ネイサン・イングランダー『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』は短編集で、表題作は、フロリダに住む夫婦がイスラエルから来たユダヤ教敬虔派の友人夫婦とマリファナを吸って、あれこれおしゃべりする話。
「ユダヤ教敬虔派」をネットで調べると「ハシディズム」とあり、戒律を守って厳格な生活を送る人たちだそうです。
妻「あなたたち、コーシャじゃないキャンディーの缶に入っていたマリファナを吸うなんてこと、ほんとに許されるの?」
僕「彼女、フェイスブックもやってるんだろ。それも許されないことだ」
「コーシャ」とはユダヤ教で定める食事に関する規定で、魚でも食べてはいけない種類があるし、牛も特殊なのみ可、豚や兎はダメ。
加工食品は製造過程で混ざり物や身体に安全でないものなどが入らないように管理・加工されたものだけが認められるとのこと。
敬虔派の信者は、室内でも帽子をかぶり、黒い服装で、顎鬚を伸ばし、こめかみに髪を垂らしているので、外見ですぐわかります。
マーク(友達・夫)「外の世界にいて敬虔派であることは、恐ろしく面倒なんだ。無礼なことを言われるよりひどいのが、一般市民による絶えざる取り締まりなんだ。どこへ行っても僕たちはじろじろ様子を窺われてるんだ」
ショーシャナ(友達・女)「オシッコしたくてマクドナルドに寄ったの。そしたら野球帽かぶった男が、入ろうとするこの人に近づいてきて言ったの。『あんた、そこに入るのは許されてるのかい?』って」
おもしろいのが、マークも同じことをするということ。
マーク「ついやりたくなるんだよね。エルサレムにはモルモン教徒がいるんだ。うちに食事に来てコーラなんか注いでると、僕も同じく宗教警察みたいなことをやっちゃうんだ。言っちゃうんだよね、『おいジェブ、君はそんなの飲んでいいのかい? コーラとか飲んでいいわけ?(モルモン教ではカフェイン入りの飲料は禁止)』ってさ。毎回言っちゃうんだ」
そして、マークはこう言います。
たしかにそのとおり。
私たちは、ある種の人たち(大学教授や芸能人、公務員など)に道徳的完璧さを求め、不倫にはやたら厳しく、週刊誌は騒ぎ立てます。
ましてやスカートの盗撮とかだと、ネットでは住所や顔写真まで公開されるかもしれません。
どうしてそこまでムキになって責めるのかと思います。
高田里惠子『学歴・階級・軍隊』にこんな指摘があります。
日本帝国陸軍ではイギリスやプロシアのように、出身によって昇進が決まるということはなかった。
徴兵制の公平と軍隊内の平等を喧伝し、貧民や農民の味方を標榜したやり方を、加藤陽子氏は、「不幸の均霑」と呼ぶ。
「均霑」とは、雨の恵みのように、みなが均等に潤いを得るという意味。
佐藤忠男氏は「犠牲はなるべく公平でなければならない」と言う。
みんなが平等に不幸になることだけが、みんなを満足させられる。
日本兵が捕虜になるより自決を選んだのは、自分だけ生き残って捕虜になり、「犠牲の平等」を踏みにじれば、故郷の家族が近隣の人々から迫害を受け、村八分になるという恐怖がそうさせた。
戦争によって、今まで特権を享受してきた層も平等に不幸になっていったように見えた。
特権階級であった学生も、徴集延期の特権が廃止される。
リベラルなインテリ層は戦争末期に下士官タイプの人間(近所のおじさん、国民学校の上級生)にいじめられる。
誰もが平等に兵営にたたきこまれるという「犠牲の平等」の実現は、社会の下積みの者たちにとっては期待であった。
いじめ側の心理として、内藤朝雄『いじめの社会理論』から孫引きします。
ユダヤ教徒やモルモン教徒は特権階級ではないでしょうが、「えらそうなことを言ってるくせに」と気持ちはあるだろうし、芸能人のちょっとした行動や発言を叩く心理もこれではないかと思います。