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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

アメリカの多様性

2019年07月23日 | 日記

ジョン・ワッツ『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』は、スパイダーマン(ピーター・パーカー)が高校の研修旅行に行きます。
同級生は国際色が豊か。
スパイダーマン役のトム・ホランドはイギリス出身の白人。
あこがれのMJのゼンデイヤは、父がアフリカ系アメリカ人、母はオランダ系アメリカ人。
親友のネッド・リーズ役のジェイコブ・バタロンの両親はフィリピン人。
アンガーリー・ライスは白人ですが、オーストラリア生まれ。
ジョージ・レンデボーグ・Jrはドミニカ共和国生まれ。
恋敵役のレミー・ハイはオーストラリア生まれで、父は中国系のマレーシア人、母はイギリス人。
トニー・レヴォロリの両親はグアテマラ出身。

WASPはいないし、両親が黒人の俳優もいません。
ピーター・パーカーはクイーンズ住まい。
クイーンズのジャクソンハイツでは167の言語が話されているそうですが、人種の人口比はどうなのでしょうか。

映画の脚本作りに行き詰まったミランダ・ジュライは、無料配布される雑誌の「売ります」広告を出している人に会いに行きます。
『あなたを選んでくれるもの』は、そこで出会った人たちのことを書いた本です。
写真もたくさん。
インタビューを申し込んでも、たいていは断られたそうですが、応じてくれる人は変な人ばかり。

最初は革ジャケットを10ドルで売る60すぎの男。
性転換をしている最中で、化粧をし、女性の服を着ている写真にまず驚きます。
他人の写真アルバムを売るギリシャから来た女性。
ウシガエルのオタマジャクシを売る男子高校生。
GPSを足首につけている男性。


キューバ移民の女性と弟。
古いドライヤー5ドル。
などなど、10人へのインタビューです。

カメラマンとアシスタントを連れ、会ってくれた人に50ドルを支払っています。
ということは、最初から出版する予定だったのか。
となると、変わった人を選んで本にしたのかと疑問が沸いてきます。
中には本人が読んだらどう思うんだろうというとこもあり、たとえばフルーツサラダをいやいやもらって帰り、すぐに捨ててしまったことも書かれています。
インタビューした人に『あなたを選んでくれるもの』を謹呈していないのでしょうか。
モキュメンタリーなのかと思いながら読みました。

レイチェル・ドレッツィン『いろとりどりの親子』は障害を持つ子供とその親、6組の親子のドキュメンタリー映画です。
その中で、子供に障害がないと思われる家族が出てきます。
6年前、16歳の息子が8歳の子供を殺して無期懲役になります。
両親、そして弟妹もカメラに向かって自分の気持ちを語るんですね。
刑務所にいる息子と電話で話したり、面会の時に一緒に写真を撮ったり。
日本ではあり得ない話で、ここらがアメリカのよさだと思います。
とはいえ、「加害者のくせに」などとネットで叩かれないのか気になります。

渡辺靖『沈まぬアメリカ』は2015年の出版なので、トランプの登場によって古くさくなったかと思ったら、そんなことは全くありません。
アメリカの大学の海外分校、ウォルマート、メガチャーチ、セサミストリート、政治コンサルタント、ロータリークラブ、ヒップホップを手がかりに、アメリカ文化の世界中への拡散、越境、浸透が語られます。
渡辺靖氏は「アメリカの文化的影響力というのは――少なくとも規範や制度の世界的拡張という点に関しては――世間で言われているほど普遍的でも、圧倒的でもないのではないか」と最後に書いています。
しかし、私の読後感は逆で、これからさらにアメリカ文化が世界を覆うようになるのではと思いました。


入管法改正案とカファラ制度

2018年11月20日 | 日記

「アムネスティ・ニュースレター」vol.478の「ニュースで学ぶ世界の人権」に、カタールのカファラ制度(雇用主による保証人制度)について書かれています。
https://www.huffingtonpost.jp/rengo/international-ilo_a_23444794/

カタールは、移住労働者の出国に雇用主の許可を必要とする規制の廃止を定めた、新たな法律を導入したそうです。
もっとも、すべての移住労働者が自由に出国できるわけではありません。

Q「国を出るのに雇用主の許可が必要だったんですか」
A「許可が必要なのはそれだけではありません。転職にも許可が要ります。認めてくれない場合も多いので、転職したくても契約が終了するまで待たなければなりません。もし、勝手に辞めたら、逃亡したとして、強制送還される可能性もあります。カファラ制度は雇用主の力が強いため、労働者が搾取されやすい制度なのです。実際、契約とはほど遠い低賃銀で働かされ、過度の長時間労働を強いられることも少なくありません。給与の未払いや遅延も起きています。住居も雇用主が指定するのですが、書類を発行しない雇用主もいるため、不法滞在で摘発される危険が常にあります。長年の慣行で今も労働者のパスポートを取り上げる雇用主もいます」
Q「家事労働者はどれくらいいるのですか」
A「約17万人です。労働法に守られていないために、とても悲惨な状況に置かれています。アムネスティが調査したところ、横暴な雇用主の下で過酷な労働を強いられ、外出も認められず、外出を希望すると暴力をふるわれるといった実態が明らかになりました。1日の休みもなく、週100時間も働いたという女性もいました。強かんの被害も報告されています。虐待を訴えても雇用主が裁かれることはほとんどありません」。

この記事を読み、日本の技術修習生制度と同じじゃないかと思いました。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E6%8A%80%E8%83%BD%E5%AE%9F%E7%BF%92

失踪外国人実習生、月給「10万円以下」半数超
実習先から失踪した外国人技能実習生2870人のうち、7割弱が失踪の動機に「低賃金」を挙げたことが法務省の調査でわかった。実習先での月給については、半数以上が「10万円以下」と回答した。失踪した実習生に対する同省の調査結果が明らかになるのは初めて。「国際貢献」を掲げながら「安価な労働力」に利用されていることが、失踪につながっている構図が浮かび上がった。(読売新聞2018年11月17日)


https://www.yomiuri.co.jp/national/20181117-OYT1T50022.html

さて、入管法改正案が国会で審議されています。

 外国人労働者受け入れ拡大に向けた入管法改正案を巡り、法務省は16日の衆院法務委員会理事懇談会で、失踪した技能実習生への聞き取り調査結果に集計ミスがあったと明らかにした。調査人数や「失踪の動機」の内訳が誤っていたほか、実習生への実際の質問とは異なる集計項目があることも判明し、野党が猛反発。(略)
 法務省はこれまで与野党に示した資料で「2892人を調査し、約87%が『より高い賃金を求めて』失踪した」と説明していた。しかし調査内容を精査した結果、16日に実際の調査人数を2870人と訂正した。失踪動機のうち、「より高い賃金を求めて」の割合は実際には全体の約67%で、大きな食い違いがあった。
 それ以外の動機の割合についても、「実習終了後も働きたい」を約14%から約18%に▽「指導が厳しい」を約5%から約13%に▽「暴力を受けた」は約3%から約5%に--などと、それぞれ訂正した。(略)
 さらに、調査で失踪動機の選択肢だった「低賃金」「契約賃金以下」「最低賃金以下」の三つを、法務省が独自に「より高い賃金を求めて」として合算していたことも判明。(毎日新聞11月17日)。

https://mainichi.jp/articles/20181117/ddp/001/010/006000c
こんなことではカファラ制度とどっこいどっこいのものになるのではと思ってしまいます。

よくわからないのが安倍首相の考え。

安倍晋三首相の所信表明演説に対する各党の代表質問が29日、衆議院で始まった。(略)
 枝野氏は、西日本豪雨など自然災害からの復旧、復興に向けた2018年度補正予算案の編成が遅いと批判。入管法改正案について、移民政策との違いを質問した。安倍首相は「移民政策ではない」、「人手不足の深刻な業種に限り、即戦力となる人材について期限をつけて受け入れるもの」と説明した。(朝日新聞2018年10月29日)

つまり使い捨てということでしょうか。
これじゃ現代の奴隷制である技能修習生制度とどう違うのかと思います。


『ザ・ビッグハウス』と日本経済

2018年09月18日 | 日記

 

「ザ・ビッグハウス」はミシガン大学のスタジアムで、10万人以上収容の全米一のスタジアムです。
想田和弘氏やミシガン大学の教授・学生たちが撮影した映像を、想田和弘氏が編集した『ザ・ビッグハウス』は単なるアメリカン・フットボールのドキュメンタリーではありません。
人、人、人、そして騒音に圧倒されました。
アメリカの今を切り取っていると思いましたが、私の知識ではわからないことばかり。
公式HPの町山智浩「アメリカという巨大な家を映す鏡」という解説を読むと、映画では気づかなかったことを教えてもらえます。
http://thebighouse-movie.com/machiyama.html

試合前の国歌斉唱では観客たちも一斉に歌い、そして歓声を上げる。
スタジアムに向かう群衆に「神に背けば永遠の苦しみを受ける」「神と和解せよ」と説教する人たち。
厨房で料理を作る人、清掃する人、ダフ屋、警官、チアガール、看護師などは、自分の仕事をしないといけないので、試合は見ない。
父親(黒人)が子供にあれこれ言ってチョコレートを売らそうとするが、誰も買わない。
ジョン・ベーコンという誰だかわからないけど、有名人らしき人が長々話したり。

ザ・ビッグハウスのあるアナーバー市の人口の75%は白人で、アナーバー市の世帯平均年収は75,440ドル。
観客のほとんどが白人。
VIPルームの年間レンタル料は6万1千ドルとのこと。
公立のミシガン大学が経営できているのは、卒業生の寄付が大きいわけです。

映画の最後は、卒業生のパーティ(900人)。
最初に挨拶した男性(たぶん黒人)はオハイオ州の生まれ。
9歳のときにテレビでミシガン大学の試合を見て、ミシガン大学に入ってローズボールに出ると言った。
入学したものの、両親はお金がないので、前期はバイトでしのいだが、後期は無理だった。(現在の学費は州民でも4年間で6万ドルかかる)
しかし奨学金をもらって卒業できた、感謝しているというスピーチでした。
この男性は成功したからこそ、こうやって挨拶しているわけで、アメリカンドリームの体現者です。

そのあとの学長の挨拶。
世界から5万2千人が応募し、6千人が入学した。
入学生の平均GPA(高校の成績平均値、4.0が満点)は3.72(たぶん)で、4.0の生徒が4分の1いる。
研究費が130億ドル(たぶん)、奨学金が10%(たぶん)増えたなどと説明する。
皆さんたち卒業生や企業からの寄付、研究助成金のおかげ、これからも寄付をお願いしますということ。

アメリカンドリームになりそこねた貧乏白人たちの話といえば、クレイグ・ガレスピー『アイ,トーニャ』。
1994年、トーニャ・ハーディングの元夫たちがライバルのナンシー・ケリガンを襲撃した事件をもとにした映画です。
なんといっても、結婚・離婚を5回もしたトーニャの母親が強烈。


ネットで調べると、トーニャは異父兄から日常的に性的虐待を受けていたそうです。
https://cinema.ne.jp/recommend/tonya2018051406/
トーニャはDVダメ男と結婚し、別れても腐れ縁が続く。
夫の友達である、親と同居している無職の陰謀論スパイ男がケリガン襲撃の黒幕。
とほほな人間ばかり。

ウェイトレスをしている母親が娘のコーチ代を出すわけですが、ウェイトレスの収入はどれくらいなんでしょうか。
連邦最低賃金は時給7.25ドルで、6年以上据え置かれたまま。
しかし、州によって最低賃金は異なり、カリフォルニア州とニューヨーク州は最低賃金を時給15ドルに上げることを決めています。

ウェイトレスは時間給、固定給ではないので、ネットによると時給は2,5ドルとか5,01ドル。
というのが、ウエイトレスの収入の大半はチップだから。
チップを時給と足したら、時給10ドルから30ドルくらいになるそうです。

ちなみに東京都の最低賃金は10月に27円アップして985円。
10月10日の為替レートで8・7ドルほど、1ドル=100円で計算しても9・8ドル。

『ザ・ビッグハウス』では、アメリカンフットボールの観客に売ってるペットボトルの水がたしか5ドル。
ハンバーガーのコンボ・セットが16ドル。
日本に比べるとずいぶん高い。

それで、ビッグ・マックの値段は国によってどれくらいなのかと思って調べると、こんなサイトがありました。
http://ecodb.net/ranking/bigmac_index.html

ビッグマック指数という経済指標があって、ビッグマックはほぼ全世界でほぼ同一品質(実際には各国で多少異なる)で販売されるので、ビッグマックの価格を比較することで、各国の経済力を測ることができるそうです。


先進国、安定している国が上位を占めています。

この表によると、日本では380円。
ビッグマック指数に従うなら、380円÷5.3ドル=約72円/ドルです。
実際は1ドルが約110円だから、円はかなり過小評価されていることになります。

息子に、日本のビッグマックの値段(380円)が韓国(456円)、スリランカ(418円)より安いのはどうしてかと聞いたら、日本は貧乏だからという返事。
需要と供給の問題で、日本はものがたくさんある(供給大)けど、給料が安い(手取りが月に20万円以下の人が多い)ので買う人が少ない(需要小)ために物価が安い。
外国人観光客が増えたのも、日本の物価が安いから。



もっとも、『ザ・ビッグハウス』のハンバーガーはどうやって食べるのかというほどの巨大さ。
近所のマクドナルドでビッグマックを買うと、それは夜マックといって、ハンバーグが4枚入ってるシロモノですが、高さは6cm。



これじゃ16ドルが高いかどうか(飲み物もついているんだろうし)、単純に比較できません。


福島みずほ「いのちとくらし、平和憲法をまもりぬく」(2)

2018年08月09日 | 日記

・狭山事件
被害者宅の玄関に差し込んであった脅迫状を書いた万年筆は被害者のもので、その万年筆が石川一雄さんの家で発見されたということになっている。
ところが、脅迫状の文字をコンピューターで筆跡鑑定をしたら、石川一雄さんの字とは99.9%違うという結果が出た。
万年筆自体も、インクの成分が違っているので被害者のものではなかった。
http://log.sayama-case.org/date/blog-entry-234.html

狭山事件とは、1963年5月1日、狭山市で16歳の女子高生が行方不明になり、身代金を要求する脅迫状が届けられ、5月4日、遺体が発見されたという事件です。
逮捕された石川一雄さんは強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄・恐喝未遂・などで起訴され、一審は死刑、二審の無期懲役が確定しました。

日野町事件の再審開始が決定しました。
1984年に滋賀県日野町で起きた強盗殺人事件です。
阪原弘さんは無期懲役で服役中の2011年に死亡しています。

毎日新聞「記者の目」に山本直記者がこんな記事を書いています。

滋賀・日野町事件再審決定 心証にこだわりすぎた
(略)
1審裁判官が裏で検察誘導
 ところが、審理が大詰めを迎えた95年に入って、検察は突然、訴因(起訴状に書かれている具体的な犯罪事実の主張)のうち、殺害場所を「日野町内」▽殺害時刻を「28日午後8時過ぎごろから翌日午前8時半ごろまでの間」▽被害品を「在中金額不詳の手提げ金庫など」--と大幅にぼかす予備的訴因の追加を地裁に請求した。2月には殺害場所を「日野町内とその周辺」にまで拡大した上で無期懲役を求刑したのだ。
 地裁は結審間近にもかかわらず、これらの請求をほぼ認めた。そして同6月、最大の争点と思われた自白の信用性を否定する一方、検察側の主張通り阪原さんが遺体や金庫の場所を知っていたと判断、店内の鏡に阪原さんの指紋が付着していたことも有力な証拠として無期懲役を言い渡した。20年以上も前の話なので、今回の再審開始決定に関する報道でも、こうした経緯はほとんど触れられていない。
 しかし、この背景に重大な「秘密」があった。担当裁判官が検察に対し、殺害の場所や時刻などをぼかす公判対策を行うよう法廷外でこっそり働き掛けていたのだ。裁判のもう一方の当事者である弁護側には秘密で。
 複数の検察関係者によると、合議制の裁判官3人のうち一人が担当検事との打ち合わせで、起訴内容にある殺害場所や犯行時刻、被害品をぼかした方がいいと勧めていた。裁判が長期化し、担当検事は何度か代わったが、その度に同じような働き掛けをしていたという。最終的に予備的訴因の追加に踏み切った理由について「裁判所は有罪の心証を持っていた。状況証拠だけで有罪にできると言われたも同然と判断したからだ」と語る関係者もいた。
 刑事訴訟法は起訴に当たって犯行の日時、場所、方法をできるだけ特定するよう求め、裁判所が追加や変更を命じることができるとも定めている。ただ、こうした「裏取引」は公平性・公開性の観点から問題がある。弁護側にとっては対策を取る時間的余裕がない上、殺害現場をあまりに広げられては十分な防御ができないからだ。
 「地裁としては、自白の信用性がないから殺害の日時と場所が認定できない。だが、心証はクロ。だから何としても有罪にするため、訴因をあいまいにさせたのだろう」。弁護団は地裁の動きをこう分析し、憤った。(略)(2018年7月24日)。

https://mainichi.jp/articles/20180724/ddm/005/070/007000c

驚くことに、裁判官は検事がぐるになって有罪判決を出したわけです。
石川一雄さんや阪原弘さんのように、自白を強要されて死刑判決を受けた死刑囚は他にも大勢いるのではないでしょうか。

・憲法改正
憲法改正国民投票は最低得票数の規定がない欠陥法案。
投票率が40%だと、有権者全体の21%で憲法が変えられることになる。
国民投票になれば、投票日の2週間前までCMが流し放題で、金があるところが有利になる。
国民投票するには852億円の費用がかかる。
国会議員選挙と同時にやれば経費は抑えられるが、選挙の争点と国民投票の争点がぐちゃぐちゃになってしまう。

自民党の改正案によると、第9条にある「必要最小限度の」という言葉がなくなっている。
何がやれて、何がやれないのかがわからないので、これはできないということがなくなる。

また、9条の2には、権力を縛るものが入っていないので、防衛費が拡大するだろう。
2018年度の防衛予算は5兆2500億円で、過去最高。
自民党の中には、GNPの1%から2%にせよ、10兆円に増やせという意見がある。
年間税収が50兆円くらいなのに、その2割が防衛費だと財政破綻するし、社会保障費をさらに削らなくてはいけない。

「法律の定めるところにより」とあるので、新しく法律をつくれば何でもできる。
「国会の承認その他の統制に服する」とあるが、「事前承認」ではないので、戦争するとしても、国会の事前承認すら必要としない。
議論さえせずに戦争を始め、国会で質問をすれば、秘密保護法のもとで回答を拒否されるという状況になりかねない。、

そして、自由が制限されていくのではないか。
今でさえ国会議員の発言に圧力がかかっている。
2015年、「戦争法」「鉄面皮」と言ったことに対して、削除要求を受けた。
1999年、共産党の「周辺事態法は戦争法ではないか」という質問に、小渕総理は「御党が戦争法というのは分かりますが、私たちはこういう意味でこの法律をつくろうとしています」と答弁している。

「緊急事態宣言条項」を憲法に加えることは、国会から立法権を取り上げ、内閣で実質的に法律がつくれるようにすることであり、三権分立の侵害になる。
緊急事態宣言条項は独裁政権のもとで使われ、ナチスの国家授権法と同じで、フランスのアルジェリア戦争、韓国の独裁政権支配体制強化のためにも使われた。
教育の無償化、参議院の合区解消は、憲法を変える必要はなく、教育政策で実現すべき課題だし、公職選挙法でやるべき問題。

(追記)

「FORUM90」VOL.160に、飯塚事件と袴田事件の再審請求棄却について、弁護士の講演録が載っています。
それを読むと、弁護側のDNA鑑定を裁判所が認めなかったのはおかしいとしか思えません。
飯塚事件では、科警研はDNA鑑定をするための試料がないと言い、鑑定写真を改竄しています。
森友・加計問題でのデータの廃棄・改竄とも通じます。
裁判官と検察はグルなのではないかと邪推したくなります。
冤罪なのに執行された死刑囚は少なくないかもしれません。


福島みずほ「いのちとくらし、平和憲法をまもりぬく」(1)

2018年07月22日 | 日記

某氏より福島みずほ「いのちとくらし、平和憲法をまもりぬく」という講演録(九条の会 山県2018年)をメールでいただきました。
森友・加計問題や憲法改悪などについて参考になりました。

・森友・加計問題
森友・加計問題について、もういいよという声もあるが、それは違うよと言いたい。
「森友・加計問題なんか、その学園の問題だと済ますのではなく、政治の基本的なあり方として考えましょう」

大阪地検が佐川前理財局長に対して不起訴を決めた。
公文書の改竄がなぜ公文書偽造にならないのか、虚偽公文書作成罪でないのか。
しかも、佐川前理財局長は国会で虚偽答弁をしている。

その一方、安倍夫妻の絶大なる応援を受けていた籠池夫妻は、安倍昭恵さんから百万円もらったなどと言っているうちに逮捕され、接見禁止、保釈が認められず、約300日も勾留された。

私人といわれる安倍昭恵さんには総理官邸に総理大臣夫人室があり、5人の秘書官がいる。
その秘書官の一人である谷査恵子さんが田村国有財産管理室長に問い合わせをしている。

加計学園が今治市に獣医学部をつくることで、36億円の無償譲渡、建設費の半分96億円が愛媛県と今治市から出る。
さらに大学に対し私学助成がされ続ける。

加計学園については、2017年3月13日に参議院予算委員会で質問した。
「加計学園についてお聞きをいたします。加計学園理事長加計孝太郎さんが今治市で岡山理科大学獣医学部を作りたいと思っているのを知っていましたか」と質問すると、安倍首相は怒って「福島さん、名前を挙げましたね。責任取れるんですか」と何度もくり返して脅した。

福島みずほさんと安倍晋三首相とのやりとりはYoutubeや国会の議事録で知ることができます。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_list.cgi?SESSION=42690&SAVED_RID=3&MODE=1&DTOTAL=1&DMY=1969

安倍「お答えする前にですね、私や家内がバックにいれば役所が何でも言うこと聞くんだったらですね、福島先生ね、長門市とね、私の地元、予算全部通っていますよ。誰が考えたってね、私の地元でしょ。そっから要望する予算が全部通っていますか。通ってませんよ。さまざまな要望をしてるけど、これ全部通ってませんよ。通ってるのもあれば通っていないのもありますよ。そんな簡単なものではない。そういうのをいわば印象操作というんですよ。そんな、そんなですね、いわば、安倍政権のみならず、政府あるいは行政の判断を侮辱するような判断は、侮辱するような言辞はやめていただきたいと思いますよ。しっかりですね、皆さん、ちゃんと真面目に業務にですね、精励しているわけでありまして、それがですね、それがまるで私の名前がついていれば全部ですね、物事が進んでいくかのごとくのこの誹謗中傷はやめていただきたいと、こう思う次第でございます。
それと、今ですね、加計学園について、言わば、私がこの獣医学部をですね、獣医学部を最終的に知っていましたかというのは、最終的にですね、これは今治と、これは広島でしたっけ、の特区がですね、決定された中によってこの加計学園がこの獣医学部を開設をするということが決定したということは、もちろん私は承知をしております。政府の決定でございますから」

「知っているか」と聞かれただけで、どうしてこんなにムキになるのか、後ろ暗いところがあるからではないかと、誰だって思うでしょう。

福島「まったく答えていないじゃないですか。加計学園の理事長がここで獣医学部をつくりたいと思っているかどうかをあなたが知っていたかどうか、総理が知っていたかどうかを聞いたわけです。2016年、7回食事やゴルフをしています。その前、2014年6月から2016年12月まで、2年半のなかで13回食事などをしています。長年の友人じゃないですか。極めて長年の友人です。だからお聞きをしているんです。政策がゆがめられているんじゃないかという質問です。平成28年、2016年11月9日、獣医学部の新設を国家戦略特区が決めます。そこで、このため、かねてより準備を進め具体的提案を行ってきた自治体を中心に、具体的プロジェクトとして、実際の獣医学部の立ち上げを急ぐ必要があり、そのための規制改革、すなわち関係告示の改正を直ちに行うべきであるという国家戦略特区の決定です。この具体的提案を行ってきた自治体というのは今治市ということでよろしいですか」

安倍「これ、担当大臣を呼んでいただけますか。山本さんが担当大臣なんですよ。ですから、山本さんを呼んでいただかなければ、私、それお答えのしようがありませんよ。詳しく私存じ上げませんから。これ、所管外ですから、今、私、お答えできませんよ」

なぜこんなにあたふたするのか。

福島「でも、その加計学園の理事長と非常に懇意にしていて、11月9日の日に今治市なんですよ。そしてですね、というか、獣医学科を決める。そして構造改革特区にずっと愛媛県と今治市はこの獣医学科の選定、やってくれということを言っています。だから、2010年、日本の獣医学会はこれに反対の声明を出しています。それはこういう中身です。(声明は略)
そして、ここの中身はもう今治市、加計学園というふうに名前がもうすでにずっと出ているんですよ。総理、なぜ急転直下、国家戦略特区によって獣医学部新設、そして、この大臣告示を規制緩和する。まさにそこで発言されているからこそ聞いているんです。特区の理事長、議長じゃないですか」

安倍「福島さんね、特定の人物の名前を出して、あるいは学校の名前を出している以上ですね、何か政治によってゆがめられたという確証がなければですね、その人物に対して極めて、私は、失礼ですよ。そして、この学校ですね、学校で学んでいる子供たちも傷つけることになるんですよ。まるで私が友人であるからですね、何かこの特区、あるいは様々な手続についてですね、何か政治的な力を加えたかのごとくの今質問の仕方ですよね。それ、あなた責任取れるんですか、これ全く関係なかったら。
まず申し上げましょう。おそらく週刊誌をもとに言ってるかもしれませんからね。言ってみますけどね、たとえばですね、これが、今治市がただで提供したということについて、このおかしいだろうという週刊誌でありますが、20年の間にですね、25例あるんですよ。20年の間に25例あってですね、これはただで、いわば土地が譲渡された例ですね。土地がただでですね、いわば貸与された例はこれ以外にもっとあるんですよ。つまり、なかなかですね、遊休地があって、地方自治体が困っているときにはですね、一番いいのはですね、学校法人が来ることなんです。これは若い人たちも来ますし、研究者も来るし、町が形成されるんですよね。でも、なかなかこれね、そう簡単に来ませんよ。ただで提供するといったって、なかなか来ないんです。今、子供の数が減ってますから、ただで提供するといってもなかなかずうっと学校法人が来ないのが事実であります。さらにこれですね、今治市が、今治市がですね、決めたことでしょ。これ市ですから、国有地ですらないわけですから、私、影響のしようがないじゃありませんか。
それとですね、今、そこまでですね、あなたがですね、疑惑があるかのごとく私人に対して、質問をしているわけであります。名前を出してるじゃないですか。名前を出して、しかも学園の名前も出していますよね。これ、生徒の募集等々にもですね、大きな影響を与えますよ。これ、あなた責任取れるんですか。私はそれを問いたい。これ今ね、NHKで放送されて、全国放送でされているんですよ。これは私はもう驚くべきことであります」

驚くべきことは、こういう答弁を首相がするということだと思います。

ここからは下を向いて原稿を棒読みします。

安倍「申し上げますとですね、今治市はですね、今治市はですね、獣医学部設置のみならず、しまなみ海道サイクリングブームを後押しする高度外国人材の積極的な受入れや、活力ある地域づくりのための道の駅の民間参入など大胆な規制改革を提案し、特区ワーキンググループなどの有識者委員より極めて高い評価を得たわけであります。(省略)
今治市は平成19年以降15回にわたりですね、15回にわたり愛媛県と共同で構造改革特区を活用した獣医学部設置を提案してきたが、実現には至らなかったわけであります。(ここで顔を上げる)
もちろん、それはですね、あなたが今、紹介されたような様々な反対があるからであります。であるからこそですね、業界団体の反対があるからこそ、だから特区でやるんですよ。これ、大体特区はそういうことになっているんですから。(原稿を棒読みなので省略)
対応する特例措置として獣医学部の設置を国家戦略特区のメニューとして追加することとしたわけであります。(顔を上げる)
ちなみに、四国には獣医学部がないわけでありまして、四国全体からのニーズがあったのも事実であります。(原稿棒読みなので省略)
ここで今申し上げたことはですね、いちいち週刊誌の指摘に反論しているわけでありますが、恐らくそれを基にですね、基に、基に質問されているんだろうと思いますよ。(また下を向いて原稿棒読み)
ただし、国家戦略特区はですね、規制改革の突破口であり、今後ですね、特段の問題が生じなければ、更なる規制改革として二校目、三校目を認めていくこともですね、検討に値すると考えているわけでございます」

福島「政府の政策が合理的になされているかどうかをただすのが国会です。政府の審査をするのが国会議員の仕事で、野党じゃないですか。その質問に対して、何で総理はそう恫喝するんですか。
総理は、総理はですね、10月2日と12月24日、まさにその2016年の11月9日に国家戦略特区で一つだけ獣医学科を規制緩和する、まさにここでということを総理自身が議長で決めたときの前後にですね、10月2日、12月24日、この方と食事をしています。こういう話をしたんですか」

安倍「これね、私そもそもね、そもそもですよ、何かですね、これ不正があったんですか。だから私は言ったんですよ。何か確証をつかんでいるんですかということですよ、週刊誌の記事以外に。何か確証もつかずにこの国会の場において何か問題があったかのごとく、私と彼が会食、彼は私の友人ですよ、ですから会食もします、ゴルフもします。でも、彼から私、頼まれたことありませんよ、この問題について。ですから働きかけていません。これはっきりと申し上げておきます。働きかけているというのであれば、何か確証を示してくださいよ。私はね、私はもし働きかけて決めているんであれば、やっぱりそれは私、責任取りますよ。当たり前じゃないですか。国家戦略特区の諮問委員会はですね、そんな、すみません、森さん、うるさすぎますよ、後ろで。これ、委員ではないんですから、委員ではないんですから、傍聴。あの、ちょっと注意してください」

山本委員長「静粛に願います。総理、御答弁続けてください。静粛に願います」

安倍「そこでですね、そこで、いわばそこでですね、それを出すというんであればですね、これ大きな被害が被るんですから。マスコミも殺到して。学生たちにもマスコミ殺到しますよ。こういうことをするというんであれば、よっぽどの確信がない限り、ただ安倍政権のイメージを落とそう、安倍晋三をおとしめようということで答弁するのはやめたほうがいいですよ、実名を挙げて答弁するのは」

福島「これが余りに急スピードで展開しているので、そのことについて思っているのです。2016年の11月9日に国家戦略特区でこれを決めます。そして、1月4日に告示があります。ここで文科省の大臣告示を変えて、獣医科を今までつくらないとしていたのを規制緩和をするわけです。そして1月、1月4日から11日、わずか1週間の間、公募をやります。ここに手を挙げるのは、そこの加計学園以外にはありません。
物すごく速いじゃないですか。1月、何と11月に国家戦略特区で規制緩和を決めて、告示を変えるのが1月4日ですよ。告示を変えた直後、1月4日から1月11日の間、わずか1週間の間しか、この今治の獣医学部をやる人がいますかという公募はここでやるんですよ。もうそんなの手を挙げられるところって、もう本当に元々準備しているところ以外にないじゃないですか。
そして、2017年1月20日、国家戦略特区諮問会議で総理はこうおっしゃっています。『1年前に国家戦略特区に規定した今治市で画期的な事業が実現します。獣医学部が来年にも52年ぶりに新設され、医師を育成します』。ものすごく速いですよね。そもそも、決めて、告示をやって、それからわずか、同じ日ですよ、1月4日、まだお正月のときですね、それから1週間、11日までしか公募をしないんですよ。だとしたら、手を挙げられるところは元々予測できるじゃないですか。
なぜこの質問をしているか。国家戦略特区の議長が総理であり、11月9日、そして1月20日、その間ものすごく急スピードなんですよ。これはやはり、この今治市で獣医学部をやって、この学園ということを総理がやっぱり予測していたんじゃないですか」

安倍「もうねえ、その質問自体ですね、先ほど申し上げましたように、固有名詞出したんですから、そういう人たちを傷つけるということを考えて質問しなければ駄目ですよ。
まず、15年間ですね、これ特区は申請され続けてきたんですよ。その間、そうであればですね、ほかの大学だって、じゃ取り組もうと思えば取り組めたわけですよ。しかし、諦め続けずにやってきたところがあったのは事実、それは加計学園だったわけでありますが。(ここから原稿の棒読み)
そこで、民間事業者の選定は、国家戦略特区法の、これは国家戦略特区法の原則に従いですね、公募手続が取られ、学校法人加計学園より応募があったわけであります。、公募期間は8日間としたが、この期間は他の事業と同程度であります。(頭を上げる)
ここだけ速かったわけではないんですよ。大体、まず特区というのは、そんなに長い、国家戦略特区ですから、その前にこれをやるということは大体決まっていて、多くの人たちが知っているんですよ。関係者はみんな知っているんですよ。知っている中においてですね、もうこれはそういう方向で進んでいるということは多くの人たちが知っているんですよ。その中で8日間。それで、ほかと比べてですね、特別短ければ別ですよ。これ、大体ほかと同じですから。(再び下を向く)
その後、6日間の追加申出の手続を行いましたが、他の事業者から応募はなかったわけでありまして、応募の内容については、分科会や区域会議、諮問会議において新設に必要な要件を十分に満たしていることを適切に確認をしております。
なお、獣医学部の新設に関心を持つ事業者や自治体に対しては、特区で取り上げられるに至る前段階から内閣府が随時提案や相談を受け付ける体制を整えています。(顔を上げ自信たっぷりに続ける)
急にたった8日間でやったのではない。もうちょっと勉強してから質問してくださいよ。(また下を向く)
しかしながらですね、しかしながらこの数年間で、しかしながらですね、しかしながら(顔を上げ、ムキになる)いや、それはあなたがこういう問題で疑惑があるかのごとくですね、疑惑のあるかのごとく固有名詞や学園の名前を出せば、これ、多くの人たちが傷つくわけであります。最初に申し上げましたようにね、これ、学校や何かへね、また生徒や親のところにマスコミが殺到したらどうするんですか、責任取るんですか、それは。(再び原稿棒読み)
しかしながら、この数年間、熟度の高い具体的提案は平成19年から出されているこの今治市の事業のみだったと承知をしているわけでございます」

ということは、安倍首相は今治市に加計学園の獣医学部がつくられることを早い時期から知っていたわけです。

福島「この獣医学部に関して、もう需要がきっちりあってですね、新たに獣医学部をつくる必要はないというのが文科省、農水省、そして獣医学会が、獣医師会が言っていたことなんですよ。それを今治市で、そしてまた新たに獣医学部をつくると。これはやはり、なぜ質問しているかといえば、国家戦略特区の議長が総理であり、そしてその決定をしているからです。私は、逆にですね、友達やいろんな近しい人が関与している可能性があるんだったら、むしろそれは注意深くやる、慎重にやる、あるいはやらない、そういう配慮も実は必要だと思いますよ。だってまさに、まさに長年の友人、だって、総理が国家戦略特区で規制緩和をしたことで、総理の長年の友人はこれで利益を受けるわけじゃないですか。利益をこれで受けるんですよ。だから、そのことが大きいというふうに思います。森友学園のことについても今後も追及をいたします」

山本委員長「じゃ、総理、短くお願いいたします。短くお願いします」

安倍「それをね、今疑惑を掛けたまま終えられるから、私は一言付け加えたいと思いますけれどもね。
一校、それは反対しますよ。医学部だって、成田の医学部だって反対しましたよ、医師会は。当然なんですよ、それはね。それは同じ理由で、それは同じ理由で反対しましたからね。そこで一校のみということで、一校のみというのが決まったのが成田における医科大学でありましたね。医大でありますよ。同じことがこっちでも起こっているわけで、そこで私と知っているんであれば、それは止めるべきだと。そこを私は裁量、裁量を行使していいんですか。裁量を行使していいわけないじゃないですか。ということをはっきりと申し上げて、答弁を終えさせていただきたいと思います」

福島「以上で終わります」

「責任を取れるんですか」と何度も言ってますけど、自分がちゃんと答えないから、みんなおかしいと思うことに気づかないのでしょうか。


安倍首相の答弁を見て、それでもやっぱり安倍ファンだという人がいたら、教祖を盲信する信者みたいなもんです。

福島みずほさんの講演に戻ります。
国会議員は政治・行政をチェックするのが仕事なのに、質問に対して「責任とるんですか」と何度も恫喝をするのか。
質問主意書を前もって渡しているのにもかかわらず、どうしてこんなにキレるのか。

愛媛県文書には、2015年2月25日、加計孝太郎さんが安倍首相に会った際に「今治市に設置予定の獣医学部では、国際水準の獣医学教育を目指すことなどを説明(略)、首相からは「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」とのコメントあり」と記されている。
ところが、加計学園の渡辺事務局長が「獣医学部を形にしたいという思いで、ふと思ったことを言った」、つまりウソだったと説明した。
そして、加計孝太郎さんは安倍首相と会ったこと否定した。
渡辺事務局長も愛媛県に対してウソを言ったのに、加計学園をクビになってはいない。

藤原国家戦略特区室長が岡山に行ったとき、加計学園の車に乗せてもらっている。
利害関係のある業者に世話をしてもらったことが明確になった。
柳瀬秘書官が国家戦略特区の利害関係者に会ったのは加計学園だけで、2015年に3回会っている。

安倍首相は2017年6月に、加計学園が今治市に獣医学部をつくりたいということを、国家戦略特区の前の構造改革特区のときから知っていたと答えている。
ところが7月になると、「2017年1月20日に初めて知りました」と答弁している。
2017年3月での質問では、「あきらめないで15年間もがんばってきたのは加計学園だけなんですよ」と言っているのに。
なぜ答えを変えたのかを安倍首相に質問すると、「急に質問されたので勘違いした」と言う。
しかし、質問主意書の回答にも「構造改革特区のときから知っていた」と答えている。

原発で虚偽答弁をするとか、企業が内部告発で嘘がばれるとかあると、責任者が更迭されたり、当事者が謝罪したりしているが、森友・加計問題では嘘に嘘を積み重ねて平然としている。

「国会にいると、一日一日、民主主義を壊している音がする、みたいな感じなんです」と福島みずほさんは言っています。
財務省の高官が国会で嘘の答弁をし、公文書の改竄が行われているのにもかかわらず、誰も責任を問われないまま収束している事態を見ると、国会議員でなくても日本はもう終わりだと思います。
与党がカジノ法案を強引に成立させ、カジノ誘致に乗り出す自治体の浅ましさを見ると、ため息しか出ません。


『ひっつきもっつき』

2018年05月29日 | 日記

娘が幼稚園の参観に行き、孫(娘の娘)と「ひっつきもっつき」をしたと、歌と身ぶり付き話してくれました。



(「ひっつきもっつき」は1分55秒から)

どんな歌なんじゃろうと思ってネットで調べると、まず「ひっつきもっつき」は方言だと出てきます。
さらに調べると、岡山、広島、山口、福岡で使われているようです。(山口、福岡はちょっと違う言い方もある)
いやはや、方言だとは知らなんだ。

オナモミのように服などにひっつく植物の名前が「ひっつきもっつき」で、それが転じて、子供が親にひっついて離れなかったり、仲が良くていつも一緒にいる人たちのことを「あんたら、ひっつきもっつきじゃねえ」と言います。
私は後者の意味しか知りませんでした。

「ひっつきもっつき」を作詞したケロポンズの平田明子さん(左の人)は広島育ち。
平田明子さんは「ひっつきもっつき」が広島弁だとは知らなかったのではないでしょうか。
これで「ひっつきもっつき」という言葉が全国で使われるようになればちょっとうれしい。


夜這いの不思議

2018年05月21日 | 日記

江馬修『山の民』は、明治2年、高山で起きた「梅村騒動」と呼ばれる農民一揆を描いた小説(1938~1950年)です。
江馬修は小説を書くにあたり、古老に聞き取りをするのですが、夜這いについても聞き、小説の中に取り入れています。

飛騨の村々では、この時代にはまだ、よばいの習俗が若い独身者の特権のように思われていた。いわば結婚前に於ける青年男女はその性的自由を一般に公認されていたのである。そしてやや誇張して云えば、の若連中は、おなじ内の未婚の娘たちを、いわば共同的に管理していた。彼らは毎夜のように、気のむくままに、各自が好きな女のもとへかよっていたし、頬かぶり小屋はまたおのずとそうしたばあいの本拠地ともなっていた。(略)
いったい農家ではどこでも戸締りというものがなく、夜間の出入りはまったく自由だったし、物を盗まないかぎり、よばいどに対してあとから故障や苦情が出ることもなかった。しかし、どうかすると、家によっては頑固なおやじや年寄がいて、けっして若いものを寄せつけぬ所があった。そういう家のものは、当然若連中の憎しみの的となって、いろいろな仕方で制裁や復讐をうけることになる。(略)
もし拒否するものが親たちでなく、娘自身であるばあいには、彼女は若連中から一せいにハチブのあつかいをうける。だから彼女はおぼこ(処女)として嫁入りができるわけではあるが、「村の若い衆から誰にも相手にされなかった」という不名誉を甘受しなければならぬというわけだった。


赤松啓介氏(1909~2000)は夜這いの実体験と見聞を『夜這いの民俗学』などに書いています。

昔の夜這いでは、年上の娘、嬶、後家などがそのアジワイを若衆に教育し、壮年の男たちは水揚げした娘たちを訓練したのである。(略)
僕などの経験した結果からいえば遊郭や売春業者たちから手ほどきされるより、はるかに懇篤、かつ貴重な訓練であったというほかはない。

若衆入りは13歳か15歳、夜這いは若衆入りと同時にはじまる。
若衆入りの際の相手はどこでも後家さんが主体で、後家さんが足りないと40歳以上の嬶が相手をしてくれることになる。
娘は月経があってからというところがあるし、陰毛が生えてからというムラもある。
年長者による性教育というわけで、獅子文六『てんやわんや』に出てくる夜這いはこれですね。

当時、小作農の家は、だいたいが四間程度で、娘は奥に寝かされていた。
親も自分たちが夜這いしてきたから、娘のところに夜這いが来るのは当たり前と思っている。
娘の気に入っている男には、昼間、娘から誘うこともあったが、気に入らない男の足音がすると、戸を閉めてしまう。

やり方、相手などは字(あざ)ごとに多様である。
ムラの女なら誰に夜這いしてもいいところもあるし、未婚の娘と後家、女中だけを開放しているムラもある。
よそのムラの者はだめだとか、よその若衆なら嫁は許されないが、後家や娘はかまわないとか、字(あざ)ごとにならわしが違う。

戦前まで、一部では戦後しばらくまで夜這いは一般的に行われており、昭和30年代には神戸市の北部でまだ残っていたそうです。
赤松啓介氏は10歳で近所のオバハンとコタツで性交、11歳で射精。
「もう十一、十二になったら性交をやらせる教育しないとほんま子供がかわいそうだ」と過激なことを言っています。

ところが、山下惣一『一寸の村にも、五分の意地。』を読むと、そんな簡単なものではない。
山下惣一氏は1936年生まれ、中学を卒業してすぐに農業をついでいるので、昭和20年代のことでしょう。
先輩が娘の家に忍びこみ、一定時間がすぎると、かならず親父さんに追われて脱兎のごとく飛び出してきた。
一度だけ、侵入に同行した。

抜き足、さし足で娘のところに近づいて、すすけた天井にぶら下がっている二燭光の薄ぼんやりした光の中で目をこらしてみると、蚊帳の中で父親と母親の間にはさまれて、川の字になって眠っているのが当の娘なのだから、なにかができるわけがない。個室なんて夢のまた夢の時代なのである。
先輩は、じつに辛抱強く、父親のいびきや母親の寝息の変化に息を止め、動きを止めて長い時間をかけて目的地へ近づいていった。(略)
ところがいけない。娘さんのズロースを少しずつおろしはじめて、やっと股間の繁みがのぞけるほどになった時、なぜか、父親が大きなくしゃみをした。(略)その時、父親は一瞬目ざめたらしく「ん?」というようにつぶやいて頭をもたげた。
先輩は娘さんの足元の布団にはりついて息を殺していたが、何を思ったのか、あるいは思わずやったのか、「ニャーオ」と猫の鳴きまねをした。じつにうまくやった。
「なんだ、猫か」と父親がつぶやくのに、馬鹿な先輩は「はい」と返事してしまって、追われた。

なるほど、親と一緒に寝ているのに、娘の布団に入るのはたしかに難しい。

その時からぼくは、この労多くして実益の少ない夜這いなるものに幻滅した。先輩たちから伝わってくる話はかなり脚色されたものだと考えるようになった。
だから、ぼくらの世代になると、夜這いはすたれた。もっと効率のよい方法を考え出したのである。公民館でフォークダンスをはじめたのだ。娘たちは、夜の外出を許さない親の反対を押しきって、一人残らず集まってきた。
ダンスをやりながら「どう、今夜」と個別に交渉した方がはるかに効率的だし確率は高い。


今東光『好色夜話』にはこんな説明があります。

昔から夜這いというのは、まった見ず知らずの女の許へは容易に這い込めないものと言われている。中にはそういう勇敢な奴が冒険心に駆り立てられて決行するのもないではないが、それには幾多の難関を越えなければならなかったのだ。先ず吠え立てる犬を手なずけ、雨戸をはずすという、まるで泥棒みたいな方法を取らなければならない。そして漸く辿りついた女は見知らぬ男を痴漢と心得て声を立てたり騒ぎ立てる。それを鎮めるには一方ならぬ手段を要するのだ。しかもおおむね失敗に終るのだ。まして家人に気づかれたが最後、下手にまごつくと大怪我をしなければならない。殴られるくらいは覚悟の前で、袋叩きにあって戸板でかつがれて戻ることさえあるのだ。こんな器量の悪い話があるだろうか。
そこで大方の夜這いというのはあらかじめ女と示し合せ、門の鍵をはずし、雨戸も開き易くしておいてもらうので、うまうまと成功するのだ。女の手引きなくして成功することは困難なのである。

夜這いは簡単にできるものかどうか、赤松啓介説と今東光説、どちらが真実なのでしょうか。

ずっと以前、明治か大正生まれの人に「夜這いをしたことがありますか」と聞こうと思ったことがありますが、その勇気がありませんでした。
今から思うと聞けばよかった。


平安時代から明治時代までの結婚(3)

2018年05月13日 | 日記

・独身
結婚と同棲はどう違うか、通い婚と夜這いは同じか、これは結婚という制度があるかないかということではないかと思います。

平安時代の摂関期や院政期には、正式な結婚をしなかった、あるいは、できなかった男女が多い。
貴族層の女性は、父母から家屋や財産を相続したから、結婚しなくても生活でき、兄弟の援助を受けられたため、一生独身で暮らした貴族女性は結構いた。
女房勤めをする女性たちも、正式な結婚をしない人が多かった。
独身といっても、まったく男性と交渉がなかったわけではなく、男を通わせたこともあっただろうが、社会的に公認された妻ではない。

京都の庶民層の男女や、地方の在地領主の従者や下人層には、結婚して家庭を持つことができなかった人々が多くいたにちがいない。

江戸時代、結婚しない男は、武士、商人、職人を問わず、非常に多く、結婚しなくても普通くらいだった。
13歳くらいで中小店に丁稚で入り、独立するまで十数年以上かかる。
棒手振り(物売り)ではその日暮らしだから、妻帯は難しい。
商家の奉公人は大店で40歳を過ぎ、中小店だと39歳過ぎて結婚したが、大店のほとんどは京都に本店があり、結婚が許されても、妻は出身地に居住していて、夫が妻に会えるのは数年に1度くらいだった。

独身者の受け皿として妾や遊郭が多かった。
妾にも、二月縛りで金5両から2両くらいまであった。
江戸後期になると、下級武士や小商人までもが妾を囲うようになった。
数人の男が金を出しあって1人の女を共通の妾とすることもあった。

・離婚と再婚
男が女のところに通ったり、一緒に住むことが結婚したことになるかどうか、その時代や階層によって違ってくると思いますが、離婚ということは結婚という制度があってのことなのでしょう。

中世においては、婚姻に婚姻届が必要とされず、離婚も届けを出す慣行も規則もなかった。
戦国期には、「離縁状(去状)」の有無によって、たしかに離婚しているかどうかの判定が戦国大名によってなされる。

鎌倉期・戦国期は武士、百姓どちらの階級においても、離婚権は夫側にあった。
妻側から離婚しようとすれば、妻が家を出て、その後、夫側の承認が必要だった。

離婚、死別による再婚、再々婚は一般的だった。
曾我兄弟の母親は3度結婚している。
毛利興元(元就の兄)の娘は4人の夫をもっていた。
フロイス「ヨーロッパでは、罪悪については別としても、妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる」

江戸時代も離婚・再婚は多く、武士の離婚率は11.23%、再婚率(夫死亡後、離婚後、婚約破棄後、婚約者死亡後を含む)も58.65%。
男は45歳以前、女は30歳以前に離・死別した場合、8割以上が再婚した。

武家の場合、男子を産んだ女は、夫が若死にしても再婚することはほとんどなかったが、子供が女子だけの場合は、身を引いて再婚するのが一般的。
農村では、女性の多くは実家に戻ったまま再婚しないのがほとんどで、男の再婚率のほうが高い。
また、女性は36歳を過ぎれば再婚はしないが、男は40歳以上でも再婚する場合があった。

結婚の妻に多額の持参金を払い、多くの道具、衣裳を持ってきた。
離婚に際して、夫は持参金を妻に戻し、妻が持ってきた道具や衣裳などは持ち帰ることになった。
慰謝料の支払いや持参金の返還では男女平等だった。

大名の結婚にあって、持参金等の経済的負担を軽減するために、娘は自分の家より若干低い家格の家と縁組する傾向があり、再婚となるとさらに低い家が選ばれる。
妻の多くは夫の家格より高い実家を後ろ盾にして家庭内で夫に優位を保っていた。

江戸時代は男尊女卑の時代といわれているが、庶民の女性は生き生きとしており、夫が勝手気ままに妻を離婚していたわけではない。
他に女ができ、その女と結婚するために妻を離婚することは認められなかった。

妻から離婚したい場合は駆け込み寺があった。
3年間、寺に入る場合は、生活費として5、6両を払った。
夫がすぐに離婚を承知しても、関係者への謝礼金が必要だった。

離婚を請求した者が慰謝料を支払った。
数十両から100両を持っている女性でないと、妻からの離婚請求はできなかった。

庶民、特に農民の妻は重要な働き手であり、糸繰りや機織りによる現金収入によって生活を支える技術と能力を持っていた。
夫からの離婚状の受け取りを拒否する女房や、嫌いな夫のもとを飛び出す女房もいた。

高木侃『三くだり半と縁切り寺』によれば、男尊女卑の傾向は明治中期以降に強められ、作り出されたものだそうです。
「女房と畳は新しいがよい」ということわざは、江戸時代にはあまり口にされず、男尊女卑が強制された明治中期以降に男性にもてはやされた。
「女の一人や二人は男の甲斐性」といった言葉も、明治以降に人口に膾炙されたものである。

昔からの伝統だと言いますが、明治中期以降からの伝統が多いのではないかと思います。


平安時代と明治時代の結婚(2)

2018年05月08日 | 日記

・家の成立
学者によって違いがありますが、家という概念が芽生えるのは10世紀前後か、10世紀以降のようです。
まず中央貴族や地方豪族層から、官職を父から息子へ伝えることが大きな理由となって生まれた。

11世紀(摂関期)になると、父系の家柄や家格が決まってきて、母方の血縁はたいして問題にならなくなる。
女性の出自が問題にならなくなることは、女性の社会的地位の低下の結果である。
そして、父子継承は11世紀末(院政期)に成立した。

家がどの階層にも浸透したのは院政期(11世紀)という説と、武士層の代々継承される家の形成は鎌倉期からであり、庶民層の家意識はそれよりもう少し後のことだという説があります。

もっとも、それは身分、階層がある程度上の話だと思います。
鎌倉時代、領主の家の下人が他の領主の下人の子供を産んだ場合、生まれた子供が男なら父に、女なら母につける。
そして、下人の家庭生活がどちらの領主の屋敷で営まれていたか、子供はどちらの家で養育されていたかが基準となる。
主人が必要となれば、下人の妻が妊娠中であっても、夫の下人は売却された。
産まれた子供の帰属が本主と買主との間で相論の対象とされ、産まれた子供が父に付すとされることもあった。
家といっても、下人の場合はあってないようなわけです。

家が成立すると、家政全般の切り盛りが女性の役割となり、同居する妻がこの役割をはたす。
応仁の乱後、妻の役割の一つが祖先祭祀で、家の祖先の追善仏事が自邸で行われるようになり、妻が自邸の祭祀空間に僧を招き、堂荘厳、斎食の手配をした。
正忌・月忌は父母を中心に、祖父母、曾祖父まで行われた。

・婿取婚と嫁入婚
男が女のもとに嫁す婿取婚が、女が男に嫁す嫁取婚へと次第に変わっていきます。
「嫁入り」は本来、婚姻の後、妻が婿の家に初めてはいることを指し、その意義も、夫の家に対する挨拶以上のものではなく、二人の新居または妻の家に帰ってきた。
したがって、夫婦生活の基礎がまだ夫の家になかった。

ところが、婚姻後、夫の家の仕事を手伝ったりすることが重なるにつれて、嫁はしだいに夫の家の一員と見なされるようになる。
その後、夫婦は夫の家に移り、嫁が夫の母親にかわってその家の家政をとりしきることになる。

夫の家に夫婦ともに同居する習俗が進むと、短期間のうちに夫家に移り住み、やがては嫁が直接、夫家に入るかたちに変化する方向に向かう。
こうして次第に「嫁取婚」へと移行する。
嫁取婚が始まるのは、高群逸枝は室町期、田端泰子氏は鎌倉期から始まったとします。

もっとも、娘が他家へ嫁ぐということは、労働力が移ることを意味したから、江戸時代でも、働き手として重要な存在である娘をすぐに嫁がせるわけではなく、子供が産まれるまで、里方から通わせる形をとったところも多い。

中世のはじめ(平安末期?)には、夫婦別居、母子同居が普通だった。
夫婦は別姓だったが、居住形態が母子同居であっても、子供のうち、女子は母方の、男子は父方の姓を名乗った。
母子同居から夫婦同居へと変化するのは、鎌倉期に入ってからのこと。
鎌倉中期以降、武士階級では嫁取婚が普及しはじめた。

結婚儀式は10世紀ころから娘に婿を取る形態で行われるが、一夫多妻であり、どの妻とも儀式を挙げることが多かった。
11世紀中ごろまでは、結婚当初は夫が婿入りをして妻の両親と同居するが、一定期間たつと、妻の両親が未婚の子供たちを連れて別の邸宅に移住したり、子供の夫婦が別の邸宅に移住する。

貴族層の家が12世紀前半(院政期)に成立すると、婚姻形態は婿取婚であり、一夫多妻であるが、夫と同居した妻が正妻とされる。
妻の両親とは同居しなくなり、結婚当初から子供の夫婦だけの居住となるが、夫の両親と同じ屋敷内に同居することは一般的ではない。

貴族の家では、鎌倉期までは夫方居住婚になっても、息子夫婦が夫の両親と同一屋敷に居住することは一般的になかったが、徐々に婿取婚から嫁取婚の傾向を持ちはじめる。

南北朝期になると、居住形態に変化があらわれ、父夫婦と息子たち夫婦が同一屋敷にそれぞれ別棟で居住するようになる。
息子たちの婚姻形態は嫁取婚である。
兄弟が同一屋敷に居住し、息子たちはそれぞれの住居に妻を迎え、それぞれに膳所があるので食事部分は独立している。
妻が死去すると再婚し、その時々で一夫一妻となっている。

室町期になると、嫡子夫婦だけが父と同一屋敷に別棟居住し、他の息子夫婦は父の屋敷の隣接地に居住するようになる。
つまり、嫡子以外の息子は、結婚すると父の屋敷から出る。

戦国期は、公家は嫡子一人を残して男子は僧侶になるか、他家の養子となり、一子相続が主流になる。
嫡子が妻を迎えるときには嫁娶の儀式を行うようになる。


平安時代から明治時代までの結婚(1)

2018年05月04日 | 日記

平安時代と明治時代の結婚に関する本を読むと、早婚である、離婚が多い、仲人の存在など、共通する点がけっこうあります。
明治中期まで、結婚や性的倫理は平安時代の考えが続いていたかもしれないと思って、中世と近世の結婚についても本を斜め読みしました。
続いていると思われることもあれば、家の成立と婿取婚から嫁取婚へといった変化もあります。

中世とは、鎌倉室町時代だと思ってましたが、田端泰子氏によると、鳥羽院政期から戦国期の終わりまでで、院政期から鎌倉後期までを中世前期、それ以降が中世後期だそうです。

・早婚
「養老令」では、男は15歳、女は13歳以上になれば結婚でき、平安時代には13~17歳の年齢でたいていの女性が性的体験を1回、ないし持続的にもっており、処女性は重んじられなかった。
江戸時代の女の適齢期は16~18歳。
東北地方は平均初婚年齢がきわだって低く、明治15年に岩手県では、夫17.07歳、妻14.09歳。
全国平均が夫22歳10月、妻19歳4月で、現在と比べると全国的に早婚だった。
東京下町の商家でも、娘盛りは14歳から17歳までとみなされた。

赤松啓介氏によると、少年が若衆入りして夜這いをするのは13歳か15歳、娘は月経があってからというところがあるし、陰毛が生えてからというムラもある。
赤松啓介氏は1909年生まれですから、大正から昭和にかけてのことでしょう。

湯沢雍彦氏は、明治では離婚・再婚が多かった理由の一つとして、処女性が求められなかったということがあるからだと書いています。
フロイス(1532~1597)「日本の女性は、処女の純潔をなんら重んじない。それらを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない」

女性でも離婚再婚を繰り返すことが多く、一人の夫と生涯をともにすることが女性にとって幸福だとか、道徳的であるとかの倫理が確立していない、女性にとって性的には後世より自由であり、貞操観念が未成立だったこともあると、服藤早苗氏は書いてます。
しかし、後世でも性的に自由であり、貞操観念もあまりなかったようです。

・身分内婚
平安時代の結婚は、基本的に身分内婚で、庶民は共稼ぎだった。
相手をどうやって見つけていたかというと、恋と結婚の区別は上層貴族以外はそれほどなかったと思われ、お互いに気に入って通っているうちに、夫が住みつくようになった場合も多かった。

鎌倉、室町時代は、婚姻は家の問題で、血縁関係と姻戚関係が重要な結束の紐帯だと考えられ、幕府が介入したり、大名が介入したりした事例はごく少数だった。

政略結婚が戦国時代から顕著になり、家臣掌握の手段として家臣の婚姻を規制した。
家の存続にプラスとなるかどうかを検討し、慎重に相手選びをしていた。

近世の農村女性の結婚は中世から引き続き、家と家の結びつきを主な目的にし、後継者づくりを結婚に期待した。
武士の結婚と違って、幕府や領主の許可は必要でなかったが、領主の異なる村や町の間の農民の結婚の場合は、相手の領主や村名主に届け出ることが必要だった。

上層農女性の場合、正式な結婚は仲人が必要であり、親族による縁談相手の家格や経済力、その他の調査をし、本人はその決定に従った。

農村では同じ村で顔なじみなので、自由な恋愛がしやすかった。
婚姻は家が同格なのが基本だが、家格が合わないと反対されたとき、若者組が嫁盗みをして応援した。
夜這いを重ねていたからこそではないでしょうか。

江戸時代、武家の結婚は命令で、商家は親が決めた。
長屋に住む庶民はまわりから勧められる。
明治の東京の下層階級では、婚約や仲人はなしで同居するという結婚は、昭和30年代の高度経済成長期直前まで続いていた。
下に行くほど自分の意思が通りやすくなるわけです。

・仲人
平安時代には男女がどこで知り合ったかというと、貴族から庶民まで、祭や寺社・辻が男女の出会いの場だったと、服藤早苗氏は言います。

森下みさ子氏によると、江戸時代の見合いは、水茶屋で男が座ってお茶を飲んでいるところに女が通りかかるという形で、見初めるが見合い。

男女を結びつける媒(なかだち)・仲人という役割が平安時代に生まれてくる。
村落内のように、日ごろから当人同士が知り合っている場合は、見合いは必要ない。

農村でも婚姻圏の拡大にともない遠方婚が起こった。
その理由のひとつに、政治的な意図から婚姻すべく、遠方からの嫁入りを進めた武家の婚姻の影響がある。
遠方婚から要請されてくるのが、両家をとりもつ仲人という存在である。
雑多な人間の集まる都市でも、誰かの世話がないと縁談には進めないので、仲人の役割が大きくなる。

仲人は持参金の十分の一の礼金を取り、商売として成り立った。
近世から昭和初期くらいまでの農民の婚姻は、仲人を立てるのが普通だった。
仲人は嘘やだましもあり、年を10歳ごまかしたり、見合いには瓜ざね顔の妹を見せ、祝言にはかぼちゃ顔の姉が嫁いだりした。

引用した本です。
服藤早苗『平安朝の母と子』
田端泰子『日本中世の社会と女性』
田端泰子、細川涼一『日本の中世4 女人、老人、子ども』
後藤みち子『中世公家の家と女性』
保立道久『中世の女の一生』
菊地ひと美『お江戸の結婚』
森下みさ子『江戸の花嫁』
増田淑美「農村女性の結婚(『日本の近世15』)
高木侃『三くだり半と縁切り寺』
湯沢雍彦『明治の結婚 明治の離婚』
赤松啓介『夜這いの民俗学』

(追記)
平雅行氏によると、結婚(家族)と財産の相続とは関係があります。
院政時代になると、家父長制的な家族の成立した。
荘園公領制が成立して不動産の私有が認められ、それを家の財産として男子が相続するようになった。
これによって家族のあり方が変わっていく。
夫婦の一体性が強まって、夫婦が同じ墓に入るようになるし、夫婦の財布も別々から一つになる。
男性中心の家社会が貴族階層で成立したことで、女性差別観が貴族社会に広まる。
得をした女性は正妻。
もともと日本では正妻という概念がなく、正妻と妾の区別がなかった。
それが、正妻の地位が確立し、正妻は家の中で大きな権限を持つようになる。

女性差別観は戦国時代に民衆の中に広がっていく。
10世紀に中国で成立した『血盆経』信仰が戦国時代から広まる。
女性はお産や月経の血で大地を汚す罪を背負っており、そのため血の池地獄に堕ちるというもの。

このころ、百姓でも家父長制的な家族が形成された。
もともと百姓の家は不安定で、すぐに壊れたが、百姓の生活が安定してきて財産を持つようになると、家の財産を男の子に相続させるようになった。
こうして永続的な家が百姓の世界に登場する。
それは、女性の地位の転落をもたらしていく。