仕向けているのだと思う。

籾井勝人NHK会長の就任記者会見での、慰安婦問題について「ドイツやフランスにはなかったと言えるのか。ヨーロッパはどこでもあった。なぜオランダには今も飾り窓があるのか」という発言。
何か意図があったわけではないし、こんなことを言ったらまずいと思いもしなかったんだと思う。
それに対して、NHK経営委員の百田尚樹氏の東京都知事選で田母神俊雄候補の応援演説での、東京裁判批判、南京大虐殺の否定などは、これは意図的な発言で、その意味ではオオカミ少年である。

静岡地裁は袴田事件の再審開始を決定し、袴田巌さんを釈放した。
決定では5点の衣類について「捏造と考えるのが合理的」「捏造をする必要と能力を有するのは警察をおいて他にない」と指摘している。
静岡県警幹部本当に証拠の捏造なんて可能なのか」
検察幹部「証拠が捏造であると指摘されたうえ、再審を認める決定が出たことは衝撃だ」
県警幹部や検察幹部は、味噌工場のタンクで見つかった5点の衣類は有罪の証拠だと、本当に思っているのだろうか。
事件から1年以上たち、公判段階に入ってから発見されたことがまずおかしいし、1年も味噌に漬かっていたのに衣類の色合いや血痕の色が鮮やかなのも変。
ズボンは袴田巌さんには小さすぎてはけないので、袴田巌さんは無罪の証拠だと喜んだぐらいである。
警察や検察の驚きは「真実を知っていながらわざと誤解させる」ウソだと思う。
悪名高い静岡県警の紅林麻雄警部や部下たちが、無実だと分かっているのに拷問や証拠の捏造をしたのは、誰が犯人かという真実などどうでもよかったのだろう。
死刑囚になった人もいるわけで、検察官や裁判官も含めて、彼らのしたことは一種の殺人である。

ある弁護士に「袴田さんや奥西さんの再審請求を棄却した裁判官は、本当に有罪だと信じているのか」と尋ねたら、「たぶんそうだ。裁判官は無罪の人が自白なんかしないと思っている」との答えだった。
裁判官は正直な人間ということか。

もう一つ書くと、
ヘイトスピーチについての書き込みを読むと、気分が悪くなる。
在日の人に「帰れ」「殺せ」とののしる人たちは、自分の言っていることが間違っていないと思っているのか、それとも面白がっているだけなのか、どちらにしろ私には理解できない。


企業のヒモ付き教育

2014年03月25日 | 日記

原発が3基ある福井県美浜町は小中一貫で原発教育推進していると聞き、ネットで調べてみましたら、「美浜町菅沼小学校エネエコ新聞」(2009年2月25日)を発見しました。

 

 「エコネコ新聞」にはどういうことか書かれているのでしょうか。

美浜町は、原子力発電所の立地地域という特色を活かした町づくりを進めています。「原子力と共生する町」を掲げ、エネルギー環境教育の推進を重点施策の一つとしています。
そこで美浜町では教育委員会が事務局となり、町内の各小・中学校から1名以上の推進委員を招集し、平成18年度に「美浜町エネルギー環境教育推進委員会」(以下推進委員会)を立ち上げました。推進委員会は、基本的認識として「自然と人間の共生する社会を構築し、みんなの住みよい地球にしていくために、児童・生徒一人ひとりが世界的な課題を自己の問題として考え、判断し、行動していくことが求められています。そのために町内の小中学校が一貫した系統性のもとに、環境教育の中核を担うエネルギー教育を展開し、そのことを通して、エネルギーと環境への『知的好奇心』及び『認識』を高め、実践的態度を培うこと」を掲げ、文部科学省からの支援も受けながら活動を展開することにしました。

3ページに「大切な原子力発電 5・6年生の学習成果から」とあり、4人の子供が書いています。


 

 6年生の作文から。

もしも原子力発電所に事故が起こったら不安です。でも、今の時代には電気はかかせません。また、電気をつくるエネルギーとして原子力発電は日本の電力の3分の1をまかなっているのでとても重要です。
これからは、原子力発電所で使い終わった燃料をリサイクルして、再び原子力発電所の燃料として使用できるように高速増殖炉で研究しているそうです。いつまでも安全で地球に優しいエネルギーであってほしいです。

この「美浜町菅沼小学校エネエコ新聞」は2009年発行なので、福島原発事故の起きる前です。
現在はどうなのか、福井新聞にこんな記事がありました。

美浜町、エネルギー環境教育[6]将来への行動力養う(福井新聞2011年10月19日)
夏休みの美浜中に、町内の小中学校教員約70人が集まっていた。壇上に立った美浜町の大同保教育長は「東日本大震災はエネルギー環境教育を再考するきっかけを与えてくれた」とあいさつした。(略)
「原発立地地域の住民として、原子力についてきちんと知る必要がある」と山口治太郎町長。2005年に定めた町総合振興計画で、「原子力との共生」を目指した人材育成を掲げた。
この理念の下、翌年度から小中一貫のエネルギー環境教育が始まった。9年間で火力や水力、原子力などさまざまなエネルギーの仕組みや特徴、資源の埋蔵量、地球温暖化などの環境問題を、体験を交えて学ぶ。
「原子力を知る」という思いが始まりだったが、「『原子力を推進する』教育ではない」と山口町長は言う。目的は、美浜町や日本、地球の将来を考え、行動する力を養うことだ。(略)。

「『原子力を推進する』教育ではない」そうですが、はたしてどうなのでしょうか。

「美浜町菅沼小学校エネエコ新聞」の最終ページの下段にはこのように書かれてあります。

  なんなんだ、これは!と思いましたね。
「エコネコ新聞」は菅沼小学校が作ったのかと思ってたら、なんと電力会社のヒモ付きで、全国各地の学校で作られています。

エネルギー環境教育推進委員会のメンバーは各小中学校の教員や町教委、そしてサポート委員として関西電力と日本原子力研究開発機構などが参加しているそうです。
おまけに、関西電力から講師派遣を受けたり、原発を見学したりしている。
一種の洗脳みたいなものですが、マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』によると、公立学校では企業がスポンサーとなって、その企業に都合のよいことを教えているそうです。

1990年代に入り、企業が学校にかかわる度合いは劇的に増した。企業は無料のビデオ、ポスター、「学習キット」を山のように教師に提供した。こうした提供品は、企業イメージを向上させ、子供たちの心に商標名を刻み込もうとの意図でつくられていた。企業はそれらを「協賛教材」と称した。生徒はハーシーチョコレートやマクドナルドが提供する教材で栄養について学んだり、エクソンが制作したビデオでアラスカの石油流出の影響について勉強したりした。プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)が提供した環境学習カリキュラムでは、紙おむつがなぜ地球にやさしいかが説明された。

 

2009年には、世界最大の児童書出版社であるスコラスティックが、エネルギー産業に関する無料教材を、小学四年生を教える6万6000人の教師に配布した。「エネルギー合衆国」と題されたこのカリキュラムに出資したのはアメリカ石炭財団だった。業界をスポンサーとするこの授業プランでは、石炭の利点が強調される一方で、炭鉱事故、有毒廃棄物、温室効果ガスをはじめとする環境への影響については触れられていない。

美浜町のエネルギー環境教育推進委員会は、省エネと地球温暖化を強調しているようですが、石炭財団が金を出していたら、違った教育をしていたことでしょう。

児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』によると、脳死を人の死と認める法律ができてから、厚労省の関連予算を使った普及啓発の一環で、子どもたちに向けた「いのちの教育」が広がっています。
「いのちの贈りもの あなたの意思で救える命」というパンフレットが全国の中学生に配られ、「道徳教育や総合的な学習の時間などで臓器移植を題材とした授業が行われるよう」、教職員を対象に「いのちの教育セミナー」が3回開催されています。
「いのちの教育」を受けた子供たちはドナーカードに喜んで署名するようになるのかもしれません。
教育が金で買われている現状をこそ憂慮すべきだと思います。


大田俊寛『グノーシス主義の思想』2

2014年03月11日 | 日記

大田俊寛『グノーシス主義の思想』の副題である「〈父〉というフィクション」とは。
古代ローマにおいては乳幼児死亡率がきわめて高く、子供が5歳になるまでにほぼ半数が死亡していたと推定されるそうだ。

ちなみに、ウェンディ・ムーア『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』によると、18世紀半ばのイングランドの平均寿命は37歳。
子供の死亡率がもっとも高かったロンドンでは、1750年から1769年の間に生まれた赤ん坊の約半分が2歳の誕生日前に死んで、古代ローマよりも乳児の死亡率が高いことになる。

それはともかく、1人の女性が5人以上の子供を産まなければ、その年の人口は減少に転じるので、ある家族から別の家族に子供を移す養子制度の必要性は、古代ローマでは現代よりもはるかに高かった。
このような状況では、親子関係が生物学的事実に縛られていては、持続的な共同体を形成できない。
そのために案出されたのが、母よりも父を重視するという古代的な家族宗教の制度だったと、大田俊寛氏は言う。

それでは「父」とは、一体何だろうか。端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。父と子の関係は、「お前は私の息子(娘)である」という儀礼的宣誓、すなわち、パフォーマティブな言語行為によって創設される。

ちょっとおもしろいでしょ。

プラトン主義とグノーシス主義の体系は、その大枠において非常に似通ったものである。
ソクラテスの刑死はプラトンの世界観に大きな影響を与えた。

古代における従来の観念であれば、愛国者ソクラテスは、まさに「父の土地=祖国」であるアテネに埋葬され、彼の魂はその墓に眠るということになるはずである。しかし、誰よりもアテネを愛して行動しながら、それゆえにこそアテネの民衆によって殺害されたというソクラテス刑死の矛盾は、プラトンにソクラテスの魂が向かう場所、「魂の真の故郷」を探究させることになる。

プラトンは造物主を「万有の造り主であり父である存在」と呼んでいる。
造物主は普遍的で超越的な「新しい父」である。
プラトンのこの理論はユダヤ教哲学者や、キリスト教教父、グノーシス主義に深い影響を与えたそうです。

キリスト教以前からグノーシス主義はあったのか、それともキリスト教以後なのか。
つまり、グノーシス主義はキリスト教にとって異教なのか、異端なのか。
前キリスト教グノーシス(グノーシス主義はキリスト教に対して時代的に先行する宗教思想)という説と、非キリスト教グノーシス(グノーシス主義はキリスト教とは無関係な環境でも発生し、独自の活動を展開)という説があるが、大田俊寛氏はどちらもとらない。

グノーシス主義がその思想的輪郭を取り始めたのは、二世紀の前半から半ば頃であり、しかもそのような初期の段階においては、大半の資料を何らかの仕方で自らを「キリスト教」として位置づけている。(略)グノーシス主義は、キリスト教ときわめて密接した思想運動として成立したのである。
その後にグノーシス主義は、キリスト教の枠内においては、主流派の地位をめぐる抗争に敗れて徐々にマイノリティ化し、「異端」として扱われるようになる一方で、その他の宗教思想のなかへと広く拡散してゆく。


もう一つ大田俊寛氏の考えを紹介すると、グノーシス主義に対するアプローチはユング的なものではなく、精神分析こそ有効だということです。
どうしてかという説明は私にはちんぷんかんぷんでした。


共依存チェックリスト

2013年11月29日 | 日記

ギリシャの伝説にプロクルステスという強盗の話がある。
プロクルステスは「引き延ばす男」という意味の名前で、旅人を捕えては寝台に寝かせ、身長がベッドより短いと重しをつけて引き延ばし、長いとベッドからはみ出た足を切り落とした。
そこから、杓子定規、容赦ない強制という意味の「プロクルステスの寝台」という言葉が生まれた。

我々だってプロクルステスと同じことをしているわけで、人間の足は左右の大きさが違うにもかかわらず、大きすぎたり、小さすぎたりする靴をはいて靴ずれになる。
我々は人をも型にはめようとする。
子育てがそうですね。

加藤力『家族を依存症から救う本』に共依存とは何か書かれてあり、共依存とは「プロクルステスの寝台」じゃなかろうかと思った。

加藤力氏の説明をご紹介します。

共依存の人は、自分を必要とする他人の存在なしには、自分がかけがえのない大切な存在だと確信できないので、誰かを支えたり世話を焼いたりすることで、人から必要とされることを求める。

そして、自分と他人の境界線があいまいなため、他者の領域に侵入し、他人の考え方や行動に干渉したり、本来その人が果たすべき責任や課題を引き受けたりする。
周りに問題がなくなったり、世話焼きの対象がいなくなったりすると、空虚に感じ、自分は何をしたいのか、どんな人生を望んでいるのかがわからず、抑うつ的な気分や不安が高まる。

ということは、お節介焼きや仕切りたがりといったコントローラーは共依存の傾向があるということか。

私もその一人ですが。
共依存傾向のセルフ・チェックを『家族を依存症から救う本』から無断引用。

1 私は自分のことは二の次にして、家族や親しい人の世話を焼く。
2 私は家族や親しい人の考え方や振る舞いに干渉し、それを正そうとすることが多い。
3 私の家族や親しい人は、事件に巻き込まれたり、問題を起こしたり、病気を繰り返したりすることが多いので、私はいつも忙しい。
4 私はすぐに片付けなければならない問題がないとき、退屈でたまらなくなったり、憂うつになったりする。
5 私は誰かに頼られていないと、自分が役立たずのように感じて憂うつになる。
6 私の家庭には病気などの問題を抱えた人がいるが、どこの家もこんなものだろうと思うので、深刻に悩んだりしない。
7 人に頼まれたり、誘われたりしたとき、私ははっきりと断れない。
8 私はときどき他人の問題を自分のことのように感じる。
9 私は世間の動きや季節の移り変わりに無頓着である。
10 私は自分の体の不調に気づかないで頑張りすぎてしまうことがよくある。
11 私はいつも肩こり、頭痛、息苦しさなどに悩まされている。
12 私は自分の悲しみや怒りをその場で表現するのが怖い。
13 私は人に叱られ、怒鳴られると,すくんでしまい、自分の意見が言えなくなる。
14 私は自分の恨みや愚痴を聞いてくれる人をいつも求めている。
15 私はひとりになったとき、寂しくてたまらない。
16 私は他人の期待にそえなくて、申し訳ないと感じることが多い。
17 私は自分の本音を他人に知られるのが怖い。
18 私はときどき自分を不器用で,愚かで、生きるに値しないように感じる。
19 私は今、自分に必要なものや、自分が本当に望んでいることがはっきりわからない。
20 私は自分の要求を人にはっきり伝えることができない。

まったくその通り→2点

その傾向があるかもしれない→1点
まったく当てはまらない→0点
合計して20点以上になった場合は、共依存の傾向が強いと判断していいそうです。

相手に対する過大な期待や過剰なコントロールは、対人関係に緊張をもたらすのでご用心。


日本語は難しいか

2013年11月24日 | 日記

日本語ペラペラのアメリカ人と話していて、英語より日本語のほうが難しいと言うので、高校のころ英語がまったくダメだった私は賛成できなかった。
そのアメリカ人は4歳の時に新聞のスポーツ欄を読んでいたという。
日本語は平仮名と漢字が混じっていて、両方を覚えないといけないから大変だと言われ、なるほどと思った。

そういえば、全盲の人が、点字だけでなく漢字の読みも覚えないといけないと言われたことがある。
漢字の読みにしてもいくつもあり、文章の流れでどう読むか判断するわけだが、たとえば「臭い臭い」を「くさいにおい」とは日本人でも読めないかもしれない。
「いつも学校に通っている道を通っている」は、最初の「通って」は「かよって」、後のは「とおって」。

辛い(つらい・からい)

覆った(おおった・くつがえった)
そっちの方(かた・ほう)
行った(いった・おこなった)
などは、読みによって意味が全然違ってくる。

抱く(だく・いだく)

描く(えがく・かく)
酷い(ひどい・むごい)
止める(とめる・やめる)
違わぬ(たがわぬ・ちがわぬ)
塗れた(まみれた・ぬれた)
注ぐ(そそぐ・つぐ)
堪える(たえる・こたえる・こらえる)
下に(したに・もとに)
出そう(でそう・だそう)
入れる(いれる・はいれる)
疑った(うたがった・うたぐった)
吐く(はく・つく)
大事(だいじ・おおごと)
今日(きょう・こんにち)
外面(がいめん・そとづら)
など、意味は似かよっているだけに、かえってどう読むのか頭を悩ます。

平仮名にしたら読み間違いがないかというと、そうでもない。

なくなる(無くなる・亡くなる)
とまる(泊まる・止まる・停まる)
かえす(返す・帰す・孵す)
かえる(帰る・変える・代える・買える)
きる(着る・斬る・切る・伐る)
つく(着く・付く・突く)

平仮名だと、「私ははいれなかった」のように読みづらくなることもある。

「お父さんはなくなっていませんね」は二つの読み方がある。
たしかに難しいものだと納得しました。


愛と神について

2013年11月16日 | 日記

福永武彦『草の花』に、恋人同士のこんな会話がある。

「ねえ汐見さん、本当の愛というものは、神の愛を通してしかないのよ」
「僕はそうは思わない。愛するということは最も人間的なことだよ。神を知らない人間だって、愛することは出来るんだよ」
「でも、神を知っていれば、愛することがもっと悦ばしい、美しいものになるのよ」


これを読み、ウラジミール・ナボコフ『ロシア文学講義』に引用されているアントーノフ『大いなる心』(1957年)を思い出した。

オリガは沈黙した。
「ああ」とヴラジーミルは叫んだ。「こんなに愛しているのに、どうしてきみは愛してくれないんだ」
「私は国を愛してるもの」とオリガは言った。
「それはぼくだって同じだ」ヴラジーミルは力をこめて言った。
「それに、もっと強く愛してるものがあるの、私には」青年の抱擁から身をふりほどいて、オリガは言葉をつづけた。
「というと、何だろう」青年はふしぎそうに訊ねた。
オリガは澄んだ青い目でヴラジーミルを見つめ、即座に答えた。「党よ」

このやりとりには思わず笑ってしまうでしょ。
アントーノフ『大いなる心』という小説はナボコフがでっち上げたんじゃないかという気がします。
私が大学のころ、共産主義はキリスト教の裏返しだと聞き、意味がわからないくせに納得したもんです。
「神」を何か別のものに置き換えることは可能なわけで、共産主義も鰯の頭も信心になるわけです。

(追記)
生き仏や生き神、たとえば天皇、法主、教祖などへの信者の愛情は切ないものがあります。


「日常の中での死」と「尊厳死という名の下での死」

2013年10月20日 | 日記

某氏に、「「日常の中での死」と「尊厳死という名の下での死」~尊厳死法制化の動きが意図するもの~」という川口有美子氏へのインタビュー記事(「SOGI」№135)のコピーをもらった。

川口有美子氏はALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹った母親を12年間介護した。
かつては安楽死の法整備が必要だと考えていた川口有美子氏だが、現在は尊厳死法制化に反対している。
なぜかというと、安楽死を望む人の多くが、病気の末期の人、貧しい人、障害を持っている人、高齢者、医療の受けられない人で、社会から見捨てられるということだとわかった途端に、「これを法律にしてはいけない」と思ったという。

私は、誰からの押しつけでもなく、自殺でもなく、治療を断ることができるという条件のもとでの本人の意思であれば、「医療を受けたくない」「ここでもういいから、活かせてほしい」という選択は、ありだと思います。
でも、尊厳死法制化はそうしたこととはまったく違う。これは経済の話であり、政治的に弱い人の口べらしをしようというものです。尊厳死を法制化することによって、長患いの人を少なくできます。長患いの人、障害者は、介護とか医療とかに長期にわたってお金がかかりますから、そういう人たちが早く亡くなれば、医療や年金の制度が助かる。
それと、長患いの人の家族に対して、扶養義務が強化される方向にあります。家族に負担させて、家族が「面倒を見きれません。本人は自ら死にたいと言っています」と言わせるようにしむけるのです。家族が「扶養できない」となったときでも、尊厳死できるように。
ALSが、かつて、ずっとそうでした。「家族が24時間介護するなら、呼吸器をつけてあげるよ」と言われて、「わかりました。家族が責任をもって面倒を見ます」と言ったとき、ようやく治療をしてもらえて、それで20年ぐらい生きるんです。でも、それでは家族はボロボロになってしまう。
それから、尊厳死の法制化により、家族が介護をギブアップしたとき、本人は、「もう生きていたくない」と言わざるを得ない状況におかれます。そうやって、「本人が治療をしないと、ここに書いているんだから」「自己決定だからいい」ということで、弱い人は責任を押しつけられ、治療をしてもらいないで、尊厳死させられてしまう恐れもある。

尊厳死とは、個人の尊厳に関わる問題だと思われがちだが、現実には経済問題なのである。

延命治療を望まないと言う人は少なくなく、私がその理由を尋ねると多くの人は「まわりに迷惑をかけたくないから」と答える。
人に迷惑をかけずに生きている人なんていないのに、迷惑をかけない生き方が倫理となってしまい、難病の人や障害者が生きづらくなっているわけです。

国会議員はどう考えているのか。

尊厳死の制度化も、「身体を管だらけにして苦しめずに、安らかに看取ることができる制度を整えること」といったよいイメージでとらえている人が多いと思います。でも、ケースバイケース。高齢者だって、個別性重視で必要な薬は飲ませなければならないんです。

与えられたイメージだけ尊厳死を人間らしい死に方だと誤解しているのは国会議員も同じなわけである。

法制化の意図(経済の論理での切り捨て)を自覚している国会議員もいるそうだ。

そういう人は優性思想の持ち主でしょう。「働けない人は早く死んでもらいましょう」と公言している国会議員もいます。今、人類は試されていると思いませんか。

私の父は認知症だが、損か得かの経済の論理で「早く死んでもらいましょう」ということになったら困る。
介護保険制度が見直されるそうだが、改悪はしないでほしいと、ほんと思います。


優性思想は人間の本能であり、同時にそれに対抗することも本能だと、川口有美子氏は言う。

たとえば、自分の命を捨てて他者を助けるような合理的には見えないようなことを人はするのですが、それは生物の本能ではなくて、人間がもっている本性だと思いますよ。重い障害をもった人を大事にしたり、食べられない人には食べさせてあげるということを人間はずっとしてきているんですね。そういう弱い人たちがいることによって、ギスギスしないやさしい社会になり、目には見えないがメリットがあることを人間は本能的にわかっている。
重度障害者が産まれないようにしたり、早く死ねるようにしたりして、優秀な人ばかりの社会になったらどういうことになるか。たぶんもっと早く人類は滅ぶのだろうと思います。でも、社会の半分ぐらいが障害者で彼らが生きやすい社会だったら、人類は生き残れるんじゃないかと。
私、考えたんです。どうして遺伝性の病気を引き起こす遺伝子が現代まで生き続けてきたのかなと。脈々と存在しているわけでしょ。それは病気をもっている人や働けない人も必要だからじゃないかなって。そういう弱い人は一定の安定を社会に与え、文明を育てて長続きさせ、繁栄させる一つのキーになっている。


政治家やマスコミの口車に乗って間違った認識を持ってしまうことはよくある。
原発問題や治安の悪化・厳罰化などがそうだが、尊厳死もその一つだと再認識しました。


「宗教者の使命―自死をめぐって―」

2013年10月15日 | 日記

某氏から「宗教者の使命―自死をめぐって―」2012シンポジウム記録『預けられたいのちを大切に』という冊子をいただいた。
パネリストは神道、仏教(曹洞宗、浄土真宗)、カトリックの宗教者の方たち。

それぞれの宗教では、自死をどう考えているのか?
神道

神道では自殺・自死を「悪である」と考える。

浄土真宗

いろいろな仏教の経典とか浄土真宗の聖典にあたってみましたが、直接的に自殺を否定するような部分はあまり見つけることができませんでした。(略)仏教の場合は、これから「自殺はいけないのだ」ということをもっと強く言っていく必要があると思いました。

カトリック

本当の意味での自死とは罪なのだ、赦されないことなんですよ、これを明確に打ち出しています。(略)自死でなくなったかたの魂の救い、永遠のすくいはどうなるのだろうか、いいことではないことをした人は神様が約束してくださっている救いに与ることはできないのか。それに対して、自死者の永遠の救いについて決して絶望してはならない、希望を持ちなさい、――これが教会の姿勢です。(略)神はご自分だけが知っておられる方法によって、救いに必要な悔い改めの機会を与えることもできるからです。たとえば入水でも、あるいは首つりでも、実際に行為に移ってから、息を引き取るまで、何秒か、零点何秒か、という時間はあるはずです。その中で、神様のはからいの中で、悔い改めの機会が与えられることも考えられるだろう、神のいつくしみとはからいにわたしたちは希望を置きたい、ということです。

自死を防止するためには、自ら命を絶ってはいけないと、自死を否定すべきなのだろう。
だからといって、自死は「悪である」とか「罪なのだ」と説いていては、自死遺族にとって耐え難いのではないかと思う。
だから、「与えられることも考えられる」とか「希望」という言い方をしているわけだろうが、そんな曖昧な言い方ではなくて、許容というか、救いを明確に説くべきだと思う。

それともう一つ気になったこと。
神道

「死にたい」と言う人はたいてい自死することはなく、大丈夫でしたね。「死にたい」と言ってくれれば助かると思います。

浄土真宗

相談に来られたかたが実際に自死をされてしまうということはありません。やはり本当に自死するかたは言わずにされる場合が多い。

「死にたい」と言っている人は死なないものだ、というのは俗説だと思う。
太宰治にしても、何度も心中未遂をして、そうして命を絶っている。
未遂をくり返して亡くなる人は少なくない。

ウツ病の場合は波があるから、ちょっと元気が出たので相談したけれども、またウツになって死のうとする人もいると思う。
正直なところ、気の抜けた話し合いだというのが感想です。


大本営発表

2013年09月26日 | 日記

「大本営発表」という言葉をネットの辞書で調べたらこんな意味でした。
1 太平洋戦争中、大本営が国民に向けて発表した、戦況に関する情報。末期には、戦況が悪化しているのにもかかわらず、優勢であるかのような虚偽の発表をくり返した。
2 転じて、政府や有力者などが発表する、自分に都合がよいばかりで信用できない情報。
ということで、大本営発表は「信頼できない公式発表」「虚偽の発表」の代名詞となっている。

「自分に都合がよいばかりで信用できない情報」について。
木村隆『演劇人の本音』で澤地久枝氏は、ミッドウェー海戦のでっち上げについて語っている。

木村「(ミッドウェー海戦の)敗因の定説となったのが、〝運命の5分間〟。艦船攻撃用の魚雷を陸上攻撃用の兵装へ、さらに再び艦船用へと積み替えたためにあと5分間時間が足らずに米軍機の来襲を受けて敗れたというもの。ところが、澤地さんはこの〝公刊戦史〟の虚構を覆した。それは作戦ミスを糊塗するためのでっち上げだった」
澤地「はい、あれは大嘘よ、真っ赤な嘘です。(略)で、旧海軍の軍人さんに聞いたのです。みんなが口をそろえたように「あなたの思い違いだ」って」
木村「ぐるみでウソついてた?」
澤地「知っててウソをついた人と、定説だから疑問を持たずに疑わなかった人と…。私は自分の頭が壊れたのかと思った。(略)もう旧海軍軍人たちからは袋だたきに遭いましたね。海軍出身の作家からも、ある日、電車に乗ってひょいと上を見たら「澤地久枝、誣告呼ばわりは許さない」という大きなタイトルの車内吊りがあってびっくりした(笑)。つまり5分間説にしてきれいにミッドウェー海戦をおさめてきたのに、とんでもない素人の女が、大事な定説に異議申し立てるのはけしからんと旧軍人さんたちからは袋だたきでした」
木村「恐ろしいのは戦史や歴史の都合のいい歪曲、捏造ですね」
澤地「そうです。真実を知る軍人たちは、隠蔽してお墓の下に持っていこうとしている。一回オープンにした日記も全部封印しちゃう」

「自分に都合がよいばかり」の情報が、事実だとされてしまうわけである。
保阪正康氏は『仮説の昭和史』で、「わたしたちはこの「大本営発表」に含まれている構図は今の問題として存在することを知っておくべきだ。東京電力の福島第一原子力発電所の事故に伴う情報開示の操作は、大本営発表がかかえていた〝原罪〟と同根である。
国民の生命、財産を守るよりも、「官」と「公」の面子を守るために事実と虚偽を混ぜ合わせ、あるいは事態をとりつくろうための言い換え、そして都合がわるくなっての沈黙、という流れが垣間見えている」と言う。

IOC総会での安倍首相の「汚染水は完全にブロックされている」という発言について、毎日新聞の「月刊・時論フォーラム:9月・座談会 2020年東京五輪」(9月26日)には、こんなヨイショが。
森健さん 大きかったですね。世界が注目しているあの席で「原発事故の影響が、この先どうなるのか分かりません」と一言でも触れてしまったら招致はダメだったでしょう。(略)
吉崎達彦さん 国内に目を向ければ、日本人の発想として「お客さんが来る時には家の中をきれいに」しなければならない。五輪で世界中からたくさんの人が来ます。それに備えて、原発事故関連で今まで見て見ぬふりをしてきたことを、何が何でも片付けなければならなくなりました。7年後と期限が切られた意味も大きい。
森健さん 安倍首相は原発事故について「健康問題については、今までも現在もそして将来も全く問題ない」とも断言しました。「将来まで約束できるだけの根拠があるのか」といった批判もありますが、あの場での言葉は招致を勝ち取るための言葉であり「やらなくてはいけない」という決意表明として聞くべき言葉かなと思います。
秋山信将さん そうですね。政府に説明責任があるのはもちろんですが、国民やメディアも批判するばかりでなく「言ったからにはしっかりやってくれ」という姿勢、政府に約束を履行させる責任があると思います。

保阪正康氏は「戦勝を執拗に伝える、表現を入れ替える、虚言を弄する、沈黙に逃げ込む――これが「大本営発表」の方程式だ」と書いている。
東京に決まったんだから、嘘だろうが何だろうが結果オーライというのも大本営発表じゃなかろうか。

この三人の方には「ひとは良心をなにかに捧げてしまうと、みずからの誤りを認めようとしなくなる」
(小河原誠「現代思想の冒険者たち14 ポパー」)という言葉を差し上げましょう。

もう一例をご紹介。
全国柔道事故被害者の会の小林泰彦氏の息子さんは、中学3年の時に柔道部の練習中に顧問との乱取りで投げられ、急性硬膜下血腫を発症、重篤な高次脳機能障害者となった。

顧問は不起訴。
内田良『柔道事故』によると、検察は「柔道場で柔道着を着て柔道技を使えば、どこまでが柔道でどこからが犯罪なのか、線を引くのは難しい」と説明したという。
民事訴訟では原告が勝訴している。

小林泰彦氏は息子さんの事故に際して、学校にありもしないことを捏造されたそうだ。
「経過概要(学校のとった措置状況)」には、次のような記載があった。
顧問教諭をはじめ、養護教諭、近くにいた教諭らが応急処置をするとともに、救急車を要請してA病院救命センターに搬送。同時に保護者への連絡を行った。尚、柔道部の練習と傷病との間には直接の関係がないと、保護者から聞いている」

小林泰彦氏は息子さんの傷病が柔道部の練習とは無関係だと考えてもいなかったし、そう主張してもいない。
学校側が文言を捏造したのである。
「氏が学校側に情報の開示を求めなければ、急性硬膜下血腫という事態は、柔道とは関係のない不慮の何かによって生じたことになっていた。柔道の問題も、顧問教諭の指導の問題も検討されることなく処理されていたのである」
内田良氏は「出来事を隠蔽するどころか、捏造さえしてしまう。これが追い込まれた組織がときにとってしまう反応なのである」と言う。
学校の報告はまさに「大本営発表」である。
柔道事故だけでなく、原発訴訟も、イジメ裁判にしても、被害者が民事裁判を起こすのは、多くの場合、関係者のこうした不誠実な対応(大本営発表)のためである。