『武士の家計簿』の磯田道史氏は茨城大学に勤めていたが、東日本大震災を機に、歴史地震研究のために浜松市にある静岡文化芸術大学に移った。
古文書などの調査による地震・津波の被害の検証の一端が『歴史の愉しみ方』に書かれている。
一読してぞっとした。
江戸時代以来、50年か100年ごとに地震の活動期がきている。
一度、活動期に入ると、列島の地下構造の破壊がすすみ、数年から20年は地震・津波が続く。
慶長期(1596年~1615年)は地震活動期だった。
まず霧島山、次いで浅間山が噴火。
畿内で大地震が起き、伏見城が崩壊(1596年)。
5年後、岩木山と伊豆大島が噴火。
4年して東海から西日本で慶長地震が発生。、大津波が千葉から四国・九州を襲った(1605年)。
翌年、関東で大地震。
さらに5年後、会津で大地震が起きたあと、慶長三陸地震が発生、三陸・仙台平野から茨城・千葉まで巨大津波が襲った(1611年)。
マグニチュード9の巨大地震が起きたときは、長いときは20年ちかく地震・火山活動も活発になる可能性があるという。
明応大地震・大津波(1498年)では、鎌倉の大仏の大仏殿を押し流した可能性が高い。
宝永の東南海地震(1707年)では、大阪に6メートルの津波がきて、1774戸が流失した。
浜松付近の海岸なら、100~150年に一回、5~6メートル前後の津波がくるし、500年に一度の強い地震では津波の高さは平野部で15メートル近くになるので、海岸部では5階の屋上でも危ないし、新幹線の架線は5キロ、10キロと水没する可能性がある。
若狭湾の原発密集地域も津波と無関係ではない。
1586年の天正地震では丹後半島から福井県沿岸に大津波がきて、家が押し流され、多くの人が死んだらしい。
ネットで調べたら、1943年の鳥取地震、1944年の東南海地震、1945年の三河地震、1946年の南海地震(いずれも死者は1000人以上)は南海トラフによって連動しておきたらしいので、これから30年ぐらいは大丈夫かもしれないと甘く考えたい。
だけど、大噴火がいつあってもおかしくないわけで、なんともいやはや。
いつもの「震災を忘れないようにしよう」という番組だったので、ありきたりのことしか言わないだろうと思ってたら。
雲仙の普賢岳噴火の被害を受けた島原のNPOの代表の年配のかた。被災地を励まそうと、なんどか東北地方をおとずれてるという話のあと。イタリアに旅行してナポリだったか、火山のそばの街でタクシーに乗った。運転手さんに「どうしてこんな危険なところに住んでるんですか?」と問うと「大自然というのはときに恐ろしい牙をむくけど、それだからこそ豊かな恵みを俺たちにも与えてくれて、仕事があるんだよ」と。そこで聞いたことのおなじようなことが、ここにも書かれてる。応えてるこのかただったのかな? http://www.kankyoshimin.org/modules/blog/index.php?content_id=350
とかく、「海がにくい」などという被災者の声など原発報道も含め、とかく「被害者」の側面を強調するのがマスコミさんや活動家の常套句だけど、東北のひとたちも海からの恩恵を不断に受けて生きてる。たまに、海に住む生き物たちにお布施することがあってもいいのではないかと私は思う。
「家」が存在の根っこなんですかね。
運転手さんや雲仙の方の言葉は名言ですが、自分の中での後付けの説明という気もします。
私が故郷を喪失したことがないから、故郷のありがたさを分からないだけでしょうか。
家というか、家郷なのですかね。戦争で亡くなられた兵士の遺骨を掘って、日本にもどすという運動も盛んだったですね。
カントリロ~~ズ テイクミホ~~ム トゥザプレ~~ス アビロ~~ン♪
インドでは川に流しますし、チベットでは鳥に布施として与えます。
しかし、昔は河原や鳥辺野などに死体を捨てていたわけで、古来から遺骨を大事にしてたわけでもないのでしょうか。