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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

犠牲の平等

2016年04月10日 | 日記

ネイサン・イングランダー『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』は短編集で、表題作は、フロリダに住む夫婦がイスラエルから来たユダヤ教敬虔派の友人夫婦とマリファナを吸って、あれこれおしゃべりする話。
「ユダヤ教敬虔派」をネットで調べると「ハシディズム」とあり、戒律を守って厳格な生活を送る人たちだそうです。

妻「あなたたち、コーシャじゃないキャンディーの缶に入っていたマリファナを吸うなんてこと、ほんとに許されるの?」
僕「彼女、フェイスブックもやってるんだろ。それも許されないことだ」
「コーシャ」とはユダヤ教で定める食事に関する規定で、魚でも食べてはいけない種類があるし、牛も特殊なのみ可、豚や兎はダメ。
加工食品は製造過程で混ざり物や身体に安全でないものなどが入らないように管理・加工されたものだけが認められるとのこと。

敬虔派の信者は、室内でも帽子をかぶり、黒い服装で、顎鬚を伸ばし、こめかみに髪を垂らしているので、外見ですぐわかります。
マーク(友達・夫)「外の世界にいて敬虔派であることは、恐ろしく面倒なんだ。無礼なことを言われるよりひどいのが、一般市民による絶えざる取り締まりなんだ。どこへ行っても僕たちはじろじろ様子を窺われてるんだ」
ショーシャナ(友達・女)「オシッコしたくてマクドナルドに寄ったの。そしたら野球帽かぶった男が、入ろうとするこの人に近づいてきて言ったの。『あんた、そこに入るのは許されてるのかい?』って」

おもしろいのが、マークも同じことをするということ。
マーク「ついやりたくなるんだよね。エルサレムにはモルモン教徒がいるんだ。うちに食事に来てコーラなんか注いでると、僕も同じく宗教警察みたいなことをやっちゃうんだ。言っちゃうんだよね、『おいジェブ、君はそんなの飲んでいいのかい? コーラとか飲んでいいわけ?(モルモン教ではカフェイン入りの飲料は禁止)』ってさ。毎回言っちゃうんだ」

そして、マークはこう言います。

人間って、自分の規則を破るのは気にしないのに、他人の規則破りにはえらく厳しいんだよな。


たしかにそのとおり。
私たちは、ある種の人たち(大学教授や芸能人、公務員など)に道徳的完璧さを求め、不倫にはやたら厳しく、週刊誌は騒ぎ立てます。
ましてやスカートの盗撮とかだと、ネットでは住所や顔写真まで公開されるかもしれません。
どうしてそこまでムキになって責めるのかと思います。

高田里惠子『学歴・階級・軍隊』にこんな指摘があります。
日本帝国陸軍ではイギリスやプロシアのように、出身によって昇進が決まるということはなかった。
徴兵制の公平と軍隊内の平等を喧伝し、貧民や農民の味方を標榜したやり方を、加藤陽子氏は、「不幸の均霑」と呼ぶ。
「均霑」とは、雨の恵みのように、みなが均等に潤いを得るという意味。
佐藤忠男氏は「犠牲はなるべく公平でなければならない」と言う。
みんなが平等に不幸になることだけが、みんなを満足させられる。

日本兵が捕虜になるより自決を選んだのは、自分だけ生き残って捕虜になり、「犠牲の平等」を踏みにじれば、故郷の家族が近隣の人々から迫害を受け、村八分になるという恐怖がそうさせた。

小隊長の青木少尉「お前たちの中で、もしも『陸軍刑法』に抵触するような犯罪や事故を起こして、軍法会議にかけられるような者がでたら、わが中隊の不名誉であるばかりでなく、お前たちの武運長久を祈ってお前たちを戦地に送りだしてくれた、お前たちの村の村長や在郷軍人会長をはじめ、お前たちの父母、兄弟、親戚一同が世間に対して顔向けできなくなるのだ」と訓示した。(井上俊夫『初めて人を殺す』)


戦争によって、今まで特権を享受してきた層も平等に不幸になっていったように見えた。
特権階級であった学生も、徴集延期の特権が廃止される。
リベラルなインテリ層は戦争末期に下士官タイプの人間(近所のおじさん、国民学校の上級生)にいじめられる。

娑婆では学歴も無し地位も無しの下積みの人間であった者でも、古参兵になったとたんに威張りだして、「良家の坊ちゃん」や大学出の新米兵士に暴力をふるって、長年抱いてきた劣等感を解消しようとした。たしかにこれは軍隊ならではの愉楽の一つに違いない。(井上俊夫『初めて人を殺す』)


誰もが平等に兵営にたたきこまれるという「犠牲の平等」の実現は、社会の下積みの者たちにとっては期待であった。

いじめ側の心理として、内藤朝雄『いじめの社会理論』から孫引きします。

御国のために一致団結というので距離が近くなってはじめてわかった。おれたちとまともにつき合いもせず距離をおいて、おれたちより楽しそうに暮らしていた、おまえたちが憎かった。いまがチャンスだ、やってやる。ざまあみろ!。


ユダヤ教徒やモルモン教徒は特権階級ではないでしょうが、「えらそうなことを言ってるくせに」と気持ちはあるだろうし、芸能人のちょっとした行動や発言を叩く心理もこれではないかと思います。


佐藤研二郎氏の盗作疑惑

2015年08月21日 | 日記

東京オリンピックのエンブレム(なんで英語なのか)盗作疑惑、そしてサントリーのトートバッグのデザイン模倣、この騒ぎはなかなかおもしろい。

たまたま読んでいたA・S・バイアット『抱擁』に、こんなことが書かれて、うーむと考えてしまいました。

現代の表現形式は必然的にパロディにならざるをえないということはわかっていた。(略)ここで言うパロディーとは、嘲笑したり、揶揄したりすることではなく、過去の作品の〈書き替え〉あるいは〈再現〉の試みにほかならない。


そういえばシドニイ・シェルドン『鏡の中の他人』にも、笑いについて同じことが書かれてあったと思い、調べてみましたら、コメディ作家がこんなことを言ってます。

もっとも新しいジョークを創作したのはアリストファネスなんだぞ。つまり、ジョークは基本的にはみんな同じなんだ。

まったくの独創的作品を生み出す、まして大量にとなると不可能かもしれません。

寺山修司の短歌はほとんどが盗作だという話を思い出し、ネットで調べました

寺山「莨火を床に踏み消して立ちあがるチエホフ祭の若き俳優」
中村草田男「蜀の火を莨火としつチエホフ忌」

寺山「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」

冨澤赤黄男「一本のマッチをすれば湖は霧」「めつむれば祖国は蒼き海の上」

他にもたくさんあります。

寺山修司の短歌は模倣、焼き直しという批判があったが、現在は問題とはされていないとのことです。

短歌には「本歌取り」といって、他人の作品の一部を使って自分の歌を作ることがされています。
ネットで「本歌取り」の意味を調べますと、このように説明されてます。

和歌、連歌などの技巧の一つ。すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧。新古今集の時代に最も隆盛した。
転じて、現代でも絵画や音楽などの芸術作品で、オリジナル作品へのリスペクトから、意識的にそのモチーフを取り入れたものをこう呼ぶ。オリジナルの存在と、それに対する敬意をあきらかにし、その上で独自の趣向をこらしている点が、単なるコピー(パクリ)とは異なる。


岡嶋二人『あした天気にしておくれ』はメイントリックに先例があるからというので、江戸川乱歩賞に落選しました。

私の基本的な考え方は、その小説に「どんなトリックが使われているか」ではなくて、トリックがあるのだとすれば「どんな使われ方をしているのか」だからです。

このように岡嶋二人氏は説明していますが、もっともだと思います。
斬新なトリックを考えだすのは困難なわけで、前例のあるトリックであっても、模倣、借用、引用、下敷き、参照、応用によって、どういう作品を作り出すかだと思います。

佐藤研二郎氏のデザインは、本歌取りか、それともパクリなのか。

佐野研二郎氏は「第三者のものと思われるデザインをトレースし、そのまま使用するということ 自体が、デザイナーとして決してあってはならないことです」と非を認めていますから、盗作なのでしょう。
それでも
佐藤研二郎氏が「○○氏の作品にインスパイアされた」などと弁明したら許されたのだろうか、と考えてしまいます。
どれが独自の趣向で、どこからが盗作、剽窃なのか、その判断は難しいように思いました。


この騒ぎでもう一つおもしろいのが、佐野研二郎氏の妻の「確かにトートバッグのデザインを監修したのは佐野です。しかし、細かい実務を担っていたのは何人かの“部下”です」と、部下の責任にしていること。
リクルート事件(未公開株の収賄)での高石邦男文部事務次官の「妻が株をもらった。私は知らない」という言い訳を思い出しました。
高石邦男氏は衆議院選挙に自民党公認で立候補する予定が、公認からはずされ、無所属で出馬したもののあえなく落選。

高石邦男氏は事務次官時代に日の丸・君が代教育を強制した愛国心あふれる人です。
「戦争に行きたくないのは利己的」の武藤貴也議員、国会議員枠の未公開株が買えると23人から約4200万円を集めたが、株の購入ができず、約700万円が返済されていないそうです。
国会議員枠の未公開株なんてものが実際にあるとしたら、これは大問題です。
それはともかく、サミュエル・ジョンソンの「愛国心はならず者の最後の隠れ家」という名言がふさわしい方たちです。

それと佐藤研二郎氏の「部下が」ということ、日本は誰も責任を取らない仕組みになっているということがこういうところにも表れていると思いました。
たとえばBC級戦犯です。
捕虜の虐待、民間人の虐殺などは上官の命令に従ったわけですが、では誰が責任を負うべきなのか。
しかし私にしても、森永ヒ素ミルク中毒事件での実刑判決はかわいそうだ、この人だけの責任ではないのにと思いました。

盗作疑惑がどのように終結するか、楽しみです。

(追記)
エンブレム(こんな言葉は使いたくありませんが)の使用中止となりました。
新国立競技場も白紙撤回です。
この責任を誰が取るのか、これまた楽しみです。
いつものように曖昧に終わるのでしょうか。


依存症の親を持つ子供たち

2015年06月10日 | 日記

依存症について本を読んだり、話を聞いたりしてますが、わからないのが依存と依存症の違いです。
依存症は進行性の病気で、やめるか、死ぬかだと聞いています。
しかし、ある知り合いは若いころ、酔っ払って道路に寝て財布を取られたことがあると言ってまして、今も酒好きですが、家庭や仕事に問題はないようです。
別の知り合いはパチンコにはまり、奥さんの財布から金を取ったり、子供に「500円ちょうだい」と頼んだりしたことがあり、いくらなんでもこりゃまずいと思って、それ以来パチンコはしていないそうです。
知り合いたちは依存症ではないのか、それともコントロールを取り戻すこともあるのか。

加藤力『家族を依存症から救う本』に、依存症のおおよその目安として次の4つの要素があげられています。
1「物質に対するコントロールの喪失」
ある物質を使う場所・時間・頻度・量をコントロールできなくなること。
2「物質探索行動の強化」
ある物質を手に入れるために時間とエネルギーを費やすこと。
嵐の日でも遠いところまでお酒を買いに行く。
覚せい剤を買うために他人にうそをついたり、金銭を盗む。
3「離脱症状の出現」
使用を中断したときに様々な精神的・身体的症状が生じること。
4「社会的な障害の出現」
恐喝や窃盗の事件を起こしたり、交通事故を引き起こす。
別居や離婚、友人や近所の人とのトラブルやケンカなど。
遅刻や欠勤が増え、失職する。
借金を繰り返し、多額の負債を抱える。
孤独感や絶望感が強くなり、自傷行為を繰り返す。

ギャンブル依存症の本人と家族の手記をまとめた冊子を某氏にいただきました。
本人の手記はそういうものかというのが感想ですが、巻き込まれた家族、特に子供は凄惨です。
アダルトチルドレンとは、もともとはアルコール依存症の親を持つ子供たちという意味ですが、依存症の一番の弊害は子供への影響だと思います。

警察の少年育成官の話を聞いたことがあります。
泥酔して保護した若い女性を翌日の昼ごろ自宅へ連れて帰ったら、2歳ぐらいの子供が起きてじっとしていた。
その子供は母親がいないことに慣れている。
こうした事例が目につくようになってきた。

アミティ母子プログラムディレクターのシャナ・キャンベルさんは『虐待という迷宮』で、スピードをやると「時間の感覚もなくなる。たとえば母親が子どもを置いて出かけても、ついさっき出ていって、すぐに帰ってきたばかりだと思ってしまう。それが一日だと思っていたのに、実際には何週間もたっていたなんてこともあります」と話していますが、親がいない間に子供が餓死してしまうことだってあり得ます。

少年育成官の話の続きです。
虐待の対応は子供の危険度によって変わり、保護者がアルコール依存症、もしくは薬物依存症の場合だと危険度が高くなる。
依存症がない人に比べて自己コントロール能力が低く、ブレーキが効きにくいから。
虐待と子供の非行にはつながりがあり、虐待を受けて児童相談所に通告される子供が触法少年(13歳以下の犯罪した子供)として通告されることが増えてきた。
家では保護者から暴力を受けている子が、外では万引きをしたり、自転車を盗んだりして補導される。
非行の低年齢化で一番の問題は、非行に走った年齢で学力は止まり、勉強できなくなること。
5年生で万引きをするようになると、5年生で学力は止まるし、中学1年生で夜遊びしてたむろするようになると、中1で止まる。
放っておけば5年生の学力で一生を過ごすわけで、お客さんの名前が読めなかったら仕事にならない。
非行の低年齢化は人の一生を左右する。

親を何とかしないといけないわけですが、受刑者や依存症者には子供のころから暴力や性的虐待を受けつづけた人が多いそうです。
つまり虐待の連鎖です。

『虐待という迷宮』で上岡陽江さんは、「男性の薬物依存者には多いのですが、たとえばお父さんがアルコール依存でお母さんに暴力を振るっていたとする。(略)
そのような人にとっては、無力感、うちひしがれた感じ、どうしようもないやるせなさの表現が、怒りや暴力になってしまう」と語っています。

アメリカでは、2009年、刑務所や拘置所といった矯正施設に収容されている受刑者数はおよそ230万人、人口比で日本の12倍。
保護観察や仮釈放中などを含めると720万人になり、スイスの全人口に相当します。

坂上香『ライファーズ』によると、アメリカには母親か父親が刑務所に服役中の子供が、少なくとも190万から230万人はいて、その大半が10歳以下で、43人の子供に1人、もしくは2.3パーセントの子供の親が受刑者です。
アフリカ系の子供は15人に1人が親が刑務所に入っているから、アフリカ系の子供が最も深刻な影響を受けている。

暴力や性的虐待の被害を受けている子供、親が受刑者だったり依存症者だという子供は、自分も親と同じようになる確率は高いでしょうから、そうした子供たちへの支援が必要となります。

キャンベルさんが働く母子施設は、19歳から64歳の30人の女性と11人の子どもがいて、6人の母親が子どもと暮らしています(スタッフは16人で、そのうち男性が5人)。

全員、刑務所から出所する際に矯正局に紹介され、自発的に来た人です。(逃げたのはこの2年間で4人)
こうした施設が日本でもあちこちにできたらいいのですが。


虚実の皮膜

2015年06月02日 | 日記

福田和也氏オススメの石原慎太郎『わが人生の時の時』を読みました。
ヨットやスクーバダイビング、戦時中の思い出、弟のことなどの掌編が40編。
自慢臭はところどころにありますが、面白いです。
特に怪異譚。
深夜、みぞれまじりの雨の中、道路端に立つ男の話は、都市伝説にあるタクシーの乗客の話そのままですが、怖い。

ですが、こういった話が重なると、『わが人生の時の時』は小説なのですから、あれこれ言うのは無粋ですが、石原慎太郎氏は霊や占いなんかを信じているのかと思いました。
たとえば、ベニグノ・アキノがアメリカからフィリピンに帰るとき、石原慎太郎氏の奥さんが方位と気を計算したら、暗剣殺と何かが重なるので忠告したが、それでもフィリピンに帰ったベニグノ・アキノが暗殺されたという話。
あるいは、お寺の跡地の再開発でビルを建てる際、墓地だったあたりを5mの深さまで手掘りでさらって、残っていた骨を拾い上げ、入念に供養をしたが、コンクリートの杭が一本だけが12、3mのところでつっかえてしまい、その場所を手で掘ってみると、ぼろぼろのされこうべを掘りあてたという話。
父親が死んだとき、媒酌をした関西に住む老婦人の家の茶室に父親が現れた話は二箇所に書かれています。

小野不由美『残穢』は、ドキュメンタリー・ホラーというらしいですが、淡々とした描写は、実際にそんなことがあったんじゃなかろうかと思わせます。

「今まで読んだ小説の中で一番怖い」というのもわかる怖さです。

同じ怪奇小説であっても、小野不由美氏は虚実を意識して書いているのでしょうが、石原慎太郎氏は不可思議な出来事が本当にあったと信じてるようで、なるほど霊友会の信者だと納得しました。

虚実の皮膜といえばウディ・アレンです。

『マジック・イン・ムーンライト』は、女霊媒師のウソをあばこうとする手品師が本物だと信じざるを得なくなり、という物語。
ウディ・アレンは『恋のロンドン狂騒曲』などでも占いや心霊主義にだまされる人を皮肉っていて、あっちの世界が本当にあるんですよという話になるわけがなく、女霊媒師はどういう手口を使っているかというミステリ仕立てになっています。

金持ちの未亡人が、浮気をしていたかと夫の霊魂に尋ねると、浮気をしたことはない、お前だけを愛していたという返事。

もちろんウソなわけですが、ウソの答えのほうが未亡人にとっては望ましい。
井上陽水の「夢の中へ」じゃないけど、虚構のほうがいいに決まっています。

以前、2ちゃんねるの漫画板に、「私たちは現実を忘れさせてくれる夢を見るために漫画を読むんだ」と書いたら、「一緒にしないでくれ」とか「現実逃避だ」とか叩かれたことがあります。

『カイロの紫のバラ』での、女主人公が現実から目を背けて映画を見るラスト。
映画だって、夢を見るために映画館に駆けつけるに決まっているではないですか。
とはいえ、霊魂や占いなどの超常現象を私は認めませんが。

今年の映画では『フォックスキャッチャー』に圧倒されました。

デュポン家の御曹司は、こうありたいという自分像(虚構)につぶされてしまいます。
そういえば『アナと雪の女王』で「ありのままの自分」と歌ってて、『シンデレラ』でも同じことを言ってて、デュポンさんもありのままの自分を認め、ウディ・アレンのように虚実の皮膜を楽しんでいたら。
いくら虚構のほうがいいといっても、現実と虚構の境目がわからなくなり、虚構の世界にはまり込むのはやはり危険です。
たぶん麻原彰晃も神のお告げという虚構を真実だと思い込んでしまったんでしょう。


民主主義

2015年05月07日 | 日記

民主主義とは何か、何人かの文章を集めてみました。
ちょっとずつ違っていますが、基本的なところでは共通しています。

大島渚
多数決は、一部の力のある者が横暴になることを防ぐためのもの。集団いじめのようになっては本来の意義から外れてしまう。それで、民主主義の基本原則はいつも、多数の利益と少数の尊重が並列される。だから、多数決はそれ自体が問題ではなく、それをどこまで適応させるかが問題になる。

 

渡辺靖
民主主義は多数決とイコールではない。むしろ、勝者(多数派)が敗者(少数派)に対してどれだけ耳を傾け、信頼と共感を勝ち得てゆくかによって真価が問われる。「数の論理」を盾に敗者(少数派)を軽んずることは、トクヴィルが懸念した「多数派の専制」に他ならない。

民主主義=多数決ではなく、少数者を大切にするのが民主主義なんだということです。

平川宗信
日本では「民主主義イコール多数決」だと考えられがちですが、民主主義は決して多数決ではありません。その本来の意味は「自治」で、自分たちのことは自分たちで決める、その権限と責任を引き受けるということです。よく「市民自治」と言われますが、「市民が自治を行う」、これが民主主義です。

「民」と「公」について。

神野直彦
民主主義の「民」は支配される者という意味ですし、「主」は支配する者を意味します。

つまり、民主主義とは「支配される者が支配すること」を意味します。
デモクラシーの「デモス」とは民衆、「クラシー」は権力、民衆が権力を握ることがデモクラシーだそうです。
「公」ということについて宇沢弘文は、ゲーテの、封建領主や貴族が独占している庭園をすべての社会の構成員に開放して公園をつくろうという「公園の思想」を紹介しています。
公園とはみんなのもの。
中国で公用電話とは誰もが利用できる電話。
「公」とはみんなに開かれたものということになります。
ところが、日本で「公用車」といえば、誰もが利用できる車ではなく、官僚が使用する車のことを指すように、「官」のことになっています。

神野直彦
日本では「公」に「官」というレッテルを貼ってしまいます。その上で「官から民へ」と、心ないメディアが騒ぎ立てます。(略)「民」には市場とか、企業とかいう意味はありません。(略)
「官から民へ」という合い言葉は、「公」の領域を、市場の領域に委ねるべきだとか、企業に委ねるべきだとかいう意味として使われるのです。

「官から民へ」というといいことのように感じますが、公共財の私有化です。

誰もが排除されなかった「公」の領域が、豊かな者の手に委ねられ、貧しき者が排除されてしまうことになるわけです。

渡辺靖『アメリカン・デモクラシーの逆説』によると、アメリカでは1990年代半ば頃から「政府による規制」よりも「市場による規制」、つまり企業のほうが政府よりも優れた市場調整機能を持つという発想が強まり、年金保険や健康保険、公共交通、エネルギー供給、刑務所、軍事・安全保障、学校教育や大学教育に関わる広い分野で民営化が進んだそうです。
民営化・規制緩和→小さな政府→公共サービスの低下(教育、インフラ、医療、年金、住宅など)
というわけです。

水島朝穂
民主主義とは突き詰めると「多数決」であり、多数者の立場を重視するのです。立憲主義は違うのです。多数者ではなく少数者を守るために立憲主義はあるのです。つまり、端的に言うと立憲主義は「反多数者主義」なのです。民意を最重視する政治家もいます。彼らは政策を実行するのに「民意だから」と言いつつ、個人の権利を侵害してきます。それを「民意にかかわらず」と少数者を守るのが立憲主義なのです。

因果関係について

2015年04月05日 | 日記

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』の「なぜ賢い人がばかなことを信じるのか」に、思考の錯覚が6つあげられています。
その1 規則性のないところに規則性を見出す
その2 何もないところに因果関係を見出す
その3 仮説に合う情報を重視する
その4 すでにもっている信念に影響される
その5 思いだしやすい情報を重視する
その6 集団に影響される

スロットマシーンで当たりが出ると、にぎやかな音楽とともにコインがはじき出され店内の誰もがふり返るが、だが外れたときにはひっそりとしている、という例をベン・ゴールドエイカーはあげています。

思考の錯覚はなぜ迷信を信じるかということにも当てはまります。

風が吹いたら木の葉が揺れるのであって、木の葉が揺れることで風が吹くのではない。
同じように、ニワトリが鳴くから太陽が昇るのではないし、友引に葬式をすることで人が死ぬのではない。
ところが、そこに規則があり、因果関係があるように思い込んでしまう。

後知恵バイアスといって、「だからそう言ったでしょ」とか、「あの時に株を売っておくべきだった」「もっと慎重に運転していれば」というように後からいい知恵を思いつくバカの後知恵、下種の後知恵は、因と果を最初から知っていたという思い込みだそうです。


ある出来事に規則性があるのか、因果関係があるのか、そこらの判断は難しいようです。

筋肉バカという言葉があるように、筋肉の量と脳みその重さは反比例するという俗説があります。

池谷裕二『脳には妙なクセがある』に引用されているイリノイ大学のヒルマン博士ら研究では、それは間違いのようです。

公立小学校の三年生と五年生について運動能力と学力の関係を調べたところ、運動が得意な生徒ほど、勉強の成績もよいことがわかった。
逆に、肥満気味の生徒は学業の成績が低い傾向がある。

ここで池谷裕二氏は「デブはアホ」と短絡的に解釈してはいけないと注意します。

「肥満と学業は反比例」するという統計学的傾向(有意な相関)があるが、統計学的傾向は因果関係を示すものではない。
関係はあっても、因果関係があるかどうかは別です。

薬指より人差し指が短い人のほうが株取引で儲け上手だと、池谷裕二氏は書いています。(私も人差し指が短い)

指の長さは胎生期に浴びたテストステロン(男性ホルモンの一つ)の量を反映している。
誕生前にテストステロンに多く曝されると、自信に満ちたタイプになり、危険を好み、ねばり強く調査し、注意深くなり、反応や動作が速くなる傾向がある。
指の長さと性格は関係があるとなると、手相も科学的根拠があるのでしょうか。


高齢者の生活

2015年03月31日 | 日記

「終活読本ソナエ 2015年春号」に、高齢者の生活保護受給が増えているという記事がありました。

総務省の2013年家計調査年報によると、1人暮らし無職高齢者(60歳以上の単身無職世帯)の実収入は12万308円、支出は15万6953円で、3万3645円の赤字。 

夫婦2人暮らし(夫65歳以上,妻60歳以上の夫婦のみの無職世帯)の実収入は21万4863円、支出が27万2455円で、5万7592円の赤字。

多くの人は赤字分を貯蓄の取り崩しなどで補っているとみられる。
年金生活20年で亡くなった場合、月に5万円の赤字だと、1200万円の貯蓄が必要になる。
ということは、貯蓄が1200万円以下だと、20年以内に生活が破綻するわけです。

そのためか、生活保護を受ける高齢者が年々増加しており、2011年に生活保護を受給している高齢者は約78万人。
2012年に生活保護と年金を同時に受給している高齢者は約35万人。
生活保護受給世帯の47.2%は高齢者の世帯で、高齢者の人口に占める被保護者の割合は2.63%。

生活が苦しくなっても、家やマンションを持っていたら生活保護を受けることはできません。

不便な場所だと大した金額では売れないし、売れたとしても、生活保護を受けるとなると、家賃4万円程度のアパートぐらしになります。
楽ではありません。

では老人ホームはどうでしょうか。

「ソナエ」を見ると、これまた厳しいようです。

2014年3月で、特別養護老人ホームの入所待ちが全国で約52万人、2009年より10万人増えている。

要介護4や5の待機者が約8万人。
ところが介護職の有効求人倍率は全国平均で2.26倍、東京都と愛知県は4倍を超えている。

なぜ人手不足なのか、その原因の一つが低賃銀。

2013年、介護施設職員の平均月給は約21万2000円で、全職種の平均より8万円以上安い。
就労支援機構の人が、介護職につきたいと言う人にはやめたほうがいいと言ってる、給料が安いし、増えないからと話してました。
私の父はデイサービスとショートステイのお世話になっていますが、職員の方たちに申し訳ない気持ちになりました。


台湾の死刑と消費税

2015年01月31日 | 日記

台湾は2006年から2009年まで死刑の執行がなかった。
どうして執行が再開されたのか、台湾の大学の先生からいきさつを聞きました。

2010年、ある国会議員が浮気をして、それがスキャンダルになった。
この国会議員はごまかすために、国会で「どうして法に従って死刑を執行しないのか」と法務大臣に質問したところ、法務大臣は「死刑には反対だ」と拒んだ。
世論の非難を浴びた法務大臣は退任。
次の法務大臣が死刑の執行を許可した。
しかし国民も、政治的スキャンダルを隠すために死刑の執行が行われていると知るようになり、死刑には批判的な目を向けるようになった。
なるほど、死刑は政治的なものものだと再確認しました。

「反貧困ネットワーク」の会報に、伊藤周平氏の講演要旨が載っていました。
消費税増税は派遣労働者を一気に増加させる。
企業が正社員を減らし、必要な労働力を派遣などに置き換えると、人材派遣料等経費が仕入れ税額の控除対象となる。
他方、正社員への給与は控除対象外のため、派遣労働の割合を増やすほど消費税の納税額が少なくなる。
企業にとって人件費の圧縮になり、節税にも通じる。
消費税率が5%に引き上げられた1997年以降、それに呼応するかように労働法制の規制緩和が進み、非正規や派遣労働者が激増した。

消費税率をあげることは、国の財政健全化というより企業のためなんですね。
何事も本当の狙いは何かを知らないといけないということです。


「産めないのが問題」と釈明 麻生財務相

2014年12月09日 | 日記
「産めないのが問題」と釈明 麻生財務相
 麻生太郎財務相は8日、少子高齢化に伴う社会保障費増に絡み「子どもを産まないのが問題だ」とした自身の発言について、保育施設などが不足し産みたくても産めないのが問題との趣旨だったと釈明した。
 衆院選立候補者が岐阜県笠松町で開いた個人演説会で述べた。
 麻生氏は発言に批判が出ていることに触れた上で「私が言っているのは産みたくても産めない(ということだ)」と説明。同時に「子どもが育つ段階で預ける所がないから結果的に産まないのが問題で、高齢者が長生きするのが問題というのは話をすり替えている」と述べた。(共同通信2014年12月8日)

相変わらず軽率な発言をするというか、本音がつい出てしまう人だと思います。
子供を「産まない」のが問題か、「産めない」のが問題か、趣旨がどっちかはともかく、政治家として「産みたくても産めない」現状に何かしてきたんでしょうか。
そういえば元兵庫県議の野々村竜太郎氏も、記者会見で「少子化問題が」と言ってましたが、どういう取り組みをしたんだろうかと思いました。

「反貧困ネットワーク」の会報の山田延廣弁護士の文章にこんなことが書いてあります。
大企業(資本金10億円以上)の内部留保(儲かって貯めているお金)は、270兆円を超えており、1997年よりも130兆円も増えている。
ところが、20代の非正規社員の男性のうち、既婚率は4.1%、30代でも5.6%。
欧米のように、非正規であろうが正規であろうが、同一の労働を行うならば、同一賃金を支払うべきである。

知りませんでした。

「子どもが育つ段階で預ける所がない」ということは保育所の待機児童の問題でしょうが、まずは非正規社員が結婚できるような給料を払うべきだと思います。
結婚し、そして出産できる収入がないと、産みたくても産めません。
女性の貧困率も非常に高いわけで、財務大臣にはそこらを何とかしてほしいものです。

「反貧困ネットワーク」の会報に、戸籍がない(らしい)という22歳の男性の手記が載っていました。

その男性は物心ついた時から父親と車上生活していました。
父親はパチプロで、車で全国を旅し、食事はコンビニ弁当、寝泊まりは車の中、風呂は時々スーパー銭湯に。
小学校に行ったことはなく、読み書きは父親が教えてくれたそうです。

町山智浩『教科書に載っていないUSA語録』に、フード・デザート(食べ物砂漠)について書いてありました。

ファスト・フードの店はあっても、一番近いスーパー・マーケットまで1マイル以上離れているのがフード・デザート。

貧困層にはシングル・マザーが多く、料理する余裕もないために毎日ファスト・フードで済ませる。かくして貧しい子どもほど肥満で、そのくせビタミンやカルシウム不足になる。

そういえば、ホームレスの中に糖尿病の人がいると、片山さつき氏は発言していましたし、フード・デザートはよその国の話ではないんですね。
だけども衆議院選挙は自民党の圧勝という話です。
安倍政権の政策に賛成している人がそんなに多いのか、ほんとに不思議です。


認知の歪み

2014年10月28日 | 日記

数ある心理療法の中で効果があると実証されたのは認知行動療法だけだと、どこかで読んことがある。
ものの受け止め方や考え方(認知)の歪みに気づき、思考パターンを修正することで、行動が変わっていくということらしい。
たとえば性犯罪者は、たまたま女性と目が合っただけで、「こいつは俺に惚れている」と思い込み、強姦したときも「いやがっているふりをしているだけで、本当は喜んでいる」と決めつける。
こうした考えは歪んでいると、まずは気づかないといけない。

植木理恵『ウツになりたいという病』に、認知療法が対象とするよくある歪んだ思考のパターンが書いてあった。
①大げさに考える拡大解釈思考
仕事でミスをすると、「自分にはこの仕事は向いていない」と思う。

②黒か白かはっきり分ける

一つがダメなら、すべてダメ。この人は嫌いと思うと、やることなすことが気に入らない。

③相手に対する心の読み過ぎ

いつもは愛想のいい人がそっけないと、「自分が失礼なことをしたのか」と深読みする。

④先読みし過ぎる

「面接に落ちたらどうしよう」などと、将来のことを考えて不安を抱える。

⑤結論の飛躍

人がひそひそ話をしていると、「私の悪口を言っているのか」と自分の思い込みだけで結論を出す。

⑥感情の重視

ケンカをし、自分に非があっても、自分は絶対正しいと正当化する。通勤の電車に乗れなくて「今日一日はうまくいかないのかも」と思う。

⑦「~すべき」思考にとらわれる

「ミスをすべきではない」「こう振る舞うべきだ」という自分が決めたルールに縛られる。

⑧自己関連づけ

よくないことが起こると、何でも自分のせいにする。関係ないことでも自意識過剰から自分が関わっていると連想する。喫茶店で席についたら、隣の人が立ち上がって出たら、自分が嫌だからと思う。

こうしたふうに考える人の気持ちはよくわかる。

なぜなら私もそう考えてしまいがちだから。
私は普通に話しているのに「なぜそんなに否定的なのか」とか「マイナス思考だ」と言われる。
自虐的に歪んでいるわけで、まわりの人にとっては迷惑だろうと思う。
でも、井上陽水「あこがれ」に「さみしい時は男がわかる 笑顔で隠す男の涙」という言葉があるが、弱音を吐かない、愚痴を言わない、そんな人に私もあこがれます。
ジェンダーの視点からは問題ありだろうけど。